テラーノベル
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朝の気配が、障子越しにゆっくりと滲んでくる。
鳥の声。
遠くで聞こえる、下級生たちの足音。
六年生の部屋は、まだ静かだった。
弦は、布団の中で微かに身じろぎする。
長い間、眠っていなかった体が、ようやく“朝”に追いつこうとしていた。
「……」
瞼が、重たそうに動く。
すぐには開かない。
目を覚ました瞬間に現実を思い出してしまうことを、
体が無意識に避けているみたいだった。
「……っ」
小さく息を吸って、弦はゆっくりと目を開けた。
天井。
見慣れた木目。
____英二郎はいない。
一瞬で、胸が締めつけられる。
体を起こそうとして、腕に違和感を覚えた。
「……?」
視線を下げると、自分の指が、誰かの袖を掴んでいる。
長次だった。
床に座ったまま、動かずにいる。
さらに顔を上げると、
留三郎は壁に背を預け、
小平太は腕を組んで居眠りをし、
文次郎と仙蔵は窓際で静かに目を閉じている。
伊作は、一番近くで座っていた。
弦は、一瞬、状況が理解できなかった。
「……なんで……」
声が、掠れる。
伊作が、すぐに気づいた。
「起きた?」
大きな声は出さない。
朝だから、ではない。
弦だからだ。
「……俺……」
記憶が、ゆっくりと戻ってくる。
泣いたこと。
名前を呼び続けたこと。
抱きしめられていたこと。
喉が、詰まる。
「……ごめん」
反射みたいに、その言葉が出た。
伊作は、即座に首を振る。
「謝ることじゃない」
それ以上は、言わなかった。
留三郎が、眠そうに目を開ける。
「飯、用意してある」
「食えなくてもいい」
「でも、ここにある」
弦は、布団の上で俯いたまま、しばらく動けなかった。
「……俺、寝てた……?」
「久しぶりにな」
小平太が、あくび混じりに言う。
その一言で、弦の胸が、ぎゅっと縮む。
——そんなに。
弦は、無意識に自分の手を見る。
少し痩せている。
「……英二郎……」
朝の光の中でも、名前は自然に零れた。
誰も、止めない。
長次は、掴まれていた袖をそのままに、静かに言った。
「今日は、何もしなくていい」
「稽古も、任務も、後回しだ」
文次郎が続ける。
「起きて、息して、飯が目に入るだけでいい」
弦は、ゆっくりと頷いた。
それだけで、精一杯だった。
朝は、来てしまった。
何も解決していないまま。
それでも。
弦は、一人で目を覚ましたわけじゃなかった。
部屋には、
昨日と同じ顔が、同じ場所にあった。
それだけが、
この朝の、唯一の事実だった。
伊作が、静かに立ち上がった。
「……温かいうちに」
そう言って、膳を弦の前に置く。
湯気が、ゆらりと立ちのぼった。
炊きたての飯。
味噌の匂い。
見慣れた、いつもの朝の膳。
弦は、しばらくそれを見つめていた。
逃げないように。
逸らさないように。
ゆっくりと、箸を取る。
指先に、力が入らない。
それでも、落とさずに持てた。
——いつもなら。
「ほら、早く食べろよ」
少し笑った、あの声が飛んでくる。
任務前でも、稽古前でも、
隣で当たり前みたいに。
「冷めるぞ」
優しくて、急かすふりをした声。
「……」
弦の喉が、きゅっと鳴る。
——ない。
いくら待っても、
もう、かからない。
視界が、一気に滲んだ。
「……っ」
涙が、ぽたぽたと膳に落ちる。
飯粒に、吸い込まれていく。
それでも。
弦は、箸を止めなかった。
大きく一口、口に詰め込む。
噛む。
飲み込む。
「……っ、……」
喉が詰まって、息が苦しい。
涙が溢れて、止まらない。
それでも、もぐもぐと口を動かす。
——食べなきゃ。
理由は分からない。
ただ、止めたら全部崩れそうで。
六年生たちは、誰も声をかけない。
「無理するな」も、
「ゆっくりでいい」も、
言わない。
弦が、食べているから。
泣きながらでも、
口いっぱいに詰め込んででも。
それを、止める資格はなかった。
弦は、また一口、飯を入れる。
「……英二…、郎……」
口の中がいっぱいで、
名前は歪んで聞こえた。
それでも、確かに呼んだ。
涙を流しながら、
飯を噛みながら、
弦は、朝を飲み込んでいく。
味なんて、分からない。
ただ、
温かさだけが、
確かに、そこにあった。
コメント
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本当に天才ですね(?)ドクスタの方を見てます!続き待ってます!