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その土地に時間の概念は薄い。一日、一月、一季、一年。何一つ知りうる手段がないからだ。人が過去と未来と何より今を授かるべき天は、都市を覆うように捻じれて傾き円蓋状になった巨大な城壁によって鎖され、昼も夜も運命も永遠に隠されている。
都市の中央にはまるで城壁を支えるただ一つの柱であるかのように巨大な金剛樹が聳え、極彩色の枝葉を伸ばすも狭苦しそうに城壁に沿って捻じれている。大地に張った根もまた嵐海の如く波打ち、人に気づかれない遅々とした速度ではあるが徐々に都の建造物を歪めている。太い幹もまた何者も通さない城壁に抑えつけられているために微妙な弧を描きつつ、太陽と月の代わりに閉鎖空間の内部で膨らみ続ける都市と暗鬱な都人の人生を照らすには及ばないが、絢爛に煌めいている。
円蓋城壁に鎖された都市は不気味に拡大している。もはや見渡す景色もない都に取り残された望楼だったものは巨大な集合住宅の柱となり、今や忘れ去られた雨風なる現象から守っていた高閣の屋根はさらに大きな楼閣の土台になっている。
かつては金剛樹に寄り添うように存在し、神秘を外敵から守護するべく堅牢だった王城も、今では柔軟に増築を繰り返し、回廊と露台が金剛樹を取り巻く蔦のように伸びて金剛の樹皮に絡まりついている。
金剛樹に喰い込むように伸び、枝分かれする通路の一つを進む者たちがいた。どちらも仮面付きの帽子と外衣と長靴が一体になったような奇妙な衣を纏い、片方は、もはや若い者が見たこともない黄昏の色。もう一方はくすんだ鼠色の外套だ。外見では年齢も性別も判然としない。
「侵入者……。本当なんですかね?」もう一人の返事を待たずに鼠色の外套の男は続ける。「拷つ者様。僕は狂人の戯言だと思いますよ。旧市街にはその手の輩に溢れていますから」
「それを確かめるのがワタシたちの仕事。そうじゃない?」バサニスキュオンもまた返事を待たない。「聞いた話じゃ金剛樹の枝にいる所を発見されたらしいけど。もしも狂人だとしたらどうやってたどり着いたんだろう?」
「別部署では衛兵が詰められてるみたいですね。あいつらよく怠けてますから、見逃したんでしょう」
「王はお怒り。長い平和を築いてきたダーケオ王国の危機だからね。もしも城壁に抜け穴があるならばすぐに塞がないと」
「城壁の魔術師、シュダ様はなんと?」
バサニスキュオンは窓から見える景色を眺める。金剛樹に照らされたダーケオ王国の都と、その光に照らし出されてなお鬱屈とした城壁を。
「城壁は不朽にして無疵。人が出入りする余地などないってさ」
「バサニスキュオン様でも破れないのですか?」
「光の枝。ワタシが城壁を破れたなら、何だというんだ?」バサニスキュオンは立ち止まり、光の無い仮面の覗き穴からアイルータの仮面を覗き込む。「ワタシが侵入者を手引きしたとでも?」
「いえ、金剛樹にかけてそういうわけではありません。ただ、バサニスキュオン様がシュダ様に比肩する魔法使いであることは誰もが知っていることですので」
バサニスキュオンは溜息をつき、かぶりを振る。
「人には向き不向きというものがあるんだよ。城壁が人だったならワタシの力で屈服させられようが……。ダーケオ王にかけてそのような真似はしない」
「もちろん。分かっておりますとも。さあ、急ぎましょう。王が答えを待っておりますよ」
アイルータの背中を追って、バサニスキュオンはある部屋にたどり着き、扉を押し開く。
窓のない暗い小部屋だ。人を傷つけるための邪な道具、魔の器具に溢れた部屋だ。その真ん中に一人の娘がいた。目隠しで覆われ、猿轡を噛まされ、椅子に縛り付けられて拘束されている。明るい茶髪は珍しくもないが、その服装は上等な品であることが一目でわかる。素朴な意匠だが、類い稀な手を持ち、おそらく魔法にも通じている仕立て屋が、ありふれてはいるが上質な布や糸でもって縫い上げた逸品だ。そしてそのような品も腕も素材も何も、このダーケオ王国には存在しないことをバサニスキュオンは知っていた。
侵入者だ。拷問するまでもない事実だ。しかし、どうやって侵入したのかは、その娘の頭の中に秘匿されている。それを聞きださなければ、王国の安寧秩序に関わる危難であるとして王の怒りに触れる。
そして、バサニスキュオンが狭苦しい土地で王と樹を崇める狂信者たちから逃れ、肥溜めの如き悪辣な閉鎖空間から脱出することは叶わない。
バサニスキュオンにかかれば忠実な者や口の堅い者がいかに秘密を堅守しようとも必ず暴き出す。王国に侵入する方法はそのまま脱出する方法でもあるはずだ。しかしそれを他者に、王に、あるいは王に忠実なアイルータに知られるべきではない。もしも王に知られれば、城壁の魔術師シュダに知られれば、瞬く間に僅かな隙間も埋められ、バサニスキュオンは永遠にこの土地に囚われ続けることになる。
「何だ。小娘じゃない」と拷問官バサニスキュオンは呟く。「ワタシ一人で事足りそうだね」
小娘を見つめるバサニスキュオンの視界の端でアイルータが上司の方に顔を向ける。
「もちろん僕も同席しますよ。どれほど簡単な仕事でも、僕はバサニスキュオン様から多くを学ばなくてはなりませんから」
「別に出て行けとは言ってないよ。簡単な仕事だって話」
「ならば代わりに僕がやりましょうか?」
「駄目!」と強い語気で遮り、内心焦って声を絞る。「万が一にも死なせれば、潜在的脅威を見過ごすことになる。ダーケオ王の名にかけて慎重な仕事が求められる」
直前に簡単だと言い切ってしまった手前おかしな台詞になったが、アイルータは納得した様子で頷く。
バサニスキュオンは棚に並んだいくつかのねじ締め具の中から指用のものを取って、侵入者の右手の細い指に猟犬のように忠実な呪文と共に固定する。そうしてから猿轡を外す。
途端に小娘の唇と舌と喉が艶やかな声で呪文を唱え始めた。洗練された熟練された淀みない詠唱だ。自信に満ちて大胆で、謙虚にして慎重な言葉の洪水だ。が、バサニスキュオンが懐から取り出した小刀を口内に差し入れると黙る。舌も喉も刃に触れなかったが、バサニスキュオンはかちかちと刃の腹を歯に当てる。
「お嬢さん。君に自由に喋らせるために猿轡を外したんじゃない。ワタシの問いに答えるために、だ。いい? 問いに答える時以外は喋らなくていい」
侵入者の小娘はゆっくりと頷き、目隠しの向こうからバサニスキュオンを見つめる。
「分かったよ。何が知りたいんだい? 何でも聞いとくれ」
「そうだな……」バサニスキュオンは口籠る。アイルータを追い出すにはどうしたものか、と思い悩む。「いや、待て。何? この爪は」
バサニスキュオンは小娘の傍らに膝をついて拘束された指の先を凝視する。
目隠しされた娘は首を傾げて答える。
「何の変哲もないはずだけど」
「伸ばしすぎ。全く、油断も隙もない。魔法使いというのはこういう爪に力を隠したりするんだ。悪いが切らせてもらう」
バサニスキュオンは小刀を侵入者の指からはみ出した爪に押し当て、切り落としていく。少しばかり指が震えていることに気づく。
「そう、質問だった。一体何が目的でここへ来た?」
バサニスキュオンが最も知りたいのは手段だが、アイルータに最も知られたくないのも手段だ。
「ここに限ったことじゃないけど」と侵入者の娘は前置きする。「強力な魔法を求めて旅をしているのさ。あのぴかぴかした樹は鞄に入りそうにないけどね」
「何のために?」
バサニスキュオンの指は巧みにまた次の爪を切り落とす。
「何のためにってことはないだろう? 魔法使いってのは探究者さ」
「強力な魔法とやらを何に使う?」
「さあ、何だろうね。何かしらに使うだろうけど――」
侵入者が小さな悲鳴を漏らす。その指の先で血が滲む。
「ああ、すまない。深爪してしまった。大丈夫。大した怪我じゃない。そんなことより、適当に答えるのはやめてくれ。驚いて手元が狂ったんだ」
侵入者が忌々しげに、あるいは痛みを堪えるように下唇を噛んでいる。
「待ってください」とアイルータが口を挟む。「どうやって入って来たか、以外に聞きたいことなんてないですよね?」
「ああ、そうね」
全くもって反論の余地なくその通りだ。しかし他の誰にも知られるわけにはいかない。
「どうやってって、あんたたちがこの部屋に連れてきたんだろう?」
再び侵入者は悲鳴をあげることになる。同じ指の腹が削れ、血が滴る。
「ワタシの想定していない答えを聞かせないでくれ。気を付けろ」とバサニスキュオンは忠告する。
「この期に及んでふざけた奴ですね」とアイルータが呆れる。
「別にふざけちゃいないよ」指先の痛みに堪えながら侵入者が言い返す。「この部屋じゃなけりゃどこに入ってるって言うんだい!? 分かるように質問してくれないかね」
その若い侵入者は本気でそのように言っているようだった。自分がどこにいるのか分からないとでも言うのだろうか。
「不朽の城壁に囲まれたこのダーケオ王国にどうやって侵入したかだ。質問の意味が分かるか?」
「城壁? ダーケオ王国? さっぱりだよ。あのぴかぴかのどでかい樹の下にあった街のことかい? 侵入だか何だか知らないけど、あたしは――」
バサニスキュオンは爪ではなく指を深く切りつけ、少女の喉が軋む悲痛な呻き声にかき消される。細い肢体がびくりと跳ねるが椅子は固定されたようにびくともしない。
「どうかしました?」とアイルータに尋ねられる。
「何が? 平常通りに仕事をしているつもりだけど」とバサニスキュオンは答える。
「いつもと比べて、どうもまどろっこしいですね。それに、ねじ締め具、使わないんですか?」
「物事には順序というものがある」
「それに手段より目的を優先しましたね。なぜです?」
「目的から手段を類推する場合もあるだろう」
アイルータは仮面の奥から疑わしげにバサニスキュオンを見つめる。
「まあ、いいです。僕が代わりましょう。バサニスキュオン様は疲れているんです。僕の仕事を監督してください」
頼むような言葉だが、有無を言わさぬ語気だった。バサニスキュオンは少し迷うが、これが王の耳に届いて疑われでもして過度な命令か、あるいは剥がされでもすれば脱出が遠のく。
「まあ、良い」ここは素直にアイルータに仕事を任せることにする。「順序を忘れないように」
「さあ、知ってることを話してください」アイルータは張り切っている。「特に不朽の城壁の侵入方法です。それさえ分れば他のことはどうでもいいです。早く解放されたいでしょう?」
侵入者は口元だけでにやりと笑う。
「あんたには知りえない強力な魔法だよ。ああ、いや、バサニスキュオンは知って――」
小さな部屋に激烈な苦鳴が響き渡る。今にも拘束が破壊されそうほどに激しく身悶えし、唾がとめどなく溢れ、刺し貫くような悲鳴が稲妻の如く迸る。まるで巨人に全身を握りつぶされんとしているかのような有様だ。
鼠が踏みつぶされたような嫌な音と共に侵入者の左手の指がねじ切れ、悲鳴は啜り泣きへと変わる。ねじ締め具と五本の指が落ち、とめどなく血が溢れる。
「やり過ぎ」とバサニスキュオンはたしなめる。「死なせるわけにはいかないと言ったよね」
「違うんです。制御が利かなくなって……」
「君は疲れているんだ。ここは良いから少し休むと良い」
「ですが――」
「疲れているのでなければ、君は未熟なために情報源を潰しかけたことになるけど」
アイルータが狼狽える。王を恐れるのはバサニスキュオンばかりではない。
「はい。すみません。あとはお任せします」
アイルータは侵入者とバサニスキュオンに背を向けて出ていく。
上手くいった。あとは何とかして侵入手段を聞き出さねばならない。
「待ちなよ。アイルータ」と侵入者が呼び止める。「今から話すからさ」
アイルータは立ち止まり、二人の拷問官はまるで何事もなかったかのように笑みを浮かべる侵入者を凝視する。
「あんたは未熟だけど、未熟じゃなくたって今のは仕方ないよ」と侵入者はアイルータを慰め、目隠しの向こうから見透かすようにバサニスキュオンを見つめる。「あんたは随分と強力な魔術師だね、バサニスキュオン。だけど不思議だ。長いこと旅してきたけど、それほどの力を持つ者が誰かに仕えるのは珍しい。例外があるとすれば更なる強力な存在が上にいるのか。だけどあの壁の建築者はせいぜいあんたと同程度。樹の方は外で調べた限り、ずっと古いものさね。そう、もう一つ例外があるとすれば、使役される魔法そのものか」
ようやくその女が自身の正体を掴んでいることにバサニスキュオンは気づく。だが、その事実を隠しているのは王であって自分ではない。知られたところで人の間で争いが起きるだけだ。
「あんたみたいな人格があるのも珍しい。人格なんて使役するのには役に立たないからね。そして常に裏切りという危険性を孕む」
アイルータがまだそこにいることをバサニスキュオンは思い出す。
「知りたいんだろう? どうやって侵入したのか。にしては躊躇いがあった。第三者がいるからかねえ。侵入手段が分かれば脱出手段も分かりそうなもんだ」
アイルータが扉の外へ駆け出すのと同時に、バサニスキュオンは禍々しい姿へと変身する。
首から上だけが巨大な黒犬の頭に変じる。二つの瞳はひび割れて黄ばんだ髑髏であり、並ぶ歯列は蠢く腕骨だ。細い体は頭の重さに耐えきれず、倒れ込むも、ありとあらゆる拷問の魔術を念じるままに行使し、通路から生えた無数の鞭がアイルータを打ちのめし、倒れた体を磔にする。が、さすがに拷問を行いはしない。
黒犬の巨頭のバサニスキュオンが懇願する。
「頼む。知ってるなら教えてくれ。ここから脱出できるならあんたの持ち物にだってなる。もう嫌なんだ。退屈で死にそうなんだ」
いつの間にか侵入者は拘束を外し、引き千切られた指を拾っている。
「うーん。強力な魔法なら何でもいい訳じゃなくて、あたしは平穏で穏当な魔法が欲しいんだけど。まあ、いいや。それならあたしに秘密を明かしてみな。あんたの一番大事な秘密をさ」
バサニスキュオンは躊躇いを押して元の姿に戻り、仮面を剥ぐ。服の中には布の人形が詰め込まれており、顔の部分には刑架を持つ犬の絵が描かれた扇形の札が貼られていた。
「よし。良いだろう。あたしはドニャ。これからよろしくね」