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ウーヴェの友人であり弁護士であるシュヴァイガーの事務所で彼と面識のない男が殺された事件から一週間が経過したその日、いつものように診察を行い、顔色が少し良くなって帰る患者の背中に安堵していたウーヴェは、診察の合間にオルガが用意してくれた紅茶と手作りらしいビスケットで心身を休めていた。
「ビスケット、美味しいですか?」
窓際のデザイナーズチェアでお茶をしていたのだが、オルガが若干の不安を滲ませながら問いかけ、ウーヴェが軽く驚きに目を見張るが、次いで満足そうに目を閉じて一つ頷く。
「美味しいな。あなたの手作りかな?」
「はい。趣味で作るぐらいなんですが……」
甘いものが平気ならばこれからも作って持って来たいがと、まだ不安を感じている顔で問いかけるが、ウーヴェが今度は綺麗な形に唇の両端を持ち上げたため、無意識に胸をなで下ろす。
「これぐらいの甘さは大好きだし、もう少し甘くても平気だな」
「良かったです」
一日の診察が終わり、疲れを取るような甘いものをほどよいタイミングで出してくれるオルガに感謝の思いを口にしたウーヴェは、足を組み替えて思案するように頬杖をつくと、コーヒーテーブルを挟んだ向かいに座る彼女の顔に緊張の色が浮かぶ。
先日、ファーストネームを呼んでくれ-つまり、雇用関係だけでは無く友人としての関係にも進みたいと持ちかけられたが、あの時はまだ己の中でオルガの位置が確立していなかったのだが、休憩の時間にこうして向かい合い、少しずつプライベート、互いの家族構成、趣味は何だのについて話をするようになってきていた。
そんな彼女の提案に時間が欲しいと答えたことを思い出し、紅茶のカップを手にしたとき、先日の友人が巻き込まれた殺人事件の犯人は逮捕されたのかとオルガが切り出したため、小首を傾げたウーヴェが次いで小さな溜息を吐いたため、彼女の顔に緊張の色が走る。
二人きりで働く小さなクリニック、そこで右腕としてこれから一緒に働いて貰おうと思っている彼女に無駄な緊張感を与えていることに気付き、もう一度今度は己に向けて溜息をついたウーヴェは、彼女に向けて小さな声で謝罪をする。
「先生?」
「ああ、いや、さっきの溜息は別に質問が嫌だった訳じゃない。早く解決して欲しいと思っただけだ」
だから緊張をしなくても良いし、質問をしたことについていけなかったのかという疑問を持つ必要はないと、彼女の目を真っ直ぐに見つめて謝罪をすると、彼女の目が驚きに見開かれた後、心底安堵したのか初めて見るような柔らかな笑みが浮かび、今度はウーヴェが目を瞠ってしまいそうになる。
「良かったです。少し、不安だったので」
「前にリアと呼んで欲しいと言っていたが、俺にそう呼ばれて誰かが誤解するとかは無いのか?」
「今そんな誤解をする人はいません。だから大丈夫です」
「そうか。────リア、美味しいビスケットと紅茶をありがとう」
カップに口を付けて少しだけくぐもった声で礼を伝えると同時に望まれたようにファーストネームを呼んだウーヴェに、最初は驚きに口を閉ざしてしまっていた彼女だったが、同じようにカップを手に伏し目がちになると、ありがとうウーヴェと同じ言葉を返す。
「本当に、このビスケットが美味しいな。他にもケーキを作ったりもするのか?」
「パイの方が得意だからそちらの方が多いかしら。リクエストがあれば作るけど」
ウーヴェの感謝の言葉を照れながら受け入れた彼女がリクエストはと笑い、一も二も無くリンゴのタルトと答えたウーヴェが予想外だったのか、リアの目がまん丸になるが、リンゴのタルトと口の中で呟いた後、ご期待に添えるかどうかは分からないけれど頑張ってみようと笑みを浮かべる。
その時、診察室のドアがノックされどちらの顔にも緊張が走るが、確認をするように少し強めに再度ノックがされ、オルガが立ち上がってドアを開ける。
「こんにちは。えーと、バルツァー先生はいますか?」
「え、ええ。少しお待ち下さい」
ドアの向こうで少しだけ申し訳なさそうな顔で立っていたのは、柔らかそうなくすんだ金髪を首筋の後ろで無造作に束ね、蒼い瞳を好奇に光らせている青年だった。
彼女の姿の向こうに見える青年に見覚えのあったウーヴェは踵を返して戻ってくるオルガに頷いたあと、先ほど話をしていた事件の担当刑事だと小声で呟くと、オルガの目が軽く見開かれる。
その真意を素早く見抜いて苦笑し、お気に入りのチェアから立ち上がったウーヴェは、今日はどういった用件だろうかと問いかけつつ青年、リオンの前に向かう。
「えー、今日は報告です」
「何の報告だ?」
オルガがお茶の用意をするために部屋を出て行こうとしていることに気付いたウーヴェが咳払いをし、こちらへどうぞとリオンを彼女が先ほどまで腰掛けていたソファに案内する。
「失礼します。……前のように何だって突っぱねられなくて良かったー」
ソファに腰を下ろしつつ満面の笑みを浮かべたリオンが呟いたのは、初めてここに来ることになった事件を解決したその報告に訪れた際にウーヴェに冷たくあしらわれたことだったが、それは皮肉かと問いたくなるのをぐっと堪えたウーヴェがその節は失礼なことをしたと詫びたため、リオンの顔に一瞬驚愕の色が満ちるが、次いで先ほどの笑みとは異質な笑みが顔を彩り、興味深げに観察してしまう。
「今日は前と同じですが、事件解決の報告です」
「犯人が逮捕されたのか?」
「Ja.結論から先に言うと先生のお友達は殺人に関しては無罪です」
リオンの言葉に友人を思って安堵の笑みを浮かべかけたウーヴェだが、殺人に関してという言葉に引っかかりを覚え、詳しく聞かせてくれないかと身を乗り出すが、オルガがリオンの為のコーヒーとウーヴェのために紅茶を運んできたために礼を言って今日の診察予定はもう無いが急患が来れば対応をお願いしたいと告げると、彼女も休憩時間は終わりだと理解しているのか、一つ頷いて踵を返す。
「殺人に関してはという言い方が引っかかるな。それ以外で彼は何か罪を犯しているのか?」
「被害届が出ていないので刑事事件として扱うことは出来ませんけどね。……先生のお友達、内外に対して結構強引なやり方で仕事をしていたみたいです」
コーヒーカップを両手で包んでくるりと回転させたリオンが呟いた言葉にウーヴェが思案気に目を伏せ、脳裏に浮かんだ友人の顔に一つ溜息を零すが、確かに強引なところがある彼だが逆恨みであの被害者は殺されていたのかと呟くと、殺したのはあの事務所で働いていた事務員だと教えられて目を見張る。
「何だって?」
「事務員がいつものように遅刻をして出勤した、その時事務所を荒らしている被害者がいて何とかしなければと思って灰皿を手に取った」
「それだと傷害致死になるのでは?」
「そーですね。ただ彼は自分のボスに対する日頃の不満があり、ここで人がケガをしていればボスに迷惑が掛かると思い、被害者を殴ったら打ち所が悪くて殺してしまったと言うのが真相です」
「従業員にも恨まれていたと言う事か?」
「Ja.強引なのはクライアントに対するものだけでは無かったようですね。日常的に威圧的な言動をとったり時には暴行紛いの行為をとっていたようです」
腹に据えかねた従業員が困らせる目的で空き巣犯を殴ってしまったのだが、凶器が堅すぎたのと打ち所が悪かった為に被害者が亡くなってしまったのだと、涙を流しながら後悔と謝罪の言葉を取調室でずっと刑事達に告白していた犯人の顔を脳裏に浮かべたリオンが痛ましげに呟くと、ウーヴェが拳を握って腿に押しつける。
己の力を笠に着て弱い立場のものに威圧的に出る行為は到底ウーヴェが受け入れられるものでは無かったし、そんな立場の人達に暴行紛いの行為をしていたと言うことは、友人だからと言って理解出来るものでも無ければ共感できるものでも無かった。
大学時代の友人だが、さすがに今回の事件を通して知ったエルマー・シュヴァイガーの非常時の言動には不快感しか無く、悔しさを言葉では無くチェアの肘おきを拳で一つ叩くことで表してしまう。
「先生には気の毒ですが、そういうことです」
「……本当に残念だな」
リオンが肩を竦めて遺憾の意を示すのに頷き、本当に残念だ、あれから特に彼からも連絡が無いことからこの先の関係を考えさせて貰おうと小さく呟いた後、気分を切り替えるように頭を一つ振ったウーヴェはリオンに向けて穏やかな笑みを見せる。
「彼と一緒にいただけの私にまで事件について報告してくれたこと、感謝する。ありがとう」
本来ならば以前渡した名刺に書いてある連絡先に電話一本で済むことかも知れないのに、わざわざ時間を割いてくれてありがとうと、刑事と参考人という立場を越えた-とその時のリオンは認識した-笑みで手を差し出すウーヴェにリオンが呆然としたように端正な顔を見つめるが、我に返ったのか掌をジーンズに擦りつけて掌に付着している見えない汚れを落とすように掌同士を擦り合わせた後、差し出される手をそっと握る。
「どーいたしましてー。先生にお礼を言われるなんて何か尻の辺りがムズムズするな」
「それはどういう意味だ?」
「や、だって、先生、初めて会ったときすげー怖かったし」
まああれは己の不注意が招いたことだから仕方が無いが、こうして穏やかに接してくれるだけでは無く笑顔で礼を言われると本当に嬉しいし己の仕事に自信が持てるとくすんだ金髪に手を宛がい、さっきまで見せていた笑顔とは全く違うそれをウーヴェに見せつける。
ウーヴェ自身はあまり感情を表に出さない方ではあるが、嬉しいことがあれば素直に顔に出したりしていた。
だが、今目の前でころころと表情を変え、笑顔だけでも何通りものそれを持つリオンを目の当たりにしたとき、人は一体何種類の笑顔を持てるのだろうか、それともこれはこの青年特有のものなのかと初めてリオンという年下の男に対して興味を持つ。
それは今まで周囲にいないという理由が最大のものなのだが、ウーヴェが自覚しない心の奥底で芽生えたのは、屈託の無い笑みを浮かべるリオンを見てみたいという純粋な思いで、もしも機会があれば刑事と参考人という社会的な立場を越えた時に会ってみたいという思いだった。
そんな思いを抱く相手に出逢ったことが今まで無い為、その思いが指し示すものを正確に読み取れなかったウーヴェだが、それは何も彼だけでは無く向かい合って座っているリオンにも言えることだった。
互いに立場を越えた場所で会ってみたいという思いを胸に秘めつつリオンがコーヒーを飲み干して立ち上がろうとするが、つい皿に載ったままのビスケットに目がいってしまい、それに目聡く気付いたウーヴェが掌を向け、嫌いで無ければどうぞと勧めると呆れるやら感心するやらの笑みを浮かべたリオンが頭に手を宛がう。
「や、マジで良いんですか、先生? ありがとうございますー!」
子どもがお菓子を貰ったときと同じ顔、そう表現するのがふさわしい顔で笑われて頷かざるを得なかったウーヴェの前、リオンがビスケットを摘まんで遠慮無く口に放り込むと、見ている方が感心するような顔で頷き、美味かったと表情で伝えた後、今回の事件は先生にとって本当に不幸なことでしたが事件はもう警察の手を離れたので先生の所に事件に関して警察官が来ることは無い、協力ありがとうございましたと戯けたような敬礼を残して部屋を出て行く。
その背中を見送ったウーヴェは、部屋に入ってきてから見たリオンの表情がほぼ笑顔だけだったことに気付き、いつでも笑っていられる心の動きを知りたいと密かに思いつつ、カップを下げに来たオルガに肩を竦め、今の彼が事件の担当をしていたと告げる。
「随分と若く見えるけど、優秀なのね」
「そうなんだろうな。俺も初めて会ったときに見習い刑事かと言ってしまった事があった」
初めてリオンを見たときの感想を苦笑を交えて口にしたウーヴェにオルガがなんとも言えない顔になるが、そう言ってしまう気持ちも分からなくは無いと苦笑し、急患が来ないようなので明日の診察予定者リストを作ったので確認して欲しいと告げる。
「ありがとう。助かる」
「いいえ。明日の診察もよろしくお願いします、先生」
「ああ、こちらこそよろしく、フラウ・オルガ」
後々にまで続く、仕事終わりの挨拶の言葉をこの時初めて交わした二人だったが、 後はやっておくので今日はもう帰っても良いとウーヴェが彼女に伝え、片付けだけをすることを伝えられてそれに対しても助かるとだけ返す。
洗い物などの細々としたことを済ませた報告を受け、お疲れさまと彼女を労ったウーヴェは、このまま家に帰って借りてきた本を読んでも良いが、何となくそんな気分になれないことから、携帯で幼馴染みに連絡をする。
『おー、どうした、ウーヴェ?』
「もう少ししてから店に行っても良いか?」
ウーヴェの申し出に携帯の向こうに一瞬だけ沈黙が生まれるが、生後間もなくの頃からの付き合いがある幼馴染みが高らかに笑い声を上げたため、どうしたと問いかける。
『満席でもお前専用の席は空いてるぞ』
「そうだったな。……三十分以内にはいけると思う。今日は電車だからワインとチーズと、魚を食べたい」
『魚? 今日は新鮮なサーモンが手に入ったからな、バター焼きにしてやる。いつでも良いから気をつけてこい。ああ、結構混み合ってきたから裏口から入ってこい』
幼馴染みの気遣いに感謝しつつ分かったとだけ答えた後、オルガが用意してくれた明日の診察の準備を確かめ、それがほぼ完璧である事に満足げに頷くと、クリニックを閉めて幼馴染みがオーナーシェフを務めるガストハウスに向けてゆったりと歩き出すのだった。
ウーヴェが幼馴染みの店でチーズとワインとサーモン料理を楽しんでいた頃、リオンは愉快な仲間達と呼ぶ同僚達の中でも最も気が合うジルベルトと一緒に最近行きつけになっているクナイペー居酒屋ーで飲んでいた。
ジルベルトとリオンの二人が揃えばまるで幼稚園か基礎学校かと言いたくなるほど騒がしくなり、二人の上司であるヒンケルが常に赤い顔で怒鳴り散らさなければならないほどだった。
それ故に周囲も二人を一纏めにすることが多かったが、本人達にとってその扱いは不満を生み出すものだったようで、コニーがお前達は二人一組だと笑うと、人生で最低で最悪な言葉を聞かされたと言いたげに顔を顰めるだけではなく、そんなことを言われるのはお前のせいだ、いや、お前が悪い人のせいにするなと言葉のキャッチボールを始めてしまうほどだった。
ただ、そのキャッチボールも二人は心の中では密かに楽しんでいる節があり今日も今日とてそれを何度も繰り返したのだが、仕事が終わり今日は早く帰れることに気付いたジルベルトが、彼女と別れたばかりのリオンを慰めてやろうと肩を叩き、慰められたくは無いが一人でいるなど考えたくも無いと笑ったリオンが行きつけになったクナイペへとジルベルトを誘い、乾杯の声にジョッキを軽く触れあわせる。
「フラれて傷心のリオンちゃんを慰めてやるか」
「うるせぇ。俺がフッたんであってフラれてなんかねぇ」
仕事の後の一杯は美味いと笑いながらビールを飲みジョッキをカウンターに置いたあと、リオンが先日の事件直前まで一緒にいた彼女にフラれただのいや自分が振っただのと言い合いをするが、どちらにしろ今現在彼女がいない事実に行き当たり何故か二人同時に溜息を吐く。
「まあ、フッたフラれたはともかく、次の彼女を早く見つけないとな」
「そーだな。しばらくは必要ねぇかなとか思うんだけどな……」
「一人でいれるのか?」
「……うるせぇな」
リオンの言葉がらしくないことと無理なことだと分かっていたジルベルトが絶対に無理との思いを込めて問いかけると、図星を指されたリオンがようやく返せた一言がうるさいの一言だった。
そのことからも己の言葉が痛いところを突いたことを察すると、お前の性格や仕事を理解して受け入れてくれる女がいれば良いのになぁとジルベルトが笑ってビールを飲むが、刑事という仕事に理解を示し受け入れて送り出してくれる女はほとんどいない為、うるさく電話をしてくるがそれでも夫の仕事に理解を示しているコニーの妻は、外見はともかく本当はいい女かも知れないと呟けば、リオンの蒼い目がジルベルトを横目で睨むが、確かにそうかも知れないと苦笑する。
「……お前のことだ、女しか眼中にねぇだろ?」
「は? 男はどうだってことか?」
「ああ。今の時代、幸いなことにゲイであろうとうるさく言われることはねぇからな」
ジルベルトの言葉に考えもしなかったと呟いて目を見張ったリオンは、男相手に彼女にしてきたことを出来るかと脳内で想像し、全くもって想像できないことに苦笑してしまう。
「想像できねぇな」
「まあ、普通そうだろうな」
今まで女しか相手にしてこなかったのだからと笑うジルベルトに一瞬引っかかりを覚えたリオンだったが、今横で飲んでいるこの男も己と一緒で不特定多数の女と付き合っていたはずで、その中に男もしくは昔は男だった人物はいないはずだと思い返す。
「ヘラみてぇにあまり太ってるとちょっと辛いけど、ふくよかな女も良いよなぁ」
「そうだな。あまり細すぎると抱いたときに骨が当たって気持ち悪いからな」
ビールのお代わりを頼みプレッツェルを引きちぎったリオンは、隣から伸びてきた手がそのちぎったものを奪い取っていくのを呆然と見守り、自分でちぎれと文句を言いつつ新たにちぎって口に運ぶ。
「でも、男相手も良いのか、な……」
同僚の言葉が意外なほどリオンの中に根付いたようで、天井を見上げてぼんやりと再度想像したとき、不意に一人の男の顔が浮かび上がる。
その顔は先日から夢に出てきたり何かの折にふと思い出すものだったが、今日見た笑顔は想像していたものよりも穏やかで、意味も無くずっと見続けていたいと思えるようなものだった。
そこまで思案したとき、己のことながらどうしてそんな風に思うのかとの疑問が芽生え、自嘲気味に呟いてしまう。
「……なんなんだ、一体」
「どうした?」
「いや、何でもねぇ」
どうして彼の顔が思い浮かんだのか理解出来ないと苦笑し、新たなジョッキに注がれたビールに口を付けたリオンにジルベルトが何事かを問いかけようと口を開くが、その前にリオンが重い溜息を吐いてじろりと自他共に認める男前の横顔を睨み付ける。
「お前が余計なことを言うから考えこんじまうだろうが」
「知るか」
「あーもー。俺が男にまで手を出せばどーなるんだよ」
ただで無くとも節操なしだの何だのと言われているのにと恨みがましい目で同僚を睨み付けたリオンは、確かに節操なしだと笑われて不満を訴える代わりにジルベルトの前にあったフライドポテトにフォークを突き立てる。
「人のを食うな」
「さっき人のプレッツェルを食ったのは誰だよ」
互いの行動への不満を口にしつつも実はそれを許しているため、それ以上は何も言わずにビールを飲んでいたが、さっき誰かを想像していたのかとジルベルトが小さな声で問いかけると、今日会いに行ってきた精神科医の先生だとリオンも同じ声で返せばジルベルトが無言で先を促す。
「何か気になるんだよな」
「そうなのか?」
「ああ。先生の見た目が女みたいだとかタイプだとかでもねぇんだけどな」
何故か気になって仕方が無いと呟きつつ頬杖をついたリオンは、男に対してこんなことを思うのは初めてだと自嘲気味に零し、ジルベルトが己が発した言葉がリオンの心の奥深くに入り込んだことに気付いて小さな吐息を零すと、気分を切り替えるように店内の奥から投げかけられている熱い視線に気付いてリオンの腕をつつく。
「何だ?」
「……あそこにお前好みの女がいるぞ」
潜められる声につられて視線だけを向けたリオンは脳裏に浮かんでいた笑みを一瞬でかき消すと、自分好みと称された女性の顔を視界に収めるが、乗り気がしないことを示すように一つ肩を竦めてビールを飲む。
「どうだ?」
「……今日はそんな気になれねぇ」
あの二人の内一人の相手をするのならお前と一緒に飲んでいる方が楽しいと素直に本心を吐露すると、ジルベルトの目に一瞬だけ不可解な色が浮かぶが、確かにお前と一緒の方が楽しいと同じ言葉を返して同じくビールを飲む。
「家に帰ってもベッドで一人寂しく寝なきゃならないリオンちゃんのためだ、付き合ってやるか」
「黙ってりゃ言いたい放題言いやがって、エロじじい」
「誰がジジイだ、くそガキ」
「うるせぇ」
職場であれば程なくして同僚達の制止の声が入るが幸か不幸かここは職場を離れたクナイペの為に一瞬ヒートアップしかけるが、どちらもそれに気付いたのか和解の合図にジョッキグラスの底縁をカツンと触れあわせる。
「……今日は飲み明かすか」
「おー、そうしよう」
二杯目を飲んだ二人は同時に店員にお代わりとジョッキを突きだし、宣言通り閉店するまで賑やかに飲み明かすが、ジルベルトが投げかけた一言がリオンの中に意外な鋭さで突き刺さり、その後の人生を想像すらしていなかった方向へと導くことになるのだがどちらもそれに気付くはずも無く、いい女はいないか、コニーのように極上の女を掴まえたいと笑い合い、店を出るときには酔っ払い特有の覚束無い足取りになっているのだった。
その後覚束無い足取りで互いの家に帰り着いた二人だったが、リオンが自宅のある古いアパートに辿り着き、乱暴な手つきでドアを開けて戸締まりだけはしっかりと確認をした後、一人暮らしを始めた時に買い求めたパイプベッドに飛び乗って盛大な悲鳴を上げさせる。
だが先程までクナイペで飲んでいた時に見せた酔っ払い特有の顔は嘘のように消え去っていて、脳裏からどうあっても消えない一人の男の笑顔に酒臭い息で問いかける。
「……なあ、なんで夢に出てくるんだよ?なんなんだ、あんた」
人の夢に出てくる権利があるのかと自嘲するリオンだったが、悪態を吐こうが疑問を投げかけようが消えることの無い笑顔に諦めの溜息を一つ零すと、下着姿になってコンフォーターを無造作に身体にかける。
夢に出てくるのなら出てきてくれても構わないが、どうせなら今日見せてくれたあの笑顔をもう一度見せてくれと呟くと、酒の力を借りて夢も見ない眠りに落ちていくが、リオンの脳裏や心の深い場所にその日決して忘れる事の出来ない笑顔が焼き付けられたのだった。