引継はあっという間に終わり、営業部での日々が始まった。
成美への引継も皆川さんからの引継も、限られた時間の中では良く出来たと思う。
私自身も営業部に慣れて来ていた。
「秋野、見積もりは出来てるか?」
藤原雪斗はもう当たり前のように私に仕事を振って来る。
私生活の面は別として、彼の仕事に関しては私も認めるようになっていた。
みんなが言う通り、藤原雪斗の仕事は隙が無い。
同じチームの人間からしたら行動力と決断力が有る頼りになる人物だった。
「データは藤原さんの個人フォルダーにも入れておきました」
印刷した見積りを渡しながら言うと、藤原雪斗は嬉しそうに頷いた。
「秋野は意外と気が利くよな」
意外とってのは余計だけど、なんだかんだで藤原雪斗とは普通に話せるようになっていた。
心配していたけど、なんとかやって行けそうな気がする。
ホッとした気持ちで週末を迎えた。
湊の居ない週末はやっぱり寂しい。
かと言って無理に予定を入れる気にもならなくて、家で過ごす事にした。
夜は溜めていたドラマでも見ながら、のんびりする事にして、昼は久しぶりに大掃除をする事にした。
掃除ってやり始めると結構夢中になる。
あっという間に夕方で、家中ピカピカにすると、最後に残った湊の部屋が気になった。
普段は勝手に入らないようにしてるけど……ついでだから、掃除機でもかけようかな。
扉を開け中に入り、窓を開け換気する。
湊の部屋はあまり余分な物が無い。
シングルベッドに、小さな机。
机の上にはテキストや、書類が山になっていた。
「風で飛んじゃいそう……」
書類に何か重りを乗せようと探していると、机の端に淡いピンクの封筒が有る事に気がついた。
「何、これ……」
湊のものとは思えない。
誰かから貰った?
手に取り見ると封は開いていて、宛名と差出人と消印は無かった。
……手渡し?
勝手に見ちゃいけないって分かってる。
でも、どうしても気になる。
見過ごせない何かを感じる。
緊張で苦しくなりながら、中身を確認する。
中には一枚のカード。
『今日はいろいろありがとう。記念の日を一緒に過ごせて嬉しかった。これからも支え合っていけたらいいな』
丸みのある字で書かれた文字を見た瞬間、胸を突かれたような衝撃が走った。
どんな状況でこのカードを貰ったのかは分からない。
ありがとうの意味も何もかも。そして相手が誰なのか。
分かるのは二人は、ただの友達なんかじゃ無いって事だけ。
その事実は、どうしようも無い位、私を苦しめた。
湊が浮気をしている?
まさかと思う。
でも、この一年の事を考えると自信が無い。
私は湊に愛されていると自信を持って言えない。
心が通じていたと言い切れない。
名前も分からない誰かが書いたカードを前にして、不安で仕方ない。
湊にはっきり聞いた方がいいのかな。
電話をかけようとしたけれど出来なかった。
週末の研修……本当なの?
もし違っていたら……今頃、他の女の人といたら。
そう考えると怖くて仕方なかった。
湊は誠実だから裏切られるなんて思ってもいなかった。
知ってしまった事実にどう対応すればいいのか分からない。
独りきりの部屋で、何も出来ないまま震えていた。
結局、湊に連絡出来なかった。
湊からもメッセージすら来ない。
本当に研修なら連絡くらい出来るはずなのに。
まだ真実は分からないのに、悪い事ばかりが頭に浮かぶ。
眠れないまま月曜日の朝を迎えた。
悩んでいても仕事は山の様に有る。
寝てないせいか身体は怠かったけど、ちゃんとやってるつもりだった。
でも、ミスをしてしまっていた。
「秋野さん、明日着予定の製品の手配が漏れてるけど」
女性営業の真壁さんが、険しい顔をして言った。
確認すると信じられないような、単純ミス。
「……申し訳ありません、直ぐに手配します」
慌てて言うと真壁さんは不機嫌そうな溜め息を吐いた。
「ちゃんとやってね、皆川さんはこんなミスしなかったわ。必ず明日着くように手配して」
「はい」
真壁さんは冷たく言うと、背中を向けた。
かなり怒っているのが分かる。
それに皆川さんと比較して仕事が出来ないと言われてしまった。
悔しかったけど、ミスをしたのは私だから仕方ない。
感情を飲み込んで直ぐに手配を始めた。
ミスを挽回するのはかなりの手間が必要だ。通常の業務が滞ってしまい、残業が決定した。
一人、二人と次々と帰って行くのを見送りながら、注文を入力していく。
出来れば残業なんてしたくないけど、今日はかえって良かったかもしれない。
あのカードの事を湊に問い質すか、見てみぬ振りをするかまだ決めかねていたから。
苦しい位、気になるけど勝手に封筒を開けてしまった負い目で言い出し辛い。
それに、プライベートを暴くような事をして湊に軽蔑されたら。
こんな状態でも、湊に嫌われたくないと思う。
あれこれ思い悩みながら、入力を続けていると、
「まだ終わらないのか?」
藤原雪斗が私のPCの画面を覗き込みながら言った。
「あ、はい……」
「真壁の案件に時間がかかったんだろ?」
「はい、入力ミスをしてしまって……でももう解決しました」
「それ終わらないんだろ? 半分やる」
藤原雪斗は私の机に山になっている書類を素早く取った。
「いいです、自分で出来ますから」
取り返そうとすると、藤原雪斗は顔をしかめた。
「焦ってやってまたミスしたらどうするんだよ? 真壁の分も有るんだろ?」
「真壁さんの?」
そう言えば、藤原雪斗と真壁さんは特別親しかった。
二人で寄り添ってタクシーに乗る姿が脳裏に蘇える。
「……大丈夫です。真壁さんにはもう迷惑かけませんから」
「お前さ……何でそんなに愛想無いわけ?」
「……は?」
「手伝うって言ってんだから、素直に頼ればいいだろ?」
何で、文句を言われなくちゃいけないんだろう。
私はただ、自分の仕事をやろうとしてるだけなのに。
「自分の仕事は出来るだけ自分でやりたいだけです」
そう言って、藤原雪斗から目を反らす。
溜め息が聞こえた後、藤原雪斗はいつもより力無い声で言った。
「前から思ってたけど……お前、俺の事嫌ってるだろ」
「……え?」
ドキリとした。
藤原雪斗の言葉は図星だったし、彼がこんな事を言うなんて思ってなかったから。
「……そんなこと有りません」
「嘘言うな、態度見てたら分かるんだよ」
藤原雪斗は険しい顔をして私を見る。
「私は普通にしてます。態度が違うのは藤原さんの方じゃないですか?」
「どういう意味だ?」
「他の人に比べ、私に冷たいですよね」
「それはお前がいつも不機嫌そうにしてるからだろ?」
つまり私の態度が悪いから冷たくしてるって事?
何で私のせいになってるの?
しかも何でこんな話に?
湊の事でいっぱいいっぱいなのに、何でこんな状況になってるのか。
「……私の態度が悪かったんですね、今後気を付けます」
納得はしてないけど、今は言い争う気力が無い。
面倒な事は避けたくて投げやりな気持ちで言った。それなのに、
「思っても無い事適当に言うなよ」
私が折れたつもりだったけど、藤原雪斗の機嫌は更に悪化した。
しつこい……せっかく私が引いたのに何で蒸し返すんだろう。
「言いたい事有るならはっきり言えよ」
私のイライラも増していく。
「何も言わないで機嫌悪い態度取られるのって、一番迷惑だな」
せっかく大人の対応してるのに!
「じゃあ、はっきり言いますけど私、あなたみたいな人嫌いなんです」
「……理由は?」
「結婚してる事をわざと隠してるところとか、遊んでるところとか……そういういい加減な人嫌なんです!」
「結婚?」
藤原雪斗の表情が、苛立ちから驚きに変わった。
結婚の事、私が知ってるとは思ってなかったのかもしれない。
「一年以上前に結婚してますよね。私が社内手続したんです」
藤原雪斗は何か言いたそうに私を見る。
「心配しなくていいですよ。ペラペラしゃべったりしてません、個人情報ですから」
「……」
「でも独身みたいに振る舞う藤原さんの態度を見る度不快でした。だってみんなを騙してるんですから」
そういう不誠実さが許せなくて、私も態度に出てしまったんだろう。
藤原雪斗はしばらく黙っていたけど、諦めた様にため息を吐いた。
「不倫や浮気は絶対に許せないってやつか」
「当たり前ですよね? 普通はしないと思います」
「相変わらず生真面目だな。けど人それぞれ事情も有る、俺が浮気してたってそれなりの理由が有るんだよ」
そんなの自分を正当化する為の言い訳にしか思えない。
「お前、もう少し視野を広く持ったら?」
「……!」
藤原雪斗はそう言うと、私の机から書類の半分を奪い取り自分の席に戻った。
浮気するのも理由が有るなんて……そんなのした張本人が言う台詞じゃないと思う。
それなのに偉そうに、人を非難するような事言うなんて。
少しは上がっていた藤原雪斗への高感度が一気に下がった。
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