テラーノベル
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朝は、いつも同じ音から始まる。
スマホのアラームと、窓の外を走る電車の低い振動。
美咲は布団の中で目を開けると、ほんの数秒だけ天井を見つめる。
「今日も、やることは同じ」
そう小さく呟いて、体を起こした。
学校、レッスン、バイト。
そして帰宅してからの自主練習。
特別な才能があるわけじゃない。
飛び抜けてかわいいわけでもない。
むしろ、周りにはもっと整った顔立ちの子や、スタイルのいい子がたくさんいる。
それでも、美咲は止まらなかった。
——アイドルになる。
それは、子どもの頃に見たステージの光から始まった夢だった。
⸻
彼と出会ったのは、そんな日々の延長だった。
人気急上昇中のアイドルグループのセンター、蓮。
テレビで何度も見たことのある存在。
レッスンスタジオの廊下で偶然すれ違ったとき、美咲はただ頭を下げることしかできなかった。
「おはようございます…!」
声は少し震えていた。
蓮は立ち止まり、美咲を見た。
ほんの一瞬、時間が止まったような気がした。
「…君、毎日いるよね」
予想外の言葉に、美咲は目を丸くする。
「え、あ、はい…」
「すごいなって思ってた」
それだけ言って、蓮は軽く笑って去っていった。
⸻
それが始まりだった。
それからというもの、廊下で顔を合わせるたびに、短い会話が増えていった。
「今日も遅くまで?」
「はい、まだ全然で…」
「いや、あれで“全然”は嘘でしょ」
からかうような口調なのに、どこか真剣な目。
美咲は気づいていなかった。
彼が、彼女を見ていた時間の長さを。
⸻
周りにはもっとかわいい子がいる。
オーディションに行けば、誰もが振り返るような美少女もいるし、
スタジオにはすでに人気のある練習生もいる。
その中で、美咲はいつも「普通」だった。
「なんであの子が残ってるの?」
そんな声が、聞こえたこともある。
胸が痛くならなかったわけじゃない。
むしろ、何度も泣いた。
だけど、それでも次の日には同じ時間にスタジオにいた。
⸻
ある日の夜。
自主練を終えて外に出ると、入口の横に人影があった。
「遅い」
聞き覚えのある声。
「蓮さん…?」
「待ってた」
あまりにも自然に言うものだから、美咲は一瞬意味が理解できなかった。
「え、なんで…?」
「帰り道、同じ方向だろ」
「…そうですけど」
「それに」
少しだけ間を置いて、蓮は言った。
「一人で帰らせたくない」
心臓が跳ねる音が、自分でもわかるほど大きかった。
⸻
それから、帰り道は一緒になった。
他愛のない話。
レッスンのこと。
仕事のこと。
夢のこと。
「なんでそんなに頑張れるの?」
ある日、蓮が聞いた。
美咲は少し考えてから答える。
「好きだからです」
「…シンプルだな」
「でも、それだけです」
迷いのない声だった。
蓮はその横顔を見て、ふっと笑った。
「そういうとこ、好きだな」
その言葉は軽く言われたはずなのに、妙に重く胸に残った。
⸻
やがて噂が立つようになる。
「あの子、蓮とよく一緒にいるよね」
「なんで?」
「別にかわいくないのに」
陰で言われることも増えた。
それでも、美咲は歩く速度を変えなかった。
止まらないと決めていたから。
⸻
ある日、オーディションの最終選考。
ステージの上に立ったとき、美咲は不思議と落ち着いていた。
照明がまぶしい。
審査員の表情は見えない。
だけど、一番後ろに——
見覚えのある姿があった。
蓮だった。
腕を組んで、真剣な目でこちらを見ている。
(見てくれてる)
それだけで、体の奥に火がついた。
⸻
歌い終わり、踊り終わったあと。
静寂が数秒続いた。
そして、拍手。
その中で一番強く響いた気がしたのは、蓮の手だった。
⸻
結果発表の日。
名前を呼ばれた瞬間、頭が真っ白になった。
合格。
その一言が、現実になるまでに少し時間がかかった。
⸻
スタジオを出たとき、外で待っていたのはまた彼だった。
「おめでとう」
シンプルな言葉。
でも、誰よりも嬉しかった。
「…ありがとうございます」
声が震えていた。
「知ってたけどな」
「え?」
「受かるって」
自信満々に言うその顔に、美咲は思わず笑った。
⸻
少し沈黙があって、蓮が言った。
「なあ」
「はい?」
「これから、もっと忙しくなるだろ」
「はい、多分…」
「それでも」
一歩近づいてくる。
「一緒に帰っていい?」
美咲は一瞬だけ驚いて、それから小さく笑った。
「はい」
⸻
周りには、もっと輝いて見える人がたくさんいる。
それでも——
毎日、同じように進み続ける誰かの姿は、
ちゃんと誰かの目に届いている。
ゆっくりでも、確実に。
光のほうへ、少しずつ。
そしてその光の中で、
誰かがそっと手を伸ばしてくれることもある。
それは、奇跡なんかじゃない。
積み重ねた日々が、引き寄せたものだった。
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