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「別に、了承してくれなくても良いよ」
甘く歪んだ声が
耳元に滑り込むように響いた。
「キミを殺してから
ゆっくり捕まえて⋯⋯
血を搾り取れば良いんだから。
あぁ、キミの首でもぶら下げてたら
涙の宝石も十分に取れるだろうね?
今から楽しみだよ」
――しかし
時也の心は微動だにしない。
その声は確かに
目の前に居るであろう男の口から
発せられているはずだった。
だが、届かない。
怒りも、興奮も、嘲笑すら――
何一つ、心から伝わってこない。
(あぁ⋯⋯またですか)
録音されテープのように
繰り返すだけに聴こえる声。
恐らくこれは
目前の男の意思から発する言葉では無い。
(⋯⋯僕を操り人形で殺せるとでも
本気でお思いなのでしょうか)
時也の中に、僅かに芽生えた怒気――
だが
それは激情ではなく
凛とした怒りだった。
己の命をどうこうという話ではない。
ーアリアを傷つけようとする意思ー
そのものが
彼にとって最大の怒りの種だった。
目隠しの下で目を閉じたまま
時也はそっと息を吸う。
その瞬間――
(⋯⋯咲きなさい)
声すら無く、彼の心が命じるだけで
空間に無数の桜の花弁が舞い上がった。
淡い桃色のそれは
ひらりと風に乗るように見えて
刃のように鋭利な意志を帯びていた。
一枚一枚が鋼鉄のように研ぎ澄まされ
静かに
だが確実にピアノ線を斬っていく。
プツ⋯⋯プツリ⋯⋯
繊細な音が室内に連続して響き
拘束の鋼が一つ、また一つと断たれていく。
「させるか!」
突如、男の声が響き、空気が裂ける。
時也の反応を読んだかのように
大太刀が閃き――
時也の胸元へと、一直線に突き出された。
「⋯⋯ッ!」
咄嗟に身体を逸らし
首筋を掠めるようにして刃を躱す。
しかし
まだ切れていなかったピアノ線が
肩口から腹にかけて肉を裂き
紅が衣を滲ませた。
だが、時也の表情は変わらない。
(ふぅ⋯⋯
首に絡んでいたピアノ線が切れて
助かりました)
花弁たちが最後の線を断ち切り
四肢を拘束していた縄までもが
音も無く解かれる。
まるで囁くように
身体の自由が戻ってきた。
静かに
だが確かな意志で
時也は両足で床を踏み締める。
痺れと痛みの残る身体を引き起こし
ゆっくりと立ち上がった。
指先で目隠しを摘み、外す。
その奥から現れた
鳶色の瞳は――
いつもの柔和な色を湛えてはいなかった。
そこには
凍てつくような静かな怒りが宿っていた。
炎のような激情ではなく
風雪の如き確かな覚悟と
澄みきった怒気。
敵が震えもせず見返すなら
それすら切り裂く覚悟で。
時也は
そこに〝闘う男〟として立っていた。
時也は
血の滴る足を引きずることなく
一歩、また一歩と静かに進んでいく。
床に軌跡を滴らせる紅い雫は
歩みを重ねるにつれていつしか消え
男の目の前で止まった時には
血の気配すら感じさせなかった。
「キミも⋯⋯アリア同様、不死なのか。
それもあの血の恩恵かな?
あぁ⋯⋯欲しいねぇ、あの血」
男の声は
いやらしい程に
喉の奥から転がるようだった。
まるで
自らの欲望を噛みしめて愉しむように
舌を鳴らしながら嗤っている。
その軽蔑を孕んだような音色は
時也の怒りを確実に煽った。
ギリッと
奥歯が擦れる音が時也の喉奥で響いた。
それは抑え込まれた怒気の
明確な兆候だった。
「貴方がたは⋯⋯ご存知ですか?
不死の⋯⋯彼女の永遠という、苦痛を」
その問いは冷たく
怒りと悲しみが入り混じっていた。
「ははははっ、不死?
最高に素晴らしい事じゃないか!
キミも⋯⋯実のところ
気に入ってるんじゃないのかい?
だからこそ
傷を負っても、躱したんだろう?
キミも不死を――」
「⋯⋯煩い」
時也の声が、凍てつくように鋭くなった。
「彼女ではなく⋯⋯
お前みたいな奴が呪われたなら
〝俺〟はどれだけ喜んだか!!」
それは
常に穏やかで敬語を崩さぬ時也が
久しく晒した〝素〟の言葉だった。
次の瞬間
時也の足元から
ぶわりと大量の桜の花弁が湧き上がる。
その姿はまるで
淡い桜ではなく
怒りに染められた血の華⋯⋯。
時也の携えた護符が
指先でぴんと一枚震えた。
旋風のように渦を巻きながら
男を中心に結界が展開される。
「おん かかか びさんまえい そわか⋯!」
結界が完全に閉じた刹那
その中で花弁が奔流と化す。
結界内はまるで
巨大なミキサーの如く
花弁が音もなく
男の身体を裂き
刻み
血飛沫が美しくもおぞましく舞った。
男の身体が捩じれ
肉が裂かれ
骨が粉砕される音が
まるで雨音のように結界の外に漏れ出る。
「⋯⋯はぁっ⋯はっ⋯⋯っ、⋯⋯」
時也の肩が大きく上下する。
自身でも制御できない程の
怒りを放出したことに
胸の奥から滲み出る興奮と後悔が混ざる。
しかし、息を整える間もなく――
足音と共に
新たな気配が部屋に現れる。
男達が五人。
まるで群れを成すようにぞろぞろと現れ
武器を携え
口々に嗤いを漏らす。
「また⋯⋯欲に塗れた、下劣な笑顔を」
呟くように言った時也の足元から
再び地が震えた。
床を割るようにして現れたのは
鋭く伸びる桜の若枝と、絡みつく蔓。
その一本一本が意思を持ったかのように
蠢きながら男達の足元へと襲いかかる。
一人の男が振りかざした刃で躱す間もなく
蔓が腕を縛り
肩口から体内へと侵入していく。
別の男は喉元に枝が突き刺さり
肉を掻き分けるように突き進む痛みに
断末魔の悲鳴が紅く咲いた。
逃げ惑う男達の口へ
次々に植物達が襲い掛かり
容赦なく蔓が捩じ込まれていく。
叫びも嗚咽も
咽喉を擦り切れさせて吐き出されるが――
やがてそれも呑まれ
静寂の中に咀嚼音のような
どこか生々しい湿音だけが響く。
時也の瞳には
もはや慈悲の色は無かった。
ある者は桜の花弁によって細切れに刻まれ
ある者は、その身体を苗床として
血と肉の紅で咲かされた
〝桜〟の若木へと変えられていく。
紅く咲いた若木の枝先には
名も無き男たちの顔の名残があった。
今はただ
春の風を受ける木の一部として
彼らの末路を物語るだけ。
そして
時也の足元には血の川。
桜の花弁は
その上にそっと舞い落ち
薄紅に染まってなお
どこまでも美しく揺れていた。
部屋の中の敵の気配が全て絶たれると
時也は肺の中から
全てを出し切るように
深く息を吐いた。
そして
ギッと鳶色の瞳を見開くと
思い切り手を翳した。
瞬時に部屋に響き渡る破壊音。
崩れ落ちた鉄扉横の石壁の向こうは
黒々とした空間だった。
瓦礫と土埃が舞い上がり
舞い散る桜の花弁が淡く輝いては
それらを押し流すように散ってゆく。
伸びた太く鋭い桜の枝は
鉄と石を軽々と貫き
まるでそこにあってはならぬものを
排除するように空間を穿った。
――そこに、男は居た。
ゆっくりと、一歩を踏み出す音が響く。
硬質なブーツが石畳を鳴らす度に
その場にいる空気そのものが
じわりと重くなる。
その男は
壁の向こう側に隠れるように佇んでいたが
今は姿を晒し
揺るがぬ意志と余裕をまとっていた。
年の頃は壮年といったところだが
背筋は伸び
無駄な肉の無い引き締まった体躯が
戦場を潜り抜けてきた男であることを
物語っている。
髪は深い黒で
整えられた無精髭が
ただの戦士ではない
知性と狡猾さを滲ませる。
男の瞳が、時也を捉える。
まるで何かを見透かしているような
冷えた光があった。
「⋯⋯いい加減
貴方が自ら話したらどうですか?」
怒りを押し殺すように
だが鋭利に刃を忍ばせた声だった。
男は笑った。
短く、含みのある
どこか哀れむような笑み。
「ふふ。
キミは本当に⋯⋯厄介だねぇ?」
時也は確信していた。
男達に言葉を紡がせ
意のままに動かしていたのは、この男。
彼の心の声は、明確に聞こえていた。
アリアへの
歪んだ執着と、愉悦、支配への欲望。
それが澱のように時也の内に溜まり
静かな怒りの火に油を注いでゆく。
男は数歩
石の破片を踏みながら歩み寄ると
右手を軽く広げて
まるで懺悔の問いのように語りかけた。
「⋯⋯ねぇ、時也。
キミにとって⋯⋯ボクは何だい?」
瞬間、時也の鳶色の瞳に冷たい光が灯る。
心を読んだわけではない。
だが、これは――
自分の核を問う問いだった。
時也は桜の花弁を背に
僅かに目を伏せる。
だが、その表情に迷いはない。
そして、静かに言った。
「⋯⋯貴方は
絶対に彼女に触れさせてはならぬ
〝災い〟です⋯⋯」
静かな声だった。
だが
まるでこの空間に
裁が下されたかのような重みがあった。
「誰にとっても
〝悪〟で済まされるものではない。
ましてや彼女にとって
貴方が生きているだけで
災いになるのなら――」
時也は一歩、男に近づいた。
その背後から
桜の枝が複雑に伸び
まるでその答えに呼応するように
花弁が舞い上がる。
時也の姿は
花吹雪の中心で一際、神聖で⋯⋯
そして冷酷だった。
「⋯⋯俺が、お前を終わらせる」
淡々と、穏やかに
それでも確かな殺意がそこにあった。
男は、微かに息を呑んだ。
その答えは、同情も、憐れみもなかった。
ただ一つ〝赦さない〟という意志が
鋭利な刃のように突き刺さっていた。
「⋯⋯ありがとう、時也。
キミは⋯⋯僕を〝認識〟した」
その言葉には
歓喜とも哀れみともつかない
奇妙な響きがあった。
男は、まるで舞台に上がる役者のように
緩やかに右手を持ち上げる。
指先が胸元で静かに揃えられ
時也の鳶色の瞳が
その所作を捕らえた瞬間――
「⋯⋯っ!」
読んだ。
次に起こること、その意図――
すべてが、頭の中に流れ込んでくる。
瞬時に、時也は動いた。
桜の花弁が弾けるように舞い上がり
刃の如く空間を裂く。
咄嗟の判断で
男の手が動くより早く
その身を貫かんとする奔流。
しかしーー。
パチン⋯⋯
乾いた、指を鳴らす音。
それだけだった。
時也の動きが、途端に止まった。
花弁は空中でふわりと漂い
力を失ったように散ってゆく。
さながら
春の終わりに落ちる花のように。
「な⋯⋯っ」
息を飲もうとしたその瞬間でさえ
遅かった。
全身を包むような違和感。
自分の内側に入り込まれたような
不快な感触。
「もう、覚えてられないだろうけど⋯⋯
姿を現す心算は無かったのに
ボクを見つけたご褒美に」
男は柔らかな微笑を浮かべ
胸に手を当て、ゆっくりと一礼する。
その所作は
まるでどこかの
舞踏会に現れた貴族のようで
場違いなほどに優雅だった。
「ボク達は『フリューゲル・スナイダー』
〝翼を切る者〟だ。
覚えてられるなら、覚えててごらんよ。
⋯⋯櫻塚⋯時也」
そして、もう一度⋯⋯指が鳴る。
パチン。
その音は
まるで終焉の鐘だった。
時也の膝が崩れ落ちる。
全身から力が抜け
視界が白く濁っていく。
読めない。
見えない。
感じられない。
ただ、沈む。
ゆっくりと、静かに
床へと吸い込まれるように。
地面に頬をつける直前
僅かに見上げた視界の中で
男の姿がぼやけていく。
そこに立つ男の姿が、別人に変わっていた。
華奢な体躯。
その胸元に下がる
一つに編まれた黒髪。
女性と見紛う程
整った顔立ちから覗く
冷酷さを孕んだアースブルーの瞳。
時也の意識が、闇に沈む直前――
風が吹いた。
ほんの僅か、花弁を揺らすほどの。
その中に、男の嗤う気配があった。
ひどく穏やかで
残酷な、悦びの気配が。
それが〝彼〟との
初めての邂逅だった。
名も知らぬ〝厄災〟の始まり。