湊は早々に仕事を切り上げて菜月のマンションを訪れた。居ても立ってもいられなかった菜月はベランダから来客用の駐車場を覗いていたのだろう、湊の車が後部発進でサイドブレーキペダルを踏むとエントランスのインターフォンを指で押す前にガラスの扉が開いた。
(・・・・な、菜月!もう!あれだけ言っているのに!)
防犯の大切さをあれだけ言っても覚えられない菜月の頭の中はどうなっているのだろう。湊は大きな溜め息を吐いてエレベーターのボタンを押した。5階から降りてくるエレベーターの箱の中に足を踏み入れた湊は思わずハンカチで鼻と口を塞ふさいだ。充満する淫靡いんびな香りは湊のスーツにまで染み付き気分が悪くなった。
(なんだ、この匂いはクリーニングが必要だな)
それは移り香どころの騒ぎではなく瓶から直じかに香水を床に振り撒いたような毒々しさだった。
「お世話になっております、綾野住宅の綾野です。グラン御影みかげの消臭清掃をお願いします。はい、急ぎでお願いします」
湊は若くして賃貸物件管理部門の部長職を担っていた。早速、提携企業に連絡を入れエレベーター周辺のメンテナンスクリーニングを依頼した。この到底、趣味が良いとは言えない異臭いしゅうは即刻排除すべき案件だった。
(前に来た時はこんな匂いはしなかった)
それは5階でより強く感じた。辰巳石たつみいしの廊下、最上階の角部屋が菜月が暮らす503号室だ。その匂いは503号室へと向かっていた。
ピンポーン
玄関先で待ち構えていたかのように玄関ドアが勢いよく開くと菜月が湊に飛び付いた。首に回した細い腕、絹糸のような巻毛が湊の頬に、首に、肩に巻き付いた。それはまるで主人の帰りを待ち侘びていた犬のような喜びようだった。
「ちょっ、ちょっと菜月!」
「湊!いらっしゃい!久しぶり!」
「久しぶりって、3日前に会ったでしょう!?」
「そんなの久しぶりだわ!」
菜月の熱烈歓迎ぶりに悪い気はしなかった。それどころかその華奢な背中に手を伸ばしたい衝動に駆られる。
(蛇の生殺しだよ、これじゃ)
戯じゃれれ付く菜月を引き剥がすと廊下で湊は足を止めた。菜月が言うように柔軟剤ではない、香水の香り、それも男性を虜とりこにする花の香り。
(これは、白檀びゃくだんの香水だ)
菜月は強い香りのものを好まない、香水も嫌う、柔軟剤も数滴垂らす程度で「その柔軟剤に意味があるのか、ないのか」と笑い合った事もある。
「菜月、この匂いはどうしたの」
「女の人が来たって言ったでしょ?」
「うん」
「その人の匂い、すっごく臭い」
「エレベーターの中もこの匂いがしたからメンテナンスクリーニングを頼んだんだ」
「そうなの」
菜月は浮かない表情をしていた。湊はその背中に手を添えてリビングのソファに腰掛けた。
「その女の人が持ってきた物はなんだったの?」
「・・・・・これなの」
受け取った封筒からより強い白檀びゃくだんの香りがした。
「中を見ても良いかな?」
「うん」
「じゃあ失礼」
封筒に手を入れるとツルツルとした手触り、長細い、取り出してみると男物のネクタイだった。湊の眉間にシワが寄った。
「臭いね、このネクタイに見覚えはある?」
「あるよ。賢治さんの誕生日にプレゼントしたの」
「間違いない?」
「間違いない」
湊はキッチンに視線を遣ると戸棚を見た。
「菜月、ジップロックはある?」
「あるよ、どうするの?」
「ネクタイをその中に入れて」
「入れてどうするの?」
「証拠になるんだよ」
「証拠?」
「うん」
菜月が不思議な顔でジップロックを取り出すと湊はその封を勢いよく閉じた。そして立ち上がり周囲を見回した。
「菜月、賢治さんの服はどこにあるの?」
「寝室のクローゼットに、どうしたの?」
「ちょっと見ても良いかな?」
「うん?良いけど、こっち」
寝室に案内された湊からは不機嫌な空気が漂った。なぜなら目の前にはキングサイズの夫婦のベッドが鎮座ちんざましましていたからだ。菜月に特別な思いを抱いている湊にとっては生々しいシーツのシワ、掛け布団、ふたつ仲良く並んだ枕、その全てが忌々しかった。
(くそっ!)
「どうしたの?顔、怖いよ?」
「なんでもないよ!」
菜月の手前、平静を装った湊は壁一面のウォークインクローゼットに向き直った。確かにそこにいる、「私はここにいるわよ」と手招きをしている。
「開けるよ」
「うん」
湊は菜月の衣類には見向きもせず、賢治のスーツジャケットを一枚、また一枚と手に取って襟元の匂いを嗅いだ。木のハンガーが揺れその取っ手が金属音を立てて横へと擦れた。
「湊、なにしてるの?」
「ちょっと待って」
その時、一枚のスーツジャケットで湊の指先が止まった。肩の辺りでしきりに匂いを嗅いでいる。そして菜月に向き直った。
「菜月、ちょっと匂いを嗅いでみて?」
「あ、うん」
フンフンとそこに鼻先を付けた菜月の顔は歪んだ。
「あ、これだこの臭い!賢治さんから時々臭うの!」
「やっぱりそうなんだね」
香水は体臭や汗でその表情を変える。菜月が「頭が痛い」と訴えていたのは白檀びゃくだんの香水だった。スーツに染みついた白檀びゃくだん、そしてネクタイ、ネクタイをわざわざ賢治の不在を狙い妻に届ける女の狙いはひとつしかない。
「それにしても」
「なに?」
「よくこんな臭い部屋で眠れるね」
すると菜月は「こっち、こっち」と湊の手を引いて廊下を挟んだ向かいの扉を開けた。そこは南の日差しが差し込む明るいベッドルームだった。
「夜の見晴らしも良いの、お星様が見えるのよ」
「ここは?」
「私の部屋なの。私が一緒に寝ていると熟睡出来ないんだって」
「賢治さんがそう言ったの?」
「うん」
「いつ頃から、春だから、3ヶ月前くらいかな」
それは賢治のアルファードが繁華街に向かって走り去った時期と重なった。夫婦の寝室が別ならば、その女とLINEで愛の言葉を囁ささやくくなど容易な事だ。
「あの羽枕はねまくらは?」
「お客様から買ったの」
菜月のベッドには枕がいくつも並んでいた。
「お客様じゃないでしょう!訪問販売でしょ!」
「・・・・・そうとも言うわね」
「とにかく!誰でも彼でも家に入れない事!」
「玄関までよ?」
「それが駄目なの!」
この調子だ。
(その女が刃物でも持っていたらどうするんだ)
想像するだけで背筋が凍った。湊は菜月の背中を押すとリビングへと向かった。ソファの座面をポンポンと叩いて座らせると菜月は訳が分からないという顔をした。
「菜月、よく聞いて」
「なぁに」
「賢治さんは浮気、違うな不倫をしている」
「浮気と不倫の違いってなに?」
「浮気は遊び不倫はって、今はそういう問題じゃないの!」
「・・・・うん」
湊の真剣な面持ちに菜月は縮こまった。湊は菜月の手を握るとその言葉を繰り返した。それでようやく菜月は事の重大さに気が付いた。
「賢治さんが、不倫?」
「そうとしか考えられない」
「どうして?」
湊はローテーブルに置かれたジップロックのネクタイを指差した。
「ただの会社の取引先の相手がネクタイを届けに来ると思う?」
「思わない」
「その女の人を見て変だと思わなかった?」
「なんだか私の事をジロジロ見て気持ちが悪かった」
「でしょう?」
「うん」
菜月はジップロックのネクタイを手にしてそれを見つめた。
「それにこの部屋の中はその、名前は」
「如月倫子さん」
「その如月倫子の匂いが充満している。全部、賢治さんが持ち込んだ匂いだ」
「・・・・うん」
「もしかしたらエレベーターの臭いは如月倫子が意図的に香水を振り撒まいたのかもしれないね」
「なんの為に?」
「マーキングだよ」
「マーキング?」
「私はここにいますよって自己主張しているんだ」
「なんの為に?」
湊は菜月を凝視した。
「菜月への宣戦布告だよ」
「宣戦布告って、なにをどうするの!?」
「菜月を苦しませてそれを楽しむ、家まで押し掛けるような女だから危害を加えるつもりなのかもしれない」
「危害」
「如月倫子がナイフを持っていなくて良かったよ」
「・・・・・そんな、賢治さんが不倫」
そう口にした菜月は嗚咽おえつを漏らし始めた。
「・・・・私、そんなに駄目な奥さんだったのかな」
「そんな事ないよ、ちゃんと頑張っていたよ」
「夫婦って頑張るものなの?」
「菜月はお見合い結婚だから、まだまだ分からない事が沢山あったんだよ。ただそれだけだよ」
「私と賢治さん、もう駄目なのかな」
「それは菜月が決める事だよ」
菜月は湊に縋すがり付いて泣いた。
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