テラーノベル
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昔から、父が書く“言葉”が好きだった。原稿用紙の上を滑る万年筆の音と、そこに紡がれていくインクの匂い。深くて、あたたかくて、ときに胸を締めつけるほど切ないその一行一行は、ページをめくるたびに静かに私の心へと染み込んでくる。
父の書斎は、私にとって魔法の部屋だった。壁一面を埋め尽くす本棚、少し古びた革の椅子の匂い、窓から差し込む陽光に揺れる小さな埃の粒。その空間に浸っているだけで、私は世界のあらゆる場所へ旅することができた。
気づけば私も、そんな言葉を書きたいと願うようになっていた。本の中なら、言葉の海の中なら、私は誰にでもなれる。優しくも強くもなれるし、遠い国のお姫様にも、雲を突き抜けて空を飛ぶ一羽の鳥にだってなれるのだ。
──だからずっと、私は本を開いていた。
幼い頃から、人と話すのがひどく苦手だった。自分の気持ちを口にしようとすると胸がキュッとすくみ、言葉が喉の奥でつかえて上手く出てこない。クラスの輪に入れず、休み時間もただ自分のデスクで伏せるように本を読んでいた私にとって、物語は唯一、心を丸ごと預けられる完璧な“世界”だった。ページの上の文字さえあれば、誰かと無理に会話をする必要はない。
誤解されることも、余計な一言で誰かを傷つけることもない。誰にも否定されず、特別な何者かにならなくてもいい。ただ、ありのままの不器用な私でいることが許されていた。言葉は、世界から私を隠してくれる優しくて頑丈なシェルターだったのだ。
そんなある日のことだった。夕食の後片付けを終えた母が、リビングのテーブル越しに一枚の紙切れを差し出してきた。
「ねえ鈴、今週末、ここに行ってみない?」
差し出されたのは、とあるロックバンドのライブチケットだった。鮮やかなデザインのチケットには、聞いたこともないバンドの名前が小さなフォントで印字されている。
それまでの私にとって、音楽といえば父の書斎で流れていたクラシックや、テレビから聴こえてくる流行りの曲くらいのものだった。自発的に音楽を聴くような習慣はなく、いきなりライブに誘われて正直とても戸惑った。人混みも、賑やかな場所も苦手だ。乗り気になれない表情を浮かべる私に、母は楽しそうに目を輝かせて言った。
「知人の息子さんがやってるバンドなんだけどね、すごく人気なんですって。たまには外の空気を吸いにいきましょう?」
母の熱心な誘いを断りきれず、半ば押し切られるような形で、私は週末の夕暮れ時に街の外れにある小さなライブ会場へ足を運ぶことになった。地下へと続く暗い階段を下りると、湿った空気とどことなく甘い煙の匂いが鼻をついた。重い防音扉を開けた先のフロアは驚くほど小さく、お客さんの数もまばらだった。壁際にひっそりと立ち、私は居心地の悪さに身を縮める。こんなところに私がいていいのだろうか。早く帰って、部屋で本を読みたい──そんな思いが頭をよぎった、その時だった。
ステージの照明が落ち、暗闇の中で一本のギターが鳴り響いた。ジャーン、と空気を切り裂く音。引き続いてドラムの太いビートが重低音となって床を揺らし、ベースが地鳴りのように腹に響く。そして、ボーカルの声が空間を一瞬で満たした瞬間──私の中にあった冷たく静かな空気が、跡形もなく吹き飛んだ。
全身の血が逆流するような、これまで味わったことのない激しい衝撃が頭から足の先までを駆け抜ける。
言葉が、“音”になって届いてくる。
それは、本をめくって一字一字を目で追う静かな物語とは、まったく違う熱量だった。鼓膜を揺らすだけではなく、皮膚を叩き、心臓の鼓動と強制的に同期してくるような圧倒的な存在感。ボーカルの吐き出す言葉の一つひとつが、音という翼を得てダイレクトに私の胸へと突き刺さる。
──この人たちは、自分の溢れ出す想いを、音にしているんだ。
身体の奥底が熱く痺れていた。ライブが終わって会場を出たあとも、夜の静かな帰り道を歩いている間も、耳の奥でずっと残響が鳴り響いていた。胸の奥で、小さく熱い火種が確かに芽生えたのを感じていた。
音楽をやりたい。私も、あんな風に誰かの心を揺さぶるものを生み出してみたい。
一度そう思ってからの行動は早かった。けれど、楽器も弾けなければ楽譜も読めない私に、一体何ができるというのだろう。自分の手元を見つめ、何ができるのかと必死に考えたとき、頭に浮かんだのはいつか父が言っていた言葉だった。
「鈴は言葉を書くのが上手いなぁ。表現がとても豊かだ。きっと、言葉の神様に愛された子なんだよ」
父が優しく髪を撫でてくれたときの手のひらの温もりが蘇る。
──そうだ、歌詞なら。言葉なら、私にも書けるかもしれない。
それからの毎日は、がらりと変わった。学校から帰るとすぐに机に向かい、使い古しのノートにひたすら歌詞を書き連ねた。日常の中で感じた小さな情動、言葉にならなかった悔しさや愛おしさ、自分の中にあるすべての感情をノートの上に吐き出していく。誰にも見せない、自分だけの秘密の世界。
文字を使って頭の中でメロディを思い浮かべ、ノートの上で音を鳴らすことが、こんなにも楽しくて愛おしい時間だなんて知らなかった。書き溜めたノートは一冊、また一冊と増えていった。
けれど──日が経つにつれて、胸の奥に小さな不協和音が混じり始めた。
どれだけ言葉を研ぎ澄ませても、どれだけ美しいフレーズを重ねても、そこには“音”がなかった。
静かな紙の上の文字だけでは、あのライブハウスで感じたような熱狂も、雷に打たれたような衝撃も生み出せない。音がなければ、この言葉たちはどこにも飛んでいけない。私の部屋のノートの中で静かに眠り続けるだけだ。どれだけ切実に書いても、これでは誰の心にも触れることができない──そんな焦燥感と物足りなさに、私は次第に苛まれるようになっていった。
限界を感じていた、まさにその時だった。
私は、怜央に出会ったのだ。
48
#異世界転移
花月夜れん
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あの日、何気なくよった公園で、彼の奏でる音を初めて聴いた瞬間──あの日のライブハウスで身体を打ち抜かれたものと、まったく同じ、いやそれ以上の熱い衝撃が胸を走り抜けた。
彼の旋律が、立ち昇る音色が私の頭の中にあった無数の言葉たちと結びついていく。散らばっていたピースが完璧に嵌まるように、音が言葉を引き上げ、言葉が音に命を吹き込んでいく。
音と出会い、言葉と重なった瞬間。
世界が鮮やかに色づき、私の中で、確かに新しい物語が始まりを告げた。あのとき胸を突いた震えるような熱と、世界が開けた瞬間の心地よい眩しさを、今でも私は、昨日のことのようにハッキリと覚えている。
コメント
1件
わあ、第34話「始まり」、読み終わりました…! 言葉のシェルターに閉じこもっていた鈴が、ライブで身体ごと音に打ち抜かれる瞬間、すごく鮮やかで鳥肌が立ちました。紙の上の言葉だけじゃ届かない焦りを経て、怜央くんの旋律と出会うラストの、世界が色づく感覚が美しすぎて。しろのねさんの紡ぐ言葉の熱量、本当に好きです。続きが気になります…!