待合室の時計は 私が来てから一度も動いていません。
もしかしたら、時計が止まっているんじゃなくて 私のほうが止まっている のかもしれません。
でも順番だけは ちゃんと回ってきて
先生が静かにドアを開けました。
「今日は、何について話す?」
その声が空気に混ざると 部屋がすこし揺れたように思えて、私はすぐには答えられませんでした。
まだ、この場所の匂いにも 音にも慣れないのです。
先生は 私の沈黙をやわらかく 受けとめるように 少し言い方を変えてくれました。
「あの子は、今日も来てるのかな?」
私はゆっくり首を横に振りました。
ただ横に動かしただけなのに 頭の中の景色まで 一緒にゆらっと揺れました。
「あのですね、あの子が…いなくなってしまったんです」
言葉にした瞬間、
胸の奥で何か細い糸がぷつんと切れた気がしました。
「あの日は風がとても強くてですね、
うっかりあの子の手を離してしまって、 どこに行ったのかわからないのです」
息を吸うたびに
“いなくなった”
という言葉だけがやけにくっきり胸に刺さるのに、 あの日の感触はもう 夢の端っこみたいにぼやけてしまいます。
先生は黙って ただ聞いていました。
その静けさが逆に耳の奥でざわざわと響いて、 風の音だったのか 私の記憶の音だったのか、 だんだん分からなく なっていきます。
「手を離したんだね」
「……はい。ちゃんとつないでたんです。
あの子、小さいから、手、あったかいから……」
私は自分の手を見つめました。
にぎったはずの形だけ残っていて 熱だけがどこにも見当たりません。
「でも風で、ふわって…
びっくりして。気づいたら……」
喉の奥がひゅっと縮んで 言葉が出てくる場所が 行方不明になります。
先生が椅子を 少し動かす音がしました。
その音だけ、妙に大きく響きました。
「探しに行ったんだよね?」
「はい…!
路地裏も見て、階段も見て……
木のかげも、風が止むまで待って……
でも……どこにもいなくて……」
話しているうちに 本当に探したのかどうか、 記憶が伸びたり縮んだりして、
指先がしびれるような 感覚がしてきました。
「気づいたら、
どこを探したのかも思い出せなくて……
なんだか全部、夢の途中みたいで……」
その瞬間、胸の奥がぐらん と揺れました。
壁まで少し波打って見えて 呼吸が浅くなっていきます。
「だって……だっていつもいたんです」
自分の声が耳の奥で跳ね返って 机の端をつかむ手に力が入りました。
「呼んだら来て、笑って…返事して…
手、にぎってたのに…
うぅ…ぐぅ…」
声は震えて、
言葉はぐしゃっとつまって、
胸が痛いみたいに熱くなり、ぽろぽろと涙がほっぺを流れます。
「わたし、悪くないはず、なのに…
でももし…私のせいだったら……」
喉がふさがり 息だけがひゅう……とこぼれました。
「ひっく うぅ…ぐず …」
その言葉が、
動いていないはずの待合室の時計の音といっしょに ぱち、ぱち、胸にぶつかってきました。
「そっか…大変だったんだね。
…ココアのむかい?」
「…ここあ……」
まえ、初めて来たときに1度だけ
いれてくれました。クリームがはいっていて、おいしいやつです。
ココアをいれてくれた先生は 私の荒れた呼吸がゆっくり静まるのを ただ静かに待っていました。
そして、
声の色を落とすように静かに言いました。
「……ねえ、最近さ、さなちゃんが ほっとできる場所とか 安心できる時間ってある?」
「ほっとできる場所…」
唐突ですぐには 答えられなかったけれど
胸の奥がふわっと あたたかくなって 気づけば 泣いた後のすこし掠れてしまった声で、ぽそぽそと話していました。
「最近……朝の光がやわらかくて好きなんです。
それに……前より友達とも話せるようになって……
放課後の空気も……前ほどこわくなくて……」
本当に小さなことばかりなのに、
言葉が出るたび、胸の中の空間が少し広がっていきました。
「そっか」と先生がうなずいたとき、
急に——
あの子の名前が思い出せなくなりました。
いっしょにいたはずなのに。
いつも手をにぎっていたはずなのに。
「ねえ、もしかして——」
先生が言いかけた瞬間、
胸の奥で何かが “すとん” と落ち着きました。
——あ。
わたし、もうひとりで歩けるようになってたのかもしれない。
そう思ったら 胸がぎゅっとしたけれど、
波が静かに引くみたいに 落ち着いていきました。
「先生」
「……わたしね、もうあの子がいなくても、大丈夫みたいなんです」
言った瞬間 言葉が夕日の色みたいに
部屋の空気の中に あたたかく広がっていきました。
あの子がいなくなった理由は きっと。
わたしが気づかないうちに、
“安心”を別の場所で見つけていったから。
必要だった場所が すこし形を変えたんです
あの子はいなくなったんじゃありません。
形を変えて 私の手を握っているのです。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
帰り道の空気は 朝よりも少し冷えていました。
でも肌を刺すような冷たさじゃなくて どこか“もう大丈夫だよ”って言われているみたいな 心地いい冷たさでした。
風が強かったあの日と同じ角を ゆっくりと曲がります。
そこは、ただの何でもない道で
落ち葉がいくつかまとまって寄っているだけ。
でも私には、
“手を離してしまった”瞬間の全部が まだ、薄く残っているように見えました。
立ち止まって 深く息を吸いました。
さっき先生に話したはずの 胸の広い感じが じんわりとそこに続いている気がしました。
——もう、大丈夫。
自分でそう思った瞬間です
ふいに、 風がひとすじだけ 私の横を抜けていきました。
そのとき
本当に一瞬だけだけど、
耳のすぐそばで
「いってらっしゃい」
と、小さな声がした気がしたんです。
振り返っても、
そこには誰もいません。
でも胸の奥で何かがふっと 笑った気がして 私も、ほんの少しだけ笑いました。
そしてそのまま、
ゆっくりと家へ向かって歩き出しました。
風はもう、こわくありませんでした。
コメント
1件
今回の作品もとても好きでした😽😽特に「形を変えて私の手を握っているのです」という所は、いなくなった訳じゃないって言うのを主人公が理解したというのが分かってとても刺さりました😽😽😽 いつも大好きです。素敵な作品をどうもありがとうございます!