荒れた乾風《あなぜ》が吹き荒《すさ》む、古色蒼然《こしょくそうぜん》たる研究所の敷地内。最早、研究塔は崩壊に近しき状態と成り果て、古寂《ふるさ》びた幾何学模様が描かれた格子窓《マシュラビーヤ》からは、全てを焼き尽くそうとその寒空に、大きな炎を勢いよく吐き出している。黒煙は月隠《つきこも》りを齎《もたら》すと、彼誰時《かわたれどき》迄には未だ遠く、より一層周囲を命の芽吹く事の無い、暗晦《あんかい》の世界へとズブズブと沈めていった。
皮肉にも煉獄の大火に照らされ揺れ動く巨大な影に、小さな影が三つ、お互いに決定打も無いままに刻限だけが過ぎていた。
―――応援を待つか?
どうする?―――
脳裏で考えるヴェインを他所に、間髪入れずにジンは、その機動力を全開に化け物へと土を蹴る。恐怖を肌で感じるよりも速く巨体を支える脚へと狙いを定め、火明かりを纏う直剣で閃光を引く―――
一切の迷いの無い、その余りにも勇敢な姿を目に焼き付けたヴェインは、ボソリと呟き、己の薄志弱行《はくしじゃっこう》なる考えを恥じた。
「だよな。俺が悪かったぜ相棒――― 」
化け物は足元を警戒したが、その直後、正面の容貌魁偉《ようぼうかいい》な大男が咆哮し夜空を割ると、一瞬にして故意に注意を削がされる。
「テメェの相手はこっちだオラァァァァァ――― 」
怒り放たれた剛剣を、化け物は一瞬遅れを見せた巨大な爪で追撃する。
バキャンと空中で大剣と鋏脚《けんきゃく》が交差すると大気が激震に揺れ、火花が眸子《ぼうし》に残像を残し網膜を邪魔をする。力と力のぶつかり合いは、勢いそのままに互いの得物をその場で大きく仰《の》け反《ぞ》らせた。
「クソッ――― 硬ぇ――― 」
ヴェインが飛退くと後ろ脚が砂埃を巻き起こした刹那、その中からボヒュンと気流を切り裂きマルチャドが化け物へと押し迫る。
「打《ぶ》ち噛《か》ませ、マルチャド‼ 」
筋肉質の鋼の脚がドンッと地表を簡単に削ると、地面擦れ擦れで構えた凶悪な両角が、埃を引き連れたまま化け物の腹下をドガンと搗《か》ち上げた―――
強撃により大気が歪み湧き立つと、振動圧に鼓膜が揺れる。
マルチャドの強烈な竜巻を帯びた突き上げにより、巨大な化け物は一瞬その場で浮き上がると、腐敗臭漂う黒鳶色《くろとびいろ》の体液を、弱点とみられる腹の下から夥《おびただ》しく撒き散らした―――
―――ギュボアァァァァ
同時にジンにより直剣が脆弱な脚の関節部に差し込まれた。右目を失い化け物の左側からの攻撃を追えないジンに向け、ヴェインが語尾を荒らげ喚起する。
「死角から来るぞ‼ 離脱しろ騎士殿よぅ――― 」
「承知――― 」
ジンは身体を捩《ひね》ると、額の皮一枚でブンッと闇を割く一撃を避けて見せた。
「そっちばっかり気にしてるってぇ事はよぉ、俺様の剣が軟弱って言いてぇのかよテメェ‼ ごらぁぁぁぁ」
ヴェインは振り被りそのまま地表に剛剣を突き刺すと、反動を付け、そのまま前方に身体を空中へと投げ出す。そして勢いそのままに剣を軸に縦回転をして見せると、加速度を得た極大大剣は轟音を捻《ひね》り出し、分厚い甲羅に豪快な一撃を叩き込んだ―――
―――万難《ばんなん》を排《はい》して放つ豪剣は
百折不撓《ひゃくせつふとう》の破邪の剣―――
天を揺るがす程の一撃に、化け物は地面に叩きつけられ堅牢無比《けんろうむひ》な甲羅にピシリと稲妻が赱る。余りの爆発的な威力に、空を覆った黒煙までもが打ち上り吹き飛ぶと、玲瓏《れいろう》たる月明りを地表へと戻す。
残響は今だ耳を劈き、罅割れた甲羅からは体液が派手に吹き出す。口と思《おぼ》しき箇所からは泡を吐き出すと、化け物は身体をブルブルと顫動《せんどう》させ、軈て数ある脚の一部をガクリと地に沈めた。
「効いてるぞ、今が好機だ‼ 」
ジンは勝ち鬨《どき》を唱え、訪れた最大の好機に冷静さを失い飛び出す―――
「ジン待て‼ まだ来るぞ退け、ソイツはそんなに柔《ヤワ》じゃねぇ、誘いに乗るな――― 」
生と死の彼我《ひが》の境は、ジンの直ぐ足元に虎視眈々と機を窺い潜んで居た。化け物はジンの攻撃により痛めた一本の脚を、自らの巨大な鋏《はさみ》で甚《いと》も簡単に切断すると、差し迫るジンに向けて投げつけた。
大型弩砲《バリスタ》並みの大きさの化け物の脚が、まるで矢の様に高速で放たれジンの元へと直撃すると、地面を巻き上げ大地が畝《うね》る。その威力は付近の物を衝撃と爆風により簡単に吹き飛ばすと、土を高く吹き飛ばし、巨大な穴を形成する程であった。
「ジン――― 」
間一髪直撃を避けたジンは、そのまま大量の土砂の波に押され、幾重にも転がされると激しく地面に身体を跳ね上げる……
「がっは…… いいぞ、もう…… 頃合いだ。さぁ俺を…… 狙ってこい――― 」
ジンは漸《やっ》との思いでフラフラと立ち上がり、火種を持ち運ぶ為の香炉入れを腰から勢いよく引き抜くと、目の前に押し迫る恐怖を今か今かと待ち侘《わ》びた。
好機を手中に収めようとする行動は、化け物も人も何も変わりはしない。弱った得物を逃がさんとする本能が、巨体を一気に押し出すと、一瞬にしてジンに迫り、その巨大な鋏脚《けんきゃく》で餌を捕食するがの如く挟み込むと、勝ち誇ったようにジンの身体ごと腕を高々と持ち上げた。
「ぐあぁぁぁぁ」
ギュボアァァァァ―――
「てっテメェ‼ こっちだ、テメェの相手はこっちなんだよ、ごらぁぁぁぁ」
ヴェインは怒号を交え斬り掛かるが、一方の鋏脚《けんきゃく》により簡単に遇《あしら》われてしまう。
「クソッ離せ、ソイツを離しやがれ」
ヴェインは幾度も大剣を振り回しジンの奪還を試みるが、全ての攻撃が去《い》なされ、目の前のジンを奪い返すには至らない。そんな最中、ヴェインは信じられない言葉をジンから聞かされる。
「これでいい。これでいいんだヴェイン。後はあの二人の事を頼む」
「何がいいんだ、いいわけねぇだろーがてめぇジン、なっ? てっテメェ首が…… 」
「呪いによって俺の首はもうすぐ吹き飛ぶ、そんな無様な死に方はしたくない。ならばコイツの腕1本貰って逝く方がマシだ」
「何だと、ふざけんじゃねぇぞテメェ」
「最後にアンタと闘えて良かった。向こうで自慢話しが出来る」
そう告げるとジンは、腹に巻き付けた大量の爆薬に火種を引火した―――
「楽しかったぞヴェイン」
「お前何を――― てっテメェ服の下に…… やっ やめろジン‼ 」
輝き放つ光の中心に天を仰ぐジンの姿が見えた。閃光は音も無く一瞬で知り合えたばかりの友を連れ天空を劈く。ヴェインは膝から崩れ落ち土を握りしめると、後に訪れた爆風で涙を吹き飛ばされた。
「何なんだ、何なんだってんだよこりゃあよぉ、何なんだぁ、何なんだぁ? 何なんだぁ――― 」
届かなかった。あと一歩、自分の力が及ばなかった。誰かを守ると誓ったあの日から、何一つ、未だ何も変わらない自分を責めた。
ヴェインは怒りに震える身体を起こし大剣を構えると、ジンの命と引き換えたはずの剣脚によってドゴンとその場から薙《な》ぎ払われる。
「ぐあぁっ――― クソッ――― 」
咄嗟に地面に剣を突き刺し、盾にした大剣が威力を殺せず地表に長い溝を掘る。
「ちくしょう爆薬程度じゃどうにもならねぇってかよ、じゃあ何か? アイツは無駄死にってか? あぁ? ざけんじゃねぇぞ‼ クソッたれがぁ、 クソッたれがあぁぁぁぁ――― テメェのソノ腕はなぁ、アイツの三途の川の渡し賃なんだよ‼ その腕をよこしやがれぇぇぇ 」
これが最後と刺し違える覚悟のヴェインが、猛烈な勢いで土を弾く。化け物は押し迫るヴェインに恐怖を覚えると、ハサミを大きく開き、その中心部から細い針の様な物を一斉に放った。
肉迫するヴェインの身体には鋭い針が次々を突き刺さる。されど一向に猛進のまま勢いを弱めようとはしない。騎虎《きこ》の勢《いきお》いのまま迫るその姿は、まさに鬼神の如し―――
放たれた剛剣は、月光により光輝を放つと、全てを薙ぎ払わんとするかの如く、怒りの衝撃波が天空を劈く。命を懸けたヴェインの渾身の一撃は、霆《いかずち》を孕み、一瞬で巨大な爪を木っ端微塵に粉砕した。
狐死して兎泣く。禍《わざわい》は得意より生《しょう》じ旅人を惑わす。幽明境《ゆうめいさかい》を異《こと》に、憐憫を仰ぎ心は情に揺れる。どうか迷う事勿《ことなか》れ、生は寄《き》なり死は帰《き》なり。
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