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自分の言った言葉が信じられない!
桜は女子トイレのパウダールームで一人叫び出しそうだった、鏡に映る自分の顔は、興奮と混乱で真っ赤に染まっている
手元のタブレットを握りしめ、深呼吸を繰り返しても心臓のドキドキは収まらない・・・
彼は私にあんな形だけど・・・プロポーズしたことになる?もちろん彼はあの時は自暴自棄になっていた、その場にいた桜に冗談で言ったのだ
あの一重でキリッとした瞳に可哀想なぐらい浮かんでいた絶望感・・・あれは彼は本気でこの会社を手放す気だったのかもしれない
桜の胸はざわめき、頭の中ではあの言葉がエンドレスでリピートされていた
―君は僕のヨメになる―
その言葉が、まるで魔法のように桜の心を掴んで離さない、ジンの声はいつも低くて落ち着いているのに、なぜか今日は特別に響いた
まるで心の奥の・・・普段は鍵をかけて隠している小さな箱をノックされたみたいだ、今朝、淡路島からかかってきた父の電話の言葉が蘇る
『旦那様を見つけて早く結婚することだ、桜・・・パパは本当にそれを望んでいるよ』
ついさっきまでは、桜は父の言葉に反抗的な気分だった、結婚? そんな古臭い! 現代の離婚率を父は知らないのだろう、結婚したからといって一生連れ添う夫婦なんて、ほんの一握りだ
仕事に夢中な自分には恋愛や結婚なんて二の次だった、結婚も色んな形があるし、事務的に「夫」や「妻」が必要な理由は多種多様だ、例えば・・・ビザの問題とか
そう、ビザ・・・!
桜の頭に電撃が走った、ジンが国外退去の危機にある今、偽装結婚は彼を救う最後の手段かもしれない、そして桜自身にとっても、この計画は家族のプレッシャーから逃れる一時的な盾になるかもしれない
桜は目を閉じてジンの姿を思い浮かべた・・・ダークなスーツに身を包み、御堂筋のオフィス街を颯爽と歩く彼
会議室で鋭い眼光で戦略を語る姿、時折見せる、誰も気づかないような疲れた表情・・・たった一人で日本にやってきて会社をここまで巨大にした彼
あの孤独な背中を、桜は尊敬の眼差しで何度もそっと見つめてきた、推しと呼ぶには、あまりにも近くて、あまりにも尊い存在だった
私がこの会社で、エンジニアとして・・・彼の元で働く人生をどれほど愛しているか彼は分かっているのだろうか?
小さいけれど好きなもので囲まれた1LDKのおしゃれなマンション、自分のお城、会社までの道のりで立ち寄るハマバのコーヒーショップ
御堂筋の街路樹に並ぶ、美味しくてランチに迷うお店、色とりどりの華やかな最先端のファッションブティック店、多国籍な人種、心斎橋を歩いているだけで自分が都会的でスタイリッシュな良い女になった気分になる
淡路島でスニーカーが泥だらけになる生活より、ハイヒールで舗装された道を闊歩する自分・・・ずっと憧れていた都会の生活
そして何より、エンジニアとして人々の役に立つアプリを開発するやりがい、それを支える彼の存在、もし彼がいなくなったら・・・このすべてが崩れてしまうかもしれない
桜はぎゅっと指を握りしめた
興奮で背筋に震えが走る、とんでもないことを口走ってしまったが、あの強欲な株主達から彼を守るには、これ以上ない反駁材料になるのではないか?
いや、むしろ、最高のアイデアだとさえ思えてきた
ただ・・・最後にジンが口にした言葉を後悔しているような顔が脳裏に焼き付いて離れない
あの瞬間、彼の目には一瞬の後悔と、私を見る瞳にどこか切なげな影があった
桜の胸がチクリと疼いた
たとえ偽装でも私と夫婦役を演じるのは彼は気が進まないのかな・・・?
もしかして、彼も少しでも私に好感を持ってくれている? という淡い期待は打ち消した方がいいだろう
彼はただ自暴自棄になって、仕事の危機を乗り越えようとしただけよ!自分は彼に何とも思われていない、優秀なアシスタント以外の何もでもない
それでも桜はそのままデスクに戻っても、社長室でひらめいた突飛な思いつきを払いのけることはできなかった
彼の役に立ちたい
頭の中では、ジンの声と、淡路島の家族の顔が交錯する、母の厳格な視線、父の温かい笑顔、結婚しないと「人間じゃない」と責められているような親戚一族の顔が一人一人思い浮かぶ
結婚したと言えば、親戚一族はみんな喜ぶよね・・・?
そして彼には配偶者ビザがめでたく取得できて、会社の存続も危ぶまれる事はない、半年後に「幸せな離婚」をしても家族は当分「再婚しろ」とは言わないだろう
どう考えても利点しか思いつかなかった
でも、心のどこかで・・・本当は・・・桜は自分の本心を押し込めた、これはあくまでもビジネスで契約だ、ジンへの淡い恋心は、そっと胸の奥にしまっておくべきだ
気が付くと桜はパソコンに向かい、『半年後に幸せな離婚へ向けて』というプレゼンテーション資料を作成していた、企画書を作成するのは得意中の得意だ、読む者に利点しか想像出来ない様に書き、そしてそれが成功しているイメージしか考えられない様に相手の脳裏に植えつけるのだ
壮大な項目が並ぶその資料は、我ながら自分を褒めたくなるほど理路整然としていた、偽装結婚のメリットを、まるでアプリ開発の企画書のように論理的に書き連ねた
これなら彼も納得してくれるはず・・・二時間後、桜は出来上がったファイルを社の業務用チャットでジンに送りつけた
送信ボタンを押した瞬間、胃がキリッと締め付けられた、もう後には引けない・・・
なのになぜか気持ちは落ち着いていた、まるでずっと心のどこかでこの瞬間を待っていたかのように
やがて業務チャットにジンからの返事が届いた
―資料を拝見させてもらった、よければ今晩打ち合わせをしたい―
「やった!」
桜はガッツポーズをして立ち上がった、向かいのデスクの社員達が何事か?と画面から目を離して桜を見る、慌てて桜は軽く会釈するように頭を下げ、ストンッと座って気持ちを整える
今晩の打ち合わせで、彼はどんな顔をするだろう? 私の提案が通るかどうか、あの彼の冗談がどんな形で現実になるのか
桜はギュッと目を閉じた
いづれにしても彼を祖国に帰す訳にはいかない
会社のためにも、何より自分のためにも
桜の胸は期待と不安、そしてほのかな恋心で膨らんでいた