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「真夏のスパイス」
車のエンジンを切って扉を開けると、よく冷えた車内にむわっと熱帯夜の空気が流れ込む。あぁ、夏だ。夜が涼しくなくなったら、夏の本番が始まる。私にとっては蝉が鳴き始めるよりも、この温度が夏の始まりの合図。この季節のこの街に「涼しい」は存在しない。「暑い」か「とても暑い」の二択である。湿った、まとわりつく空気は体力と気力を容赦なく奪っていく。早く家に入って、リビングのクーラーをつけよう。今日の夜ご飯の食材が入ったエコバックを、助手席から引っ張り出す。車の鍵を閉め、家の鍵を片手で探しながら、一年前の夏は、まだ車を運転できなかったなと、ふと思った。自分の誕生日が近づくと、自然と自分の一年間を思い出す。懐かしいようで、あっという間で。今の私は、あのころの自分が思い描いていた未来とは全く違う道を歩いている。就職した会社を退社して丸三か月。働く場所は大きく変わったけれど、接客業なのは変わらない。新たな場所で出会えるスタッフの皆さんやお客様、感じる新鮮な気持ち。そして、手に入れた自由と時間。自分の時間が増えたからこそ、こうして夜ご飯を作る時間もできた。収入は減ってしまったけれど、これは自由と心のゆとりと時間を前払いで払ったのだ。なにより、私がこの生活に満足している。自分の選択を後悔していないし、これからの未来は未知数であることにわくわくしている。「まだ若いあなたは可能性に溢れているのよ」と言ってくれた職場の先輩。やりたいことや興味のあることはたくさんある。その一方で、どれから手を付けようか、どんな道を選ぼうか決め切れていない。そうして考えているうちに、光の速さで過ぎ去っていく日々。「可能性のかたまり」は同時に「時間を飲み込むブラックホール」でもある。
家に入って、とりあえずクーラーをつけてから部屋着に着替える。今日の夜ご飯はカレー。茄子とズッキーニと人参とコーンを入れた、夏野菜カレーだ。炊飯器にお米をセットして、炊飯ボタンを押したら、茄子を切り始める。こうやって進んで料理をするようになったのも飲食店で働いているからだと思う。いろいろと変わっていくものだ、考えていたよりも急速に。去年の夏、私は何をしていたっけ。思い出を切り出すように、茄子を乱切りにしていく。あっという間に過ぎたはずなのに、思い返すと懐かしいのが実に不思議だ。茄子を水に浸して、人参の皮を取ってから切り始めると、記憶のカメラロールは秋に移っていく。イチョウ切りした人参を見ていると、紅葉の景色がよぎる。そして「とんとんとん」と包丁がまな板に当たる音が、思考のリズムを打つ。切ったばかりの人参を両手鍋に入れたら、火をつけて軽く炒めて、水を入れる。ズッキーニは輪切りにして、茄子と一緒に鍋の中へ。ぐつぐつと煮込む音は冬の鍋を彷彿させ、お正月商戦の忙しさを思い出していた。缶のコーンを入れたら、振り返る季節は春になり、今に近づいてくる。会社を辞めたのはこの頃で、もう季節が過ぎるほど前なのかと驚きつつ、カレールーを溶かし始めた。
食欲が沸く、スパイスの香り。今日使ったカレールーのパッケージには何種類のスパイスと書いてあっただろうか。こうして様々なスパイスが混ざり合い、野菜の香りも重なり合って美味しいカレーができる。ふと、ここまで一年を思い返して、目まぐるしくも色とりどりの時間だったと思った。自分の手で作ったこのカレーのように。大変だったこと、悩んだこと、辛かったことは確かにあった。けれど楽しかったこと、嬉しかったこと、幸せを感じたこともたくさんあった。どれもこれも全部混ざり合って、今の私がいる。素朴な味も良いけれど、私は私の人生、少しスパイシーなぐらいが好き。その方が生きがいがあって面白いから。
一つ、このカレーと私の違うところは、完成していないところ。煮込み始めたばかりなのだ。未熟だけれど、夢に向かいあえて煮詰めてしまう前に踏み出して、その時々に味を変えていけばいい。煮詰めてしまったらもう変えられないけれど、煮詰める前なら、味も、具材の柔らかさも、好きにできる。
やりたいことに手を伸ばしながら、やるべきことをこなす。
とりあえず、できることからひとつずつ。私の道が、世界が、時代がどうなっていくかなんてわからないのだから。夢がどんな道筋で叶うかもわからない。でも、関係ないと思っていたことが、夢へのご縁を結んでくれたりする。
未来はわからない。だから楽しみ。
夢は簡単に叶わない。だから楽しい。