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第二話 十五の神座、十五の英霊
空に海があった。
それは比喩ではない。
冬木の夜空、その本来なら雲と星と月だけがあるはずの場所に、海が広がっていた。
黒く、深く、果てがない。
波は上から下へ落ちるのではなく、空という器の内側で静かにうねっている。
月光を飲み込み、星明かりを砕き、街灯の光さえも青く染めるそれは、海というよりも“海であった神話”だった。
冬木大橋の中央で、騎士王が剣を構える。
アルトリア・ペンドラゴン。
かつて聖杯戦争を駆け抜けた剣の英霊は、不可視の剣を握りしめ、目の前の少年神を見据えていた。
少年神は笑っている。
白い髪。
青い瞳。
裸足。
そして手には、海を支配する三叉の神器。
彼はまだ真名を明かしていない。
けれど、この場にいる誰もが理解していた。
名を呼べば、終わる。
神の真名とは、英雄のそれとは重みが違う。
英霊の真名看破は弱点を暴くための鍵だ。
だが神の真名は、世界そのものに接続する呪文に等しい。
神とは、名前によって祈られるもの。
名前によって畏れられるもの。
名前によって、人類史に居座るもの。
だからこそ、真名を呼ぶことは祈りに近い。
衛宮士郎は砕けかけた投影剣を握りしめ、奥歯を噛んだ。
「……セイバー、あいつの武器は読めない」
「当然です。あれは武器である前に権能です」
アルトリアの声は静かだった。
だが、静かであるがゆえに重かった。
「あの槍は、鍛えられたものではありません。誰かが造ったものでもない。あれは“海を支配する神が持っていたから神器となった”ものです。宝具とは成立の順序が逆なのです」
「順序が逆……」
士郎は、槍を見る。
宝具とは、英雄の逸話が武装として結晶化したもの。
英雄が使った剣。
英雄が乗った戦車。
英雄が成した奇跡。
人が物語を語り継ぐことで、その武器は意味を帯びる。
だが、神の神器は違う。
神が持っていたから、世界がその意味を後から認める。
逸話が武器を作ったのではない。
武器が逸話を生んだのだ。
解析できないわけだ、と士郎は思った。
構造が違う。
理屈が違う。
出発点が違う。
自分の魔術は、剣という結果をなぞることはできる。
だが、神が神であるという原因そのものは写せない。
「なるほどな」
赤い外套の弓兵が、隣で弓を構えた。
アーチャー。
再召喚された英霊は、皮肉げな表情の奥で冷静に戦場を測っていた。
「ならば、私たちが相手にしているのは武装ではなく現象だ。斬る、弾く、砕くという考え方そのものを改める必要がある」
「簡単に言ってくれるわね」
遠坂凛は宝石を指の間に挟み、鋭く息を吐いた。
彼女の額には薄く汗が浮かんでいる。
魔力切れではない。
恐怖でもない。
計算が追いつかないのだ。
聖杯戦争なら理解できる。
七騎のサーヴァント。
七人のマスター。
令呪。
霊脈。
聖杯。
監督役。
隠蔽工作。
この街で起こる異常にしては、まだ“魔術師の常識”の範囲内だった。
だが、今起きているものは違う。
「サーヴァント十五騎。未分類霊基十五柱。合計三十。しかも空にあるあの黒い杯が、全部に魔力供給してる」
凛は唇を噛む。
「こんなの、儀式じゃない。戦争でもない。神代と人類史を無理やり同じ盤上に乗せた、最悪の実験よ」
少年神が、その言葉に笑った。
「実験。いいね。人間はいつも、名前の付け方だけは美しい」
彼は三叉槍を肩に担ぐ。
「だが正確ではない。これは実験ではないよ、魔術師」
「じゃあ何だっていうのよ」
「選別だ」
少年神の言葉と同時に、空の海がひときわ大きくうねった。
「英霊とは、人が過去を誇るための刃だ。神とは、人が過去に屈した証だ。では、その二つが同じ器に入った時、人間はどちらを選ぶのか」
橋の上に、潮風が吹いた。
冬木には存在しないはずの、塩と深淵の匂い。
「英雄に縋るか。神に跪くか。それとも――」
少年神の青い瞳が、士郎を射抜いた。
「そのどちらも否定して、人間のまま立つか」
士郎は答えなかった。
答えられなかったのではない。
答える必要がなかった。
彼はただ、剣を握った。
砕けかけた投影剣。
神の神器に比べれば、あまりにも脆い。
英雄王の宝物庫に並ぶ宝具に比べても、あまりにも安い。
それでも、剣だった。
ならば、握れる。
「俺は、神に跪くつもりはない」
士郎は言った。
「でも、英雄に全部任せるつもりもない」
少年神が目を細める。
「へえ」
「俺は俺のまま戦う。それしかできない」
凛が小さく笑った。
「ほんっと、変わんないわね」
アーチャーが肩をすくめる。
「変わっていないのではない。悪化している」
「うるさい」
士郎が睨む。
そのやり取りを見て、アルトリアの瞳がわずかに和らいだ。
五年。
英霊にとっては瞬きのような時間かもしれない。
けれど彼女にとって、この再会には確かな重さがあった。
かつて、士郎は彼女の願いを否定した。
王としての後悔を、少女としての願いを、彼は真っ直ぐに否定した。
そしてその上で、彼女を肯定した。
救われたのかどうかは、今でも分からない。
だが、あの夜、アルトリア・ペンドラゴンは確かに一つの終わりを受け入れた。
それなのに、またここにいる。
剣を握り、同じ少年だった青年の隣に立っている。
これは奇跡ではない。
奇跡と呼ぶには、あまりにも血の匂いが強すぎる。
だが。
「シロウ」
「何だ、セイバー」
「今度は、貴方だけに背負わせません」
士郎は一瞬だけ目を見開いた。
セイバーは前を向いたまま続ける。
「五年前、私は貴方に救われた。だから今度は、私も貴方を守ります。王としてではなく、サーヴァントとしてでもなく」
不可視の剣に風が集まる。
「アルトリア・ペンドラゴンとして」
その言葉に、士郎の胸が詰まった。
だが返事をする時間はなかった。
少年神が槍を振るう。
空の海が落ちた。
いや、海が地上を思い出した。
夜空に張りついていた水の塊が、巨大な渦となって橋へ降下する。
街一つを呑み込めるほどの水量。
だが、それは単なる質量攻撃ではない。
水流の中に、無数の馬がいた。
海馬。
神話に語られる波の獣。
鬣は泡で、蹄は潮で、瞳には溺死者の記憶が宿っている。
「来るわよ!」
凛が宝石を砕く。
赤い魔力が弾丸のように放たれ、先頭の海馬を撃ち抜いた。
だが、消えない。
砕けた水の馬は泡になり、泡はまた水へ戻り、新たな馬を形成する。
「再生速度が早すぎる!」
「ならば核を狙う」
アーチャーが弓を引く。
番えられた矢は、ただの矢ではない。
剣を矢として射出する、投影魔術の応用。
「偽・螺旋剣」
放たれた剣は空気を捻じり、渦を巻きながら海馬の群れへ突き刺さった。
次の瞬間、橋の上で爆発が起きる。
神代の水が蒸発し、白い霧が吹き荒れた。
海馬の群れが一瞬だけ崩れる。
そこへセイバーが突っ込んだ。
暴風を纏う騎士王の突進。
その軌跡は、夜に引かれた一本の白線だった。
少年神は笑う。
「来い、騎士王」
槍と剣が衝突する。
不可視の剣と三叉の神器。
見えない刃と、海を司る槍。
ぶつかった瞬間、冬木大橋のアスファルトが波打った。
地面が地面であることをやめ、液体のように歪む。
セイバーの足元が沈みかける。
だが王は踏み抜いた。
魔力放出。
青白い魔力が足元で爆ぜ、沈む地面を強引に蹴り砕く。
そのまま剣を横薙ぎに振るう。
少年神は槍で受ける。
受けたはずなのに、身体が後ろへ滑った。
初めて。
少年神が押された。
「……へえ」
その顔に、笑みが戻る。
「今のは少し痛かった」
「次は、少しでは済ませません」
セイバーが踏み込む。
剣撃の速度が上がる。
一撃ごとに風が裂ける。
一歩ごとに橋が軋む。
人の身に落とされた英霊の霊基でありながら、その剣はなお王のものだった。
神の権能に対して、真正面から武をぶつける。
無謀。
だが、それこそが英雄の本質だ。
神に勝てるから英雄なのではない。
神に勝てないと知りながら、それでも人の前に立つから英雄なのだ。
少年神の槍が跳ねる。
狙いはセイバーの肩。
槍先にまとった水流が三方向に分岐し、逃げ道を塞ぐ。
セイバーは後退しない。
剣を下段から切り上げ、水流の一つを弾く。
残る二つは鎧に迫る。
その直前、士郎が叫んだ。
「投影、開始――!」
二本の剣が飛ぶ。
投影された短剣は水流へ突き刺さり、その圧力で即座に砕けた。
だが、砕ける瞬間にわずかな隙間を作る。
セイバーはそこを通った。
剣が少年神の外套を裂く。
白い布が舞う。
少年神の頬に、細い傷が走った。
血は流れない。
代わりに、傷口から海水が一滴こぼれた。
「……」
少年神は指で頬に触れた。
そして、笑った。
「いい。とてもいい。人間と英雄が連携して神に傷をつける。ああ、これだから地上は退屈しない」
凛は顔をしかめる。
「あいつ、戦いを楽しんでるわけ?」
「神というより、災害に近いな」
アーチャーが冷たく言う。
「台風が家屋を壊す時、罪悪感を覚えると思うか?」
「最悪の例えどうも!」
凛は次の宝石を握った。
だが、その時。
空の黒い杯が脈動した。
ドクン、と。
街全体に響くほどの鼓動。
全員が一瞬、動きを止めた。
そして冬木の空に、声が響いた。
『告げる』
声は男とも女ともつかない。
老人のようでもあり、子供のようでもあった。
人間の喉から出たものではない。
杯そのものが喋っている。
『此度の戦争は、聖杯戦争にあらず』
黒い杯の内側に、十五の光点が浮かぶ。
赤、青、金、黒、白、紫。
それぞれが異なる神話体系の色を帯びていた。
『英霊十五騎。神格十五柱。合計三十の霊基をもって、神杯は満たされる』
凛が息を呑む。
「ルールの告知……?」
『英霊側、基本七騎に加え、特例八騎を承認』
杯の光が弾ける。
『剣士。弓兵。槍兵。騎兵。魔術師。暗殺者。狂戦士。裁定者。復讐者。盾兵。月霊。降臨者。影武者。観測者。漂流者』
士郎には、そのすべての意味は分からなかった。
だが凛とアーチャーの顔が険しくなる。
「十五クラス……既存クラスだけじゃない。かなり無理やり広げてる」
「霊基の器を拡張したのか。聖杯の機能を超えているな」
アーチャーが呟く。
杯の声は続く。
『神格側、同数の器を承認』
今度は、光点が星座のように繋がった。
『天王。海王。冥王。雷帝。戦神。智慧神。愛神。鍛冶神。狩猟神。太陽神。月神。酒神。豊穣神。境界神。終末神』
少年神が肩をすくめた。
「ふむ。ずいぶん勝手に分類されたものだ」
凛の顔が青くなる。
「ちょっと待って。天王、海王、冥王、雷帝って……そんなの神話体系によっては主神級じゃない」
『真名の開示は任意。ただし、真名看破に成功した陣営には対象の神話情報を一部開示する』
士郎が眉をひそめる。
「一部?」
「全部じゃないってことよ」
凛が即座に答える。
「神は同じ名前でも時代や地域で性質が変わる。ギリシャの海神、ローマの海神、地方信仰の海神、全部が同じとは限らない。真名が分かっても、どの神話層から来てるか分からなければ対策が半端になる」
『神器の開帳は、神格霊基に負荷を与える。三度の完全開帳により、神格器は崩壊する』
少年神がつまらなそうに槍を回す。
「三度か。節約しろということかな」
『サーヴァントの宝具解放は従来規格に準ずる。ただし、神器との衝突時、宝具の原典性に応じて補正を付与する』
上空のギルガメッシュが笑った。
「ほう」
その声には、明らかな愉悦があった。
「つまり我の蔵は、神の玩具相手にも価値を失わぬということか」
凛が苦々しく呟く。
「むしろあいつに有利なルールじゃない」
『マスターには令呪三画を付与。神格契約者には神紋一画を追加付与する』
士郎は自分の右手を見る。
セイバーとの契約を示す令呪。
その外側にある、輪のような刻印。
「これが神紋……?」
『神紋は一度のみ、契約対象の霊基限界を超過させる。ただし使用後、マスターの魂に不可逆の損耗を与える』
凛が険しい顔になる。
「つまり、神側マスターの切り札。でも使えばマスターが壊れる」
「実に悪趣味だ」
アーチャーの声には、珍しく怒気が混じっていた。
『勝利条件』
黒い杯がさらに大きく脈動した。
『最後に残った一組に、神杯への到達権を与える』
セイバーが鋭く問う。
「願望機としての機能はあるのですか」
杯は沈黙した。
数秒後、答える。
『願いは叶う』
その声に、橋の上の全員が息を詰めた。
『ただし、人の願いとして叶うとは限らない』
意味が分からない。
だからこそ、最悪だった。
凛は歯を食いしばる。
「何よ、それ」
『神が叶える願いは、神の理に従う。英雄が叶える願いは、人類史の理に従う。神杯は、そのどちらにも属さない』
士郎の胸の奥が冷えた。
五年前の聖杯も、願いを歪めるものだった。
望みを叶えると言いながら、実際には破滅の形でしか出力できない器。
なら、この神杯は何だ。
聖杯よりも巨大で、神すら材料にしようとする黒い器。
それが叶える願いなど、まともであるはずがない。
『告知を終了する』
杯の声が薄れていく。
『神杯戦争、第二段階へ移行』
その瞬間、冬木全域に結界が展開された。
街の空気が変わる。
一般人は、異常を異常として認識できなくなる。
破壊は認識からずれ、神話の痕跡は夢として処理される。
世界の帳尻合わせ。
いつもの聖杯戦争にもあった隠蔽機能。
だが今回は規模が違う。
街全体が、神話を受け入れるための舞台へ変えられていた。
同時刻。
冬木教会の地下礼拝堂で、男が目を開けた。
黒い法衣。
銀の十字架。
そして、燃え尽きたはずの過去を背負った瞳。
彼は監督役ではない。
監督役という制度は、今回の神杯戦争において意味を失っていた。
教会の権威も、魔術協会の管理も、神々の座に接続した時点で半ば破綻している。
だが、それでも誰かが記録しなければならない。
英雄と神がぶつかる夜を。
人間がどちらを選ぶのかを。
男の前には、十五枚の羊皮紙が浮かんでいた。
サーヴァリアント側マスター候補。
一枚目。
久遠寺零士。
契約クラス、海王。
神格真名、未確定。
二枚目。
エルネスタ・バルトメロイ。
契約クラス、雷帝。
神格真名、未確定。
三枚目。
瑠璃宮アヤメ。
契約クラス、月神。
神格真名、未確定。
四枚目。
獅堂レオン。
契約クラス、戦神。
神格真名、未確定。
五枚目。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
男の指が止まった。
その名は、本来ならここにあってはならない。
生きているはずのない少女。
聖杯の器として生まれ、五年前の戦争で運命を終えたはずの名。
だが羊皮紙には確かに刻まれていた。
契約クラス、終末神。
神格真名、未確定。
男は静かに目を閉じる。
「……死者まで呼び戻すか、神杯」
答えはない。
地下礼拝堂の奥で、鐘が鳴る。
一度。
二度。
三度。
その音は、冬木の夜へ広がっていった。
冬木大橋。
告知が終わった直後、少年神は大きく伸びをした。
「さて。ルールも聞いたことだし、続きをしようか」
「まだやる気なの?」
凛が信じられないものを見る目で言う。
「当然だよ。戦争は始まったばかりだ」
少年神が槍を構える。
その瞬間、セイバーが前へ出た。
だが、士郎が彼女の腕を掴む。
「待て、セイバー」
「シロウ?」
「ここで決着をつける必要はない」
士郎は少年神から目を離さない。
「ルールが分かった。敵が三十組いることも分かった。今ここで消耗するのはまずい」
凛が頷く。
「珍しく正論ね」
「珍しくは余計だ」
アーチャーも同意するように弓を下ろしかけた。
だが、少年神は笑みを深める。
「逃がすと思うかい?」
槍が地面に触れる。
橋の左右から水壁が立ち上がった。
前後を塞ぐ巨大な水の檻。
退路が消える。
「思わない」
士郎は即答した。
「だから、逃げるんじゃない」
彼の視線が上へ向く。
ギルガメッシュ。
黄金の王は、退屈そうにこちらを見下ろしていた。
「おい、ギルガメッシュ!」
凛が叫ぶ。
「一時休戦よ! あんたもあの神を放っておく気はないんでしょ!」
英雄王は眉を上げた。
「雑種が我に命じるか」
「命令じゃないわ。提案よ」
「同じことだ」
「なら取引! あいつの神器、あんたの蔵にもない原典かもしれないわよ!」
その言葉に、ギルガメッシュの表情がわずかに変わった。
愉快そうに。
獰猛に。
「口だけは達者になったな、遠坂」
「どうも!」
少年神が楽しげに二人を見る。
「なるほど。神を前にして、英雄同士が手を組むか」
「勘違いするな」
ギルガメッシュの背後に、無数の黄金門が開く。
「我は誰とも組まぬ」
宝具の切っ先が、一斉に少年神へ向く。
「ただ、神を名乗る雑物が我の庭で潮を撒き散らすのが不快なだけだ」
次の瞬間、王の財宝が降った。
剣。
槍。
斧。
鎖。
名も知らぬ原典の数々。
黄金の雨が水壁を貫き、神代の海を穴だらけにする。
少年神は槍を回転させる。
水流が防壁となり、宝具群を弾く。
だが、数が違う。
神の槍が一本なら、英雄王の蔵は無限に近い。
その隙を、セイバーは逃さなかった。
「シロウ!」
「ああ!」
士郎が投影したのは、ただの剣ではない。
干将・莫耶。
アーチャーの双剣を模した投影。
完全ではない。
劣化品だ。
だが、手に馴染む。
士郎とアーチャーが、同時に左右から走る。
同じ武器。
同じ軌道。
だが、違う歩幅。
片方は到達した未来。
片方はまだ折れていない現在。
少年神が一瞬、どちらを迎撃するか迷う。
そこへセイバーが中央から突っ込む。
三方向同時攻撃。
さらに凛の宝石魔術が足元を撃ち抜き、少年神の水流制御を乱す。
ギルガメッシュの宝具雨が上から押さえ込む。
神を殺すには足りない。
だが、神を退かせるには十分だった。
少年神は笑いながら、初めて大きく後退した。
その背後で、水壁が崩れる。
「今!」
凛が叫ぶ。
アーチャーが士郎の襟首を掴む。
「おい!」
「文句は後だ」
そのまま士郎を橋の端へ投げる。
セイバーが士郎を受け止め、凛が転移用の宝石を砕く。
赤い光が四人を包む。
少年神は追わなかった。
彼はただ、三叉槍を肩に担いで笑っていた。
「また会おう、人間」
青い瞳が士郎を見ている。
「その時までに、君がどこまで神話を拒めるか、楽しみにしているよ」
光が弾けた。
士郎たちの姿が消える。
橋の上には、少年神とギルガメッシュだけが残った。
英雄王は少年神を見下ろす。
「追わぬのか」
「今殺すには惜しい」
「神にしては随分と人間臭いな」
「英雄に言われたくはないね」
二人の視線がぶつかる。
神と英雄。
神話の始まりと、人類史の原典。
その間に火花が散る。
だが、ギルガメッシュは宝具を収めた。
「今宵は見逃す。だが覚えておけ、神の残滓」
黄金の王は冷たく告げる。
「この戦争で神杯に至るのは我だ。神であろうと、王の財に手を伸ばすことは許さん」
少年神は楽しそうに笑った。
「なら、僕も覚えておこう。人類最古の王」
空の海が薄れていく。
「君の蔵に、海は入っているかな?」
その言葉を最後に、少年神の姿は水泡となって消えた。
ギルガメッシュは鼻を鳴らす。
「愚問だ」
黄金の舟が夜空へ消える。
冬木大橋には、破壊の痕跡だけが残った。
だが一般人が朝に見るそれは、ただの老朽化した橋の損傷として処理されるだろう。
神話は隠される。
英雄は記録されない。
魔術師は沈黙する。
いつも通りの、最悪の夜だった。
衛宮邸。
転移の光が弾け、士郎たちは庭へ転がり込んだ。
「っ……!」
士郎は肩から地面に落ち、息を詰まらせる。
直後、セイバーが彼の前に膝をついた。
「シロウ、怪我は?」
「大丈夫だ。腕が少し痺れてるだけ」
「少し、ではありません」
セイバーは士郎の腕を見る。
神器を受け止めた右腕は、皮膚の下で血管が青黒く浮き、魔術回路が焼けたように熱を持っていた。
凛が顔をしかめる。
「馬鹿。神の神器を投影剣で受けるなんて、自殺行為よ」
「受けなきゃ刺さってた」
「それはそうだけど!」
凛は怒鳴りかけて、言葉を飲み込んだ。
士郎が変わっていないことに苛立つ。
変わっていないことに安心する。
そして、変わっていないままではこの戦争を生き残れないことに、恐怖する。
アーチャーは腕を組んで壁にもたれた。
「衛宮士郎。忠告しておく」
「何だよ」
「次に同じことをすれば、腕では済まない。魂ごと削れる」
士郎は黙った。
アーチャーの声には、皮肉がなかった。
だからこそ、重かった。
セイバーは静かに士郎の手を取る。
「シロウ。今度の戦いは、貴方が一人で無理をして解決できるものではありません」
「分かってる」
「本当に?」
士郎は答えに詰まった。
分かっている。
つもりだった。
だが、目の前で誰かが傷つきそうになった時、自分が剣を出さずにいられるか。
その問いに、彼は嘘をつけなかった。
セイバーは小さく息を吐く。
「なら、約束してください」
「約束?」
「一人で死にに行かないと」
夜風が吹いた。
士郎は、五年前の別れを思い出した。
届かなかった手。
消えていく背中。
言えなかった言葉。
もう一度会えた。
だが、それはもう一度失う可能性を意味している。
士郎はゆっくり頷いた。
「分かった。約束する」
セイバーの表情が、ほんの少しだけ緩む。
「ありがとうございます」
凛が咳払いした。
「感動の再会中悪いけど、状況整理するわよ」
彼女は縁側に腰を下ろし、魔術端末代わりの宝石板を広げる。
「現時点で確認できた参加者は三十組。サーヴァント十五騎、サーヴァリアント十五柱。マスターはそれぞれ十五人。つまり、合計六十人の主要参加者」
「多すぎるだろ」
士郎が呟く。
「多すぎるのよ。しかも過去の聖杯戦争経験者が混じってる。私たちだけじゃない」
凛は宝石板に浮かぶ反応を指差す。
「新都に黄金反応。おそらくギルガメッシュ。郊外に巨大な狂化反応、ヘラクレスの可能性大。柳洞寺方面にキャスター系の結界反応。港にライダー系の霊基。教会付近にアサシン反応。さらに――」
凛の指が止まる。
「アインツベルンの森に、未確認の神格反応」
士郎の顔が強張る。
「アインツベルン……?」
嫌な予感がした。
凛も同じ顔をしている。
アーチャーは目を伏せた。
セイバーもまた、沈黙した。
五年前の戦争は、終わったはずだった。
救えなかったものもある。
戻らなかった命もある。
それでも、終わったはずだった。
だが神杯は、終わった物語を掘り返す。
願いではなく、傷を呼び戻す。
その時。
衛宮邸の門が鳴った。
こんな夜更けに、客が来るはずがない。
全員が戦闘態勢に入る。
セイバーが剣を構え、アーチャーが弓を作り、凛が宝石を握る。
士郎は立ち上がった。
門の向こうから、声がした。
「こんばんは、シロウ」
小さく、懐かしい声。
凛の顔から血の気が引いた。
士郎は息を止める。
門が静かに開く。
そこに立っていたのは、白い少女だった。
銀髪。
赤い瞳。
白いドレス。
雪のように白く、血のように赤い。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
五年前に失ったはずの少女が、そこにいた。
だが彼女の背後には、黒い影が立っている。
人の形をしている。
けれど、人ではない。
終わりの匂いがした。
夜よりも黒く、死よりも静かで、神よりも遠い何か。
イリヤは微笑む。
「また会えたね、お兄ちゃん」
士郎は言葉を失った。
少女の右手には、令呪ではない黒い神紋が刻まれている。
凛が震える声で呟いた。
「終末神……」
黒い影が、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、星の終わりに似ていた。
神杯戦争、第二夜。
最初の再会は奇跡だった。
だが、二度目の再会は。
奇跡の形をした、呪いだった。
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読んだわ…! まず「空に海がある」って冒頭の一文で世界観に引き込まれた。少年神と騎士王の戦闘、神話の重みがちゃんと設定として積み上がっててめちゃくちゃ好き。それでいて士郎の“人間として立つ”スタンスがブレてないのが熱い。最後のイリヤ登場で終わるのも続きが気になりすぎる構成…! これは毎日巡回しなきゃやばいやつだわ🔥
聖杯
1,049
涅槃
1,281