テラーノベル
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ねこむすび
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昼までは、梅雨の合間の日差しが6号館の屋根を焼いていた。午後になって雲が広がり、放課後には空一面が白っぽい灰色に覆われていた。
6号館1階の実習棟は、開け放したシャッターから入ってくる風が、陽が陰っても少しも冷たくならない。湿った空気が作業着の首元にまとわりつき、立っているだけで背中に汗が滲んだ。明るいグレーの床には、誰かが拭き残したオイルの染みが点々と黒く広がっている。天井の巻き取りリールから垂れたエアホースが、送風の流れに合わせてかすかに揺れていた。
駐車場から乗り入れてきたエボXは、赤い2柱リフトの間で15分ほどアイドリングを続けていた。
大輝は運転席でブレーキを踏んだまま、シフトレバーをPからRへ動かした。メーターの表示が切り替わる。スマートフォンの画面で秒数を数え、20秒経ったところでNへ。Dへ。それからマニュアルモードへ倒す。1つの位置で20秒ずつ、変速機の中をフルードが巡っていくのを待ってから、レバーをPに戻してエンジンを止めた。
ボンネットを開けると、温まったエンジンルームから熱気が顔に当たった。大輝はオイルフィラーキャップを捻って外し、ウエスの上に置く。続けてエアクリーナーのボックスを開けてエレメントを抜き、インテークダクトを外して工具台の上に並べた。その奥に見えたSSTのフィラープラグに6角ソケットを掛けて緩め、これもウエスの上に置いた。
リフトの操作盤には、設備使用願の控えがクリップで留めてある。タイヤが1日遅れて今朝届いた分、日付を7月1日に書き直して出し直した紙で、隅に大塚の印が押されていた。
高窓の下の壁際に、タイヤチェンジャーとホイールバランサーが並んでいる。その手前に、昼休みに寮から運んできたV107が4本、ビニールに包まれてPPバンドで留められたまま立てかけてあった。
大輝はリフトのアームを車体の下に合わせ、スイッチを押した。モーターの唸りと一緒に、ライトニングブルーマイカのエボXが腰の高さまで持ち上がっていく。
電動インパクトレンチに21ミリのソケットを差し込み、右前輪の鉄製のナットに当ててトリガーを引いた。甲高い音が実習棟の天井に跳ね返り、ナットが1本ずつ緩んでいく。最後の1本を手で回し切ると、ホイールを両手で抱えて外し、足元のゴムマットへ寝かせた。
4本とも外し終えて、大輝はもう一度リフトのスイッチを押した。エボXが頭の上まで上がっていく。
陽斗が台車にGR MOTOR OIL Touring 5W-40のペール缶と、ダイヤクイーンSSTF-Iの缶を2本載せて押してきた。オイルドレーナーを2台、リフトの脇に並べる。
「これ、どっちも今日入れんの?」
「入れる。オイルもSSTも」
「了解」
シャッターの陰から木村が顔を出した。
「お、やってんじゃん」
「バイトは?」
「今日休み。代わりにモビ大のイキりエボ乗りの顔見に来た」
木村は作業着の袖をまくりながら近づいてきて、リフトの下に立ち、エボXの腹を見上げた。
「下廻り、しっかりタフコート塗ってあるんだ」
それから視線を後ろへ滑らせる。
「HKSのマフラー入ってんのか。スーパーターボマフラーだっけ、これ」
「そう。親父の時からな」
大輝はシバタイヤを1本転がしてきて、タイヤチェンジャーの横に立てた。バルブキャップを外し、バルブコア回しを差し込んで捻る。コアが抜けた途端、細く高い音を立てて空気が噴き出し、タイヤがゆっくり痩せていった。
「チタンとか入れねえの? 軽くなるじゃん」
木村がリフトの下から首だけこっちへ向けて言う。
「チタンほしいんだけど、G-FORCEのチタンなんて68万すんぞ」
「中古のワゴンR何台買えんだよ」
「それに前後のバランスとか考えると、コイツでいいんだよ」
大輝はそう答えながら、空気の抜けたタイヤをチェンジャーの脇のビードブレーカーへ寄せた。ブレードの先をリムの縁から少し離したサイドウォールに当て、ペダルを踏む。ブレードがゴムを押し込み、ビードがリムから剥がれる鈍い音がした。タイヤを少し回して位置をずらし、もう一度踏む。表側が落ちたら裏返して、内側も同じように落とした。
「エボって元々前重いもんな」
「そう。後ろ軽くしたら余計前に寄るし」
ホイールをターンテーブルに寝かせ、リムの外側の縁に樹脂のプロテクターを噛ませてから、クランプを閉じて固定する。BBSのスポークの細い隙間を、指でなぞって傷がないのを確かめた。
ビードにクリームを塗る。石鹸に似た匂いが、蒸した空気の中にうっすらと広がった。マウントヘッドを下ろしてリムの縁に合わせ、レバーでロックする。ヘッドの反対側でタイヤを手のひらで押し下げ、ビードをリムの谷へ落とし込んでから、タイヤレバーをヘッドとビードの間に差し込んだ。ゆっくりこじると、ビードがヘッドの上へ乗り上がる。
ペダルを軽く逆に踏んでテーブルを少しだけ戻すと、レバーにかかっていた張りが抜けた。レバーを抜き取り、今度は前へ踏む。テーブルが低い唸りを上げて回り始め、ビードがヘッドを滑りながらリムの外へ送り出されていった。
「てかさ、大輝」
木村がリフトの下から出てきて、工具台に寄りかかった。ポケットからスマートフォンを出し、親指で画面を送る。
「これ、お前の車のことじゃないの?」
大輝は回るテーブルから目を離さずに、木村の差し出した画面を横目で覗いた。赤城の応援アカウントらしい投稿が、誰かの書き込みを引用していた。
『黒森で走ってる方から情報いただきました。エボXの方、CZ4AのSST車で、タイヤはシバタイヤR23のTW280、純正BBSだそうです。地元では顔が知られてる方みたいです』
いいねは2千を超えていた。
「黒森走ってる方の情報って言うけど、黒森走ってたら、GRヤリスとか阿部さんのスイスポが速いって先に挙がるんよ」
大輝はそう言いながら、ビードが半分外れたところでペダルを踏み直した。
ペール缶の横で、陽斗が顔を上げた。
「この捨て垢っぽいヤツが、大輝のエボXはSSTって書き込んだせいで、すごいことになってっから」
「そう。下、見てみ」
木村が画面を下へ送る。
『つまりAT』
『2ペダルのエボはエボじゃない』
『SSTって3周で油温上がって止まるやつでしょw』
『クラッチ踏めないならサーキット来なくていいよ』
『黒森の主的な?』
「俺が主扱いされてんの、絶対黒森でイジられる」
大輝が笑うと、木村は笑わなかった。
「いや、笑い事じゃなくね? スポ車乗りって隙あらば見下してくるからマジ苦手。俺のヤリスクロスだってボロカスに面と向かって言われたの思い出す」
「俺も昨日見た。DCTとトルコンの区別つかねえなら、GT-Rもポルシェも全部ATじゃん」
陽斗が言った。
「それな。3級の試験でそれ書いたら落ちるぞ」
木村が画面を消して、ポケットに戻した。
「てか、ATだったら何なんだよって話じゃね。乗ってんのお前なんだし」
大輝は外れかけたタイヤを持ち上げ、下側のビードをヘッドの上へ引っかけてから、もう一度テーブルを回した。シバタイヤがリムからするりと抜け落ちる。抱えて床に転がし、サイドウォールを木村の方へ向けた。
「それより、これ読んでみ」
木村がしゃがみ込んで、指で文字を追った。
「TREADWEAR、240」
「280じゃねえだろ」
「全然違えじゃん」
ペール缶の横から、陽斗が木村に言った。
「大輝がTW280履いてた時期って、実は5月頃なんよ」
「じゃあ2ヶ月前の大輝じゃん」
「しかもこれも今日で外れるからな」
大輝はテーブルの上の空になったホイールを指で叩いた。
「あとこれ、純正じゃねえし。ヤフオクで落とした同じ形のBBS」
「マジで?」
「マジ。純正オプションなら座面はテーパーじゃなくてストレート」
「SSTのとこだけ合ってて、あと全部ズレてんの、逆にすげえな」
陽斗が言った。
「SSTは窓から覗きゃ分かるからな。シフトの形違うし」
「なんか、もうちょい怒っていいと思うけどな」
木村が工具台に戻って、腕を組んだ。
「怒ってもタイヤ組めねえっしょ。タイパ悪い事はやんねーの」
「そりゃそうだけど」
「親父がSST選んだんだから、俺に言われても知らんわ」
大輝は笑いながら、外したシバタイヤを床の上で軽く転がした。
木村は腕を組んだまま、台車の上のペール缶に目を留めた。
「てか、GRのオイルじゃん。今これ手に入んの?」
陽斗が鼻で笑った。
「GRヤリスには感謝しねえとな。5W-40だって今時期入手困難なんだから」
陽斗はペール缶を、拳の背で軽く叩いた。
大輝はクランプを緩めてホイールを少し回し、リムの内側に貼られたままの古いウェイトに、樹脂のスクレーパーの先を差し込んだ。両面テープごと浮かせて剥がし、残った糊の跡にパーツクリーナーを吹いてウエスで拭き取る。シンナーに似た匂いが鼻を抜けた。
木村が工具台に寄りかかったまま、その手元を覗き込んだ。
「しっかり両面剥がすんだ。マメだねえ」
「残ってると次のが剥がれんのよ。飛んだら高速でハンドル震える」
「へえ」
木村は床に落ちたウェイトを拾い、指先で転がしてから、工具台の端に置いた。
「陽斗、そろそろ下頼むわ。デカいアンダーカバー外して、オイルとSST抜いて」
「人遣い荒いな」
陽斗は工具台の引き出しからクリッププライヤーを出し、オイルドレーナーを押してリフトの下に入った。アンダーカバーの縁に並んだクリップの頭を1つずつ挟んで、引き抜いていく。抜いたクリップが、陽斗の手のひらに少しずつ溜まっていった。
木村もリフトの下に戻って、陽斗の手元を見上げた。
「エボの下廻り初めてみたけど、どんだけクリップついてんの」
木村の目線が、外れかけたカバーの奥へ移る。
「てかロアアームに導風板とか、フロアにエアガイドついてんだ。こうしてみると作りが外車みてえ」
木村がロアアームを指差した。
大輝はリムプロテクターを付け直したホイールに、PPバンドを切ってビニールを剥いたV107を載せていた。両側のビードとリムの縁にクリームを塗り、下側のビードをヘッドの下へ噛ませてテーブルを回す。ビードがリムの内側へ吸い込まれていく。上側は、ヘッドの反対側でビードを手で押し下げてリムの谷へ落とし込み、最後に残った部分をタイヤレバーでヘッドの下へ送り込んだ。
タイヤがリムに収まってから、大輝は答えた。
「ロアアームの導風板とフロアのエアガイドはオプションらしいよ」
「これ、純正のオプションなんだ」
「そうみたい。親父が着けてた」
「やっぱり効くの?」
大輝はタイヤを手で回し、サイドウォールの黄色い軽点を、ホイールのエアバルブの位置に揃えた。
「効くね。俺のは羽がないから特に」
「純正のウイングつけねえの?」
「つけたら、お前絶対イキりエボ乗りって言うじゃん」
「今も言ってるけどな」
リフトの下で、陽斗が吹き出した。カバーの端を両手で支えて下ろすと、外れたカバーの奥に、オイルパンとSSTのケースが並んで見えた。
陽斗はドレーナーのトレイを頭の高さまで引き上げ、オイルパンのドレンプラグの真下に合わせてから、14×17mmのメガネレンチを当てた。少し間があってから、トレイに温い油が落ちる音が続く。熱を持ったオイルの匂いに、燃料が少し混じったようなツンとした匂いが、蒸した空気の中をリフトの下からゆっくり降りてきた。
もう1台のドレーナーをセンターメンバーの脇へ寄せる。SSTのケースの底には、ドレンが3つ、間を空けて並んでいた。手前の1つにはKCSのポンプへ吸い込むホースがバンジョーで繋がり、残りの2つは6角穴のドレンプラグだった。
陽斗はトレイの位置をバンジョーの下に合わせ、メガネレンチでバンジョーボルトを緩めた。抜けた穴と外れたホースの口から、くすんだ色のフルードが細い筋になってトレイへ落ちていく。それを確かめてから、トレイの位置を合わせ直し、6角ソケットとラチェットで2つ目、3つ目のドレンプラグを緩めた。3本の細い筋が、トレイの上でそれぞれ別々に跳ねていた。陽斗はスマートフォンのタイマーを3分に合わせ、ドレーナーの縁に立てかけた。
大輝はバルブにコアを戻し、天井から垂れたエアホースのチャックを繋いでエアを入れた。
タイヤが少しずつ膨らみ、ビードがリムの縁へ寄っていく。パン、と乾いた音が実習棟の天井に響いた。少し遅れて、反対側もパンと鳴る。
「何回聞いても、ちょっとビビるわ」
木村が肩をすくめた。
大輝はテーブルの上のタイヤに顔を寄せ、ビードの際に細く入った線が、リムの縁から同じ幅で一周しているのを目で追った。空気圧を合わせてから、刷毛で石鹸水をビードの際とバルブの根元に塗る。泡は膨らまなかった。
リフトの下でタイマーが鳴った。陽斗は2つのドレンプラグを手で入れ、トルクレンチの目盛りを35に合わせて締め込む。カチ、カチと、短い音が2回続いた。それから新しい銅ワッシャーでバンジョーを挟んでボルトを通し、ホースの向きを合わせる。目盛りを30に合わせ直して当てると、もう一度カチと鳴った。
チェンジャーから外したホイールを、隣のバランサーへ運ぶ。シャフトに通してコーンで締め、アームを引き出してリムまでの距離を当て、幅と径を打ち込んだ。カバーを下ろすと、ホイールが静かに回り出す。モーターの低い音が止まり、表示に内側と外側の数字が並んだ。
大輝はホイールを手で回して、内側のランプが点く位置まで合わせた。アルミのウェイトを指でちぎり、リムの内側へ貼り付けて、指の腹で強く押しつける。
もう一度回す。内側の数字がゼロになり、外側の数字だけが残った。
今度は外側のランプが点く位置まで回し、外側にウェイトを貼る。
「それで終わり?」
木村が覗き込んだ。
「もっかい回す」
カバーを下ろす。ホイールが回り、止まる。表示は内側も外側もゼロに揃っていた。
大輝は銀色のダクトテープを引き出し、貼ったウェイトの上から覆うように1枚ずつ貼った。
「それ何?」
「飛ばないように。黒森で飛ぶと怒られんの」
「マジで飛ぶの?」
「前、誰かのが飛んでガラス割れて、パドックで揉めてた」
「黒森こえー」
リフトの下では、トレイに落ちるオイルの音が細くなって、途切れていた。
「エレメント、もう外していい?」
「頼む」
陽斗はドレーナーを押してトレイをフィルターの真下へ寄せ、フィルターレンチを掛けた。緩んだところから手で回すと、ねじ山の隙間から黒い油が指を伝って垂れ、トレイへ落ちていく。外したフィルターを逆さにしてトレイの網の上に置くと、ウエスでブラケットの当たり面を拭い、指先で縁をなぞった。
「古いOリング、残ってない」
「了解」
陽斗は新しいフィルターの箱を開け、新品のオイルを指に取って、Oリングに薄く塗り広げた。ブラケットにねじ込み、Oリングが当たるところまで手で回す。トルクレンチの目盛りを14に合わせ、フィルターレンチ越しに締め込んだ。カチ、と鳴る。続けてドレンプラグに新しいガスケットを通し、手で入れてから、目盛りを39に合わせ直して当てた。もう一度、カチと鳴った。
「下、終わり。カバーは漏れ見てからな」
「サンキュ」
木村はその間も、スマートフォンをまた出して画面を眺めていた。
「さっきの、まだ伸びてるわ。3千いきそう」
「見なきゃいいじゃん」
「見ちゃうだろ、こんなの」
木村は画面を見たまま、小さく舌打ちした。
「マニュアル派として応援してる、だって。お前も何派なんだよ」
大輝は2本目のバルブコアを抜いた。空気の抜ける細い音が、また実習棟に鳴った。
4本目のダクトテープを貼り終えた頃には、高窓の外の雲が一段と厚くなって、実習棟の中も少し暗くなっていた。作業灯の白い光が、グレーの床のオイルの染みと、切ったPPバンドとビニールの山を照らしている。
リフトを腰の高さまで下ろし、ホイールを1本ずつハブへ戻す。ナットを指で掛けてから、電動インパクトレンチを当て、座面が当たったところでトリガーを離した。そのまま床まで下ろすと、エボXの4輪が床に着いて、車体がわずかに沈む。トルクレンチを対角の順に当てていく。カチ、カチと乾いた音が鳴るたびに、ナットが1本ずつ締まっていった。
大輝はボンネットの前に回り、SSTF-Iの缶を開けた。フィラーの口に漏斗を差し、缶を傾ける。澄んだ緑色のフルードが、細く途切れずに漏斗の中へ吸い込まれていった。1缶を空け、2缶目から足して6.2リッターほど入れ終えると、フィラープラグを手で入れ、トルクレンチを35に合わせて締める。インテークダクトを戻し、エレメントをボックスに収めて蓋を閉じた。
その隣で、陽斗がペール缶のコックを開け、オイルジョッキに注いでいた。新しいオイルの油面が、ジョッキの目盛りをゆっくり上がっていく。
「5.1だっけ」
油面が4リッターの線を越えたところで陽斗が呟くと、大輝が手を止めずに言った。
「4.6でいいよ。Fレベルまでしか入らんから」
「え、少なくね?」
木村が大輝の方を向いた。
「オイルクーラーの中に入ってるぶんがあんのよ」
「なるほどね」
木村が納得したように頷いた。陽斗は油面が4.6の線に届いたところでコックを閉め、ジョッキを注入口へ傾けた。とろりとした音がして、新しいオイルが流れ込んでいく。入れ終えてキャップを締めた。
大輝は運転席に座ってエンジンをかけた。アイドリングが落ち着いたところで、2度、3度とアクセルを軽く煽り、エンジンを止める。
もう一度リフトを頭の上まで上げると、木村が下に入って、スマートフォンのライトでフィルターとSSTのケースを照らした。
「フィルターのとこ、漏れてねえよ」
「ドレンは? 全部」
「どれも乾いてる」
陽斗が外していたアンダーカバーを持ち上げて押し当て、手のひらに溜めていたクリップを1つずつ穴へ押し込んでいく。
リフトを床まで下ろして少し待ち、陽斗がレベルゲージを抜いてウエスで拭い、差し直してからもう一度抜いた。油の線は、Fの印のところで止まっていた。
「ぴったりF」
「皮むき、いつ行くの」
陽斗がオイルドレーナーを壁際へ押し戻しながら訊いた。
「明日バイト終わったら、新港の方まで流してくる。黒森は4日に取っとく。そんな何回も行けねえし」
「4日まで、あと3日か」
「3日もあんじゃん」
シャッターの横から、大塚が顔を出した。鍵の束を指に掛けたまま、床に下りたエボXへ歩いてくる。開いたままの運転席のドアから身体を傾け、室内を覗き込んだ。フルバケットシートと6点式ハーネス、助手席側の3連メーター、センターコンソールに並んだスイッチへ、順に目を移していく。
「違法改造とかはなさそうね」
「そうなんすよ、残念ながら」
木村が工具台に寄りかかったまま返した。
「なんか見つかってほしさがにじみ出てる」
大輝が木村へ言うと、木村は肩をすくめた。
「ダブルチェックダブルチェック。やっぱり先生のチェックも必要っしょ」
「そうねえ。重箱の隅ガンガン突こうかな」
大塚が運転席の足元を覗き込んだまま相槌を打つ。
「マジ勘弁してほしいっすよ」
大輝は笑いながら車の後ろへ回り、トランクを開けた。左の側壁には、Rockford Fosgateのロゴが入った純正のサブウーファーが、金属のリングに縁取られて収まっている。その隣、リアシートの真裏の左側を覆う黒い内張りに、ウォッシャーのマークが入った小さな蓋があった。大輝はその縁に指を掛けて外し、奥に覗いたタンクのキャップを捻って開ける。工具台の下から持ってきたウォッシャー液のボトルを、その口へ傾けた。青い液が、とくとくと音を立てて落ちていった。
「あ、庄司くんにお客さん来てたから」
大塚が運転席から顔を上げ、思い出したように言った。
大輝はボトルを傾けていた手を止めた。
「マジっすか。今行きます?」
「私の方から作業中って話しておいたから、終わってからでいいよ」
大塚はそれだけ言うと、鍵の束を鳴らして事務室の方へ戻っていった。
大輝はタンクの口いっぱいまで注ぎ足してキャップを閉め、内張りの蓋をはめ戻した。
台車のペール缶の前にしゃがみ、注ぎ口のコックの周りにパーツクリーナーを吹く。垂れかけていたオイルの筋が溶けて流れ、ウエスで拭うと、黒く汚れていた口元が缶の地の色に戻った。乾いたのを指先で確かめてから、コックの継ぎ目をぐるりと覆うようにマスキングテープを巻きつける。工具台の引き出しから大きめのビニール袋を出して缶の頭からかぶせ、口を底の方で縛った。
両手で持ち手を掴んで持ち上げると、中身はまだ重く、腕の付け根に張りが走った。トランクの床、サブウーファーの手前にそっと置き、倒れないよう缶の脇にウエスを丸めて噛ませてから、トランクを下ろした。
外したシバタイヤを4本、壁際へ転がして重ね、床に落ちたダクトテープの切れ端とPPバンドをまとめてゴミ箱へ押し込む。工具台の上を手早く片付けて、流しで手を洗った。
石鹸で洗っても、新品のゴムと廃油の匂いが、まだ手のひらに残っていた。
コメント
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まず整備描写の細かさに圧倒されました。工具の名前やトルク管理、ビードの落とし方まで1つずつ追っていく感じが、まさに実習棟の空気そのもの。大輝がSSTのバッシングを「タイパ悪い」と流すところ、めちゃくちゃかっこよかったです。ネットの騒ぎと現実の手応えの対比が効いてるなあと。大塚先生や陽斗、木村との距離感も自然で、この空気が好きです。続きが気になります。