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帰り道の空気は、
いつもより少し冷たかった。
胸の奥の震えは、
さっきより落ち着いているはずなのに、
どこか深いところだけがまだざわついていた。
「……エリス…」
自分で口にした名前が、
胸の奥に微かに響いた。
知らない名前のはずなのに、
その響きだけが妙に馴染む。
歩きながら、
胸の奥のざわつきを確かめるように息を吸った。
その瞬間、
ほんの一瞬だけ、
胸の奥に“光の粒”のようなものが浮かんだ気がした。
姿でも、声でもない。
ただの気配。
でも、確かに“誰か”の温度だった。
「……また勝手に見せてくるのかよ」
呟いた声は、
少しだけ苦笑に近かった。
怒っているわけじゃない。
怖いわけでもない。
ただ、
胸の奥のどこかが、
自分の意思とは関係なく動くことに
戸惑っているだけ。
信号待ちの間、
胸に手を当ててみる。
鼓動は普通だ。
でも、その奥にある“もうひとつの鼓動”だけが、
まだ静かに震えていた。
エリス──
その名前を知らないはずなのに、
胸の奥の震えは、
その名を呼ぶように脈打つ。
「……俺の中に、何が残ってるんだよ」
問いかけても答えはない。
でも、
さっきより少しだけ、
胸の奥の震えが温かく感じた。
まるで、
遠い誰かが
「ここにいる」と
そっと触れてきたみたいに。
信号が青に変わる。
純はゆっくり歩き出した。
胸の奥の震えは、
まだ消えていない。
でも、
その揺れはもう“痛み”ではなかった。
午後のオフィスは、
昼休みの余韻がまだ少しだけ残っていた。
コピー機の低い駆動音。
誰かが書類をめくる音。
遠くで電話が鳴り、すぐに止む。
姫子は会議で使った資料をまとめ、
クリップを整えて立ち上がった。
席に戻るだけの、
いつも通りの動作。
──その途中だった。
ふっと、視線が触れた。
ほんの一瞬。
でも、確かに“触れた”。
姫子は無意識に顔を上げた。
純がこちらを見ていた。
その目は、
いつもの柔らかさでも、
仕事の合間にふと目が合っただけの軽さでもない。
“見ている”のではなく、
“確かめている”。
そんな目だった。
姫子は足を止めた。
資料の端が、指の中でわずかに揺れる。
胸の奥が、
ほんの少しだけざわついた。
(……昨日の夢の影と、同じ)
純はすぐに視線をそらした。
画面へ戻る。
何事もなかったように。
でも、
その一瞬の迷いだけが
姫子の胸に残った。
席へ戻るまでの数歩が、
いつもより長く感じた。
椅子に腰を下ろしたとき、
純がふいに声をかけてきた。
「森野さん、さっきの資料……ありがとう」
姫子は少し驚いて顔を上げた。
「いえ……こちらこそ、お疲れさまです」
それだけの会話。
それだけなのに、
胸の奥のざわつきが消えない。
純はすぐに画面へ戻った。
けれど、
その横顔はどこか落ち着かないように見えた。
(森川さん……何か、いつもと違う)
昨日の夢の影が、
胸の奥で静かに揺れた。
純の視線の意味を考えようとしても、
言葉にはならない。
ただ、
“何かが動き始めた”
そんな感覚だけが、
姫子の中に残り続けた。