数ヶ月が経ち、冬弥は退院することができた。規則正しく服薬し、栄養状態も改善し、以前よりも穏やかな表情を取り戻している。オレも自分の鬱と向き合いながら、冬弥の病気について勉強し、生活を支えることに専念した。
家に戻った日、オレたちは二人で掃除をし、キッチンに並んで夕食の準備をした。冬弥はまだ完全ではないが、以前のように不器用ながらも手伝ってくれる。
「…ただいま、冬弥」
オレは、用意した食事をテーブルに並べながら、自然と口から出た言葉を冬弥に送った。
「変な言い方だけどな。病院から戻ってきただけなのにな」
家に、いつもの冬弥がいる。それだけで、部屋の空気が、以前のような温かさを取り戻した気がした。あの地獄のような数日間は、二度と繰り返さない。
「なあ、冬弥。オレたち、ちゃんと話そう。あの日のこと、そして、これからどうしていくか」
オレは、冬弥の正面に座り、真っ直ぐに冬弥の瞳を見つめた。
「…そうだな、」
「まず、あのキスのことだ」
オレは、静かに切り出した。あの日の出来事は、今もオレたちの心の奥底に影を落としている。
「お前を脅した、あの女のこと。お前の病気のことを、オレにバラすって言ってたんだよな」
「お前の病気のことを、どうしてあの女が知ってたんだ。そして、お前は、あんな脅しに屈して、なんでオレに相談してくれなかったんだ」
オレは、責める口調にならないよう細心の注意を払って、冬弥に問いかけた。知っておくべき真実だ。
「彼女がどこで知ったのかは、俺も分からない。」
「…ただ、俺が彰人に言えなかったのは、ちゃんと分かってる。」
「どこで知ったかわからない、か」
オレは、顎に手を当てて考え込む。
「まあ、今はそこを深掘りしても意味ねぇな」
オレは、冬弥の目を見た。
「言えなかった理由、オレもわかってるつもりだ。オレに負担をかけたくなかった。オレが鬱だから、これ以上、オレの精神を乱したくなかった。…違うか?」
オレは、冬弥の肩にそっと手を置いた。
「でもな、冬弥。オレは、恋人だろ。お前が抱え込んで苦しんでる方が、よっぽどオレにとって負担だったんだ」
「オレが病気なのは事実だけど、お前が誰かに脅されてキスしてるのを見て、オレの精神が崩壊するのは、ある意味当たり前のことだ。オレが頼りないから、話してくれなかったのかって、そう思ってしまった」
オレは、ゆっくりと息を吐いた。
「これからは、二度とあんなことするな。オレが、どんなに不安定になっても、話してくれ。全部受け止めるから。約束してくれ、冬弥」
「もちろん、それもあるが…。実は、昔一度だけ歌っていたことがあったんだ。」
「…でも、病気の事を言った途端に解散するって言われてしまって。隠しておいた方がいいんだと思っていたから…。」
東雲彰人side
(冬弥の過去の経験。オレの病気のことを打ち明けて、チームを解散された過去があるのか。)
「…そうか。歌、か」
オレの胸が、ズキッと痛んだ。冬弥にとって歌がどれだけ大切か、オレは誰よりも理解しているつもりだ。そして、統合失調症の薬の副作用で、歌えなくなることを一番恐れているのも知っている。
「…そんな辛い過去があったなんて、知らなかった。オレに話してくれればよかったのに」
オレは、静かに言った。冬弥がオレに病気を隠していたのは、オレの精神状態だけじゃなく、オレたち二人の大切なものを守るためでもあったのだ。
「オレが、病気のせいで冬弥から離れるかもしれない。歌が歌えなくなるのと同じように、それが冬弥にとって一番怖いことだったんだな」
オレは、冬弥の手を優しく握った。
「わかった。もう、二度とオレは、お前の病気で離れたりしない。ましてや、解散なんて絶対言わない。」
オレは、真剣な眼差しで冬弥を見つめた。
「オレとお前は、相棒だろ。歌も、生活も、病気も、全部一緒に背負う。だから、お前が恐れてたことは、もう起こらない。信じてくれ」
「そして、あの女が言った、オレの病気のことは…オレたちの周りには、もうバラされてると考えた方がいいかもしれない。今すぐに対処はできないが、オレたちは、二人で強くいるしかない。そうだろ?」
「…ああ、そうだな彰人。」
「よし」
オレは、冬弥の瞳に宿った決意の色を見て、強く頷いた。
「とりあえず、今日からオレたちは新しいスタートだ。お互いの病気と向き合って、支え合う。オレも、自分の鬱をコントロールできるように、治療を続ける」
オレは、テーブルに並んだ夕食に目を向けた。
「今は、まず飯食おう。お前、数日何も食ってなかったんだ。しっかり食べて、体力つけないと」
「…オレが作った、いつもより美味いかどうかは保証できねぇけどな」
オレは、少しだけ照れくさそうに笑った。
「食事が終わったら、部屋のことも話そう。オレはもう、別々の部屋で寝るのは嫌だ。お前はどうしたい?」
「俺もだ…っ、」
冬弥の短い返事と同時に、オレの体が温かいものに包まれた。冬弥からの、久しぶりのハグだ。数ヶ月間、体の距離を置いていた期間の寂しさや不安が、この瞬間に溶けていくのを感じた。
「…冬弥」
オレは、冬弥の背中に腕を回し、強く抱きしめ返した。その体温が、オレの心を落ち着かせる。
「…ありがとう。もう、不安になるようなことはしない。オレも、お前を一人にしないから」
しばらくの間、お互いの存在を確かめ合うように抱き合った後、オレは静かに冬弥を解放した。
「わかった。じゃあ、今夜から一緒に寝る。オレたちがちゃんと傍にいることが、何よりも薬になるんだからな」
オレは、少し湿った声でそう言い、テーブルの上の皿を指さした。
「さあ、飯だ。二人で食う飯は、やっぱ格別だな」
食事が終わり、片付けを終えた後、オレたちは一緒に寝室に向かった。数ヶ月ぶりに並んだベッドに横になる。以前のような緊張感はない。ただ、お互いの存在が近くにあるという安心感だけがあった。
「冬弥」
オレは、静かに冬弥の名前を呼んだ。
「この数ヶ月、お前のいない部屋で過ごすのが、本当に寂しかった。オレは、もう二度と、あんな思いはしたくない」
オレは、暗闇の中で、冬弥の手にそっと触れた。冬弥の体が、緊張ではなく、安堵で緩んでいるのがわかった。
「オレたち、色々あったけど、またこうして傍にいられる。感謝してる」
オレは、冬弥の方を向き直り、小声で付け加えた。
「…明日からは、学校に行くぞ。ちゃんと、オレたちの歌を歌いにいく。お前も、行けるな?」
「ああ、…そろそろ行かないと出席率がまずいからな、」
冬弥の言葉に、思わず笑みがこぼれた。あの真面目な冬弥が「出席率がまずい」なんて言うなんて、本当に珍しい。それだけ、あの数日間が異常だった証拠だ。
「はは、お前がそんなこと言うなんてな。よっぽど危機感持ったんだろ」
オレは、握った冬弥の手を軽く叩いた。
「わかったよ。明日から二人で行く。お前の病気のことも、オレの鬱のことも、学校にバレるかどうかはわかんねぇけど、もう気にするな」
「オレたちは、オレたちのやり方で、また歌うんだ。それが、オレたちが前に進むための、唯一の道だ」
オレは、冬弥の肩にそっと寄りかかった。この温もりがあるだけで、オレの精神状態は驚くほど安定する。
「…おやすみ、冬弥。また、明日」
コメント
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尊い…♡