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頬を叩く冷たい感触で、僕は意識を引き戻した。
劇場の空調の効いた乾燥した空気ではない。肺を満たすのは、苔と濡れた岩、そして微かな獣の匂いが混じった重い空気だ。
「……っ」
上体を起こすと、燕尾服の裾が泥で汚れているのが見えた。僕はまず、職業的な本能に従って身体の各所を確認する。左の袖口に隠した数枚の硬貨。胸ポケットのトランプ。内ポケットに忍ばせたフラッシュ・コットンと煙幕用の煙球(スモークボール)。よし、道具は無事だ。
「よかった、ようやく意識が戻ったのね」
上から降ってきた声に、僕は顔を上げた。そこには、古めかしいランタンを掲げた少女が立っていた。肩までの金髪にクリっとした目。中学生か高校生か……。
少女は膝まであるブーツに、機能性を重視したような旅装束。そして脇には、辞書のように分厚い本を抱えている。
「ここは……。劇場じゃないね。新作のテーマパークの入り口か何かかな?」
僕が問いかけると、少女は目を丸くし、それからまじまじと僕の格好を眺め始めた。その視線は、僕の顔よりもむしろ、燕尾服の質感や仕立てに注がれている。
「どういうこと? 何を言っているのか分からないけれど……。あなた、その格好……もしかして、どこか遠い国の王族の方? それとも、この国の文官の方かしら」
「恰好って……いや、これはただの仕事着なんだが」
「その艶やかな黒い布地、精密なカッティング。この辺りの貴族でも、そんなに洗練された『礼服』を纏っている人は見たことがないわ。それにその白い胸当て……。そんな汚れやすい色を平然と着こなすなんて、よほどの高貴な身分か、あるいは――」
少女の瞳が、伝説を見つけた子供のように輝いた。
「――古文書に記された『異世界の訪問者』。そのどちらかよね」
「君、なかなか設定が凝っているね」
僕は苦笑しながら立ち上がった。埃を払い、シルクハットが近くに落ちていないか探す。
マジックの機構トラブルで頭を打って、幻覚を見ているのか? それにしてはリアリティがありすぎる。洞窟というか、鍾乳洞というか。多分これはリアルだ。この少女は、偶然ここを通りかかったコスプレイヤーか、あるいは風変わりな学者といったところか。
「私はルーシー。しがない司書よ。この洞窟に伝わる『星の雫』の伝承を調べていたの。……それで、ええと、高貴な訪問者様? お名前は?」
「ショウだ。ただのマジシャンだよ」
「マ……ジシャン? 魔導師ってこと! すごい! やっぱり王国の人? 異世界の人じゃないのは残念だけど」
その時。洞窟の奥から、空気を震わせるような低い唸り声が響いた。
ルーシーの顔から血の気が引く。
暗闇の中から這い出してきたのは、僕の知っている動物のどれにも当てはまらない、巨大な体躯を持つ「何か」だった。全身を硬い外殻に覆われ、鎌のような四つの脚が岩を削る音を立てている。
「うそ……。『岩噛み』が出るなんて……!」
「……ロボットにしては出来が良すぎるだろ」
怪物がこちらを威嚇し、鋭い脚を振り上げる。それが幻覚でも演出でもないことは、頬を掠めた風の鋭さで理解できた。
「ショウ、逃げて! 私の光魔法じゃ、目眩ましにもならないわ!」
ルーシーが何らかの呪文を唱えると、彼女の持つランタンの光が不自然なほど強く明滅した。
なるほど。マジシャンとしての僕の目は、それが化学発光でも電気的なトリックでもないことを見抜く。……だが、今はそれを分析している暇はない。
怪物がルーシーに狙いを定める。
「やれやれ。千秋楽の後のアンコールにしては、少し刺激が強すぎるな」
僕は落ち着いた動作で燕尾服の内側に手を差し込んだ。アラジンマッチ(自動で火のつくマッチ)を掴む。
「ルーシー、僕の合図で右へ飛べ」
「えっ……?」
「三、二、一……」
僕は指先で小さな球体を弾いた。
――バッ、と。怪物の眼前で凄まじい白煙が爆発した。僕が特注で作らせている、目潰し用の煙幕(スモークボール)だ。怪物は突然の視界喪失に混乱し、鎌のような脚を無茶苦茶に振り回す。その隙に僕はルーシーの腕を掴み、岩陰へと滑り込んだ。
「魔法……? 今の、無詠唱の爆破魔法なの!?」
ルーシーが驚愕の表情で僕を見上げる。
「いいや、ただの『種も仕掛けもある』手品さ」
僕は煙の中で、もう一度指を鳴らした。混乱する怪物の注意を逸らすために、逆方向に仕掛けた別の「小道具」を作動させる準備をしながら。
煙幕の向こう側で、怪物が苛立たしげに岩を叩く音が響く。僕は燕尾服の内ポケットから、もう一つの仕掛け――特製の爆音管(フラッシュ・バン)を取り出した。瞬間移動の時の演出用だが、ステージでなくこの至近距離で使用すれば……。
「もう一発、おまけだ」
アラジンマッチの先端を親指の爪で撥ねる。シュッと小さな火が灯り、導火線に触れた。僕はそれを怪物の足元とは逆の方向、洞窟の深い裂け目へと向かって正確に投げ放つ。
数秒後。
キィィィィィィィィンッ!
という鼓膜を突き刺すような高音と、洞窟全体を震わせる爆音。どうやらその衝撃は致命的だった。怪物は悲鳴のような音を上げ、パニックに陥りながら音の源とは反対方向――つまり、洞窟の奥深くへと逃げ去っていった。
静寂が戻る。僕は燕尾服の襟を正し、近くの岩陰に落ちていたシルクハットを拾い上げた。幸い、大きな型崩れはしていない。
「……行ったわ」
ルーシーが、呆然とした様子で僕を見つめていた。その瞳には、恐怖ではなく、純粋な好奇心が溢れ出している。