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ミッション2決行の金曜日。榊原くんと絵里はマンション前に車を路駐して、私からの連絡を待っている。なにかあったときのために、部長がピンポンを押してから、スマホを通話状態にする打ち合わせをした。
奥様は実家で待機中。ここですべての準備を整えたら、待ち合わせ場所に向かうように、連絡することになっている。
さっき部長から『仕事が終わった。これから向かう』とLINEが着た。ミッション2開始まで、あと20分といったところだろう。
抜かりないかもう一度チェックすべく、キッチンに移動し、絵里から渡された不眠症の患者が飲む眠り薬を、ティポットの影にしっかり隠した。紅茶を淹れるタイミングで、薬を投入する。
「好きだった人に、躊躇なくこんなことができるなんてなぁ。一気に好きな気持ちが冷めたもんね……」
榊原くんが奥様に頼まれた写真を、すべてプリントアウトした。奥様に手渡す前に、先にそれを見せてもらったのだが――。
写真を持っている指先に、自然と力がこもる。突きつけられた現実に、部長のことをさらに嫌いになった。むしろ嫌いという感情が色濃くなったと、表現すべきかもしれない。
第三者目線で部長を見たら、下半身のだらしなさが、あからさまに表情に出ているのが、写真でわかった。
ここで逢瀬しているときは、好きというフィルターにかけられていたせいか、そんなの微塵にも感じなかったのに、視点を変えるだけで、こんなにも違うとは思いもしなかった。
「部長と結婚しようなんて考えていたのが、嘘みたいになくなっちゃった……。もっと相手のことを見る目を養わなくちゃね」
失恋とも違う胸の痛みを噛みしめていた瞬間、リビングにインターフォンの音が響き渡る。予定よりも早い来訪に急いで玄関に移動し、絵里のスマホにコールした。
「もしもし、ターゲットがやって来た」
声を押し殺して、先に会話をはじめる。
『了解っ! 危ないと思ったら預かってるカギを使って、榊原くんと踏み込むから安心してね』
絵里の優しいセリフに勇気をもらい、カーディガンのポケットにスマホを忍ばせながら、扉を開け放つ。気づいたら部長の胸の中に、抱きしめられていた。
「華代、ずっと逢いたかった。連絡もとれなくなって、本当に心配していたんだぞ」
部長を引っ叩きたくなる気持ちをなんとか押し殺し、恐るおそる顔をあげて笑いかけた。
「ごめんなさい。見苦しい姿を部長に見せたくなかったの」
私がいつもどおりに接しているからか、不審に思わなかったらしく、大きな手が私の髪に触れて、愛おしげにゆっくり撫でた。
「見苦しいなんて、そんなの気にすることないのに。だけど看護師の岡本さんが駆けつけてくれて、すごく安心したね」
(あ~もう無理! 部長の存在を体全部で感じるだけで、悪寒が走りまくる)
頭を撫でる気持ち悪い手を振り解くべく、首を何度も横に振り、ぶん殴りたくなる気持ちを込めて部長の胸を強く押して、急いでそこから逃げ出した。
「……どうした?」
部長は私を撫でていた手をそのままに、何度も目を瞬かせる。彼のすることにいつも身を任せていた私が、こうして拒否したのが信じられないのだろう。ここは奥様のためにも、無理して頑張らなければならない。
「部長に早く、中に入ってほしかっただけ。だって、ふたりきりになりたかったし」
鼻にかけた声を出しながら、笑いかけてやった。
「そうか、そうだよな。ふたりきりになるのは、久しぶりだから」
「ん……。今夜はずっと一緒にいられるんだよね?」
「ああ。妻の体調が悪くて、実家に帰ってる。土日とも一緒にいられるよ」
中に誘うようにゆっくり後退りすると、部長は扉を閉めて玄関に入り込み、キッチリ鍵をかける。彼としては防犯のことや、誰にも邪魔されないように鍵をかけたんだろうけど、今の私にとっては、それすら不快な行動につながった。
彼が我が家に足を踏み入れたことに成功したので、さっさと背中を向けて、キッチンに向かいながら問いかけた。
「でも日曜くらい、奥さんのところに顔を出したほうがいいんじゃない?」
(普通の夫なら、金曜日の仕事が終わった時点で、具合の悪い奥さんの実家に駆けつけるはず。こうして不倫相手の家に向かったり、連泊することを告げるなんて、本当に信じらない)
そして今まで、こういった気遣いをすることができずに、部長と不倫していたことについて、ひとつも疑問に思わなかった自分が最低だった。
そう思った瞬間、後ろから部長に抱きつかれた。ぞわっと粟立つ肌を感じたせいで、勢いよく腕を振り解いてしまったら、不審に思われる。そんな嫌悪感をひしひしと感じながら、両手に拳を作って必死に耐え抜くしかない。
「華代がそんな心配をしなくてもいい。大丈夫、かなり具合が悪いから、逢いに来ないでくれって言われてるんだ」
「そうなんだ、へぇ」
平静を装ったつもりだったのに、口調がものすごく冷たいものになってしまった。
「これ、華代が好きなお菓子屋さんのケーキ。大好きなミルフィーユを買ったよ」
部長は背後から、ケーキの入った箱を差し出した。私の様子を窺うように顔を覗き込む彼を横目にしつつ、愛想笑いでそれを受け取ると、体を抱きしめていた両腕の力が緩む。その隙に、部長の腕からするりと抜け出した。
「部長がいつもより遅かったのは、コレを買ったせいだったんだ。紅茶淹れるね」
いつものように接することを心がけたら、不信感が拭われたのか、部長は背広を脱いでソファの背にそれをかけて、慣れた様子で腰かける。ケーキの箱を持ったまま、その場で彼の行動をくまなくチェックし終え、安心してキッチンに移動したら、弾んだ声で話しかけられた。
「ちょっとだけ残業もしたんだ。華代がいないせいで、俺の仕事が回らなくなってるんだぞ」
「私がいなくたって、部長の仕事をフォローしてくれる社員は、ほかにもいるのに」
部長が私に視線を注いでいるのが伝わってくるせいで、緊張して手元が疎かになりそうだった。ティポットに入れる茶葉を、震える手のせいでこぼしそうになりながら、なんとか投入し、隠していた睡眠薬を手早く入れて、沸かしていたお湯をどばどば注ぎ入れる。
「華代ほど、俺をわかってくれるヤツなんていない。わかってないな」
私の気を惹くために告げられた言葉をケッと思いつつ、肩を竦めてみせた。
「俺、華代を怒らせること、なにかしたっけ?」
「なにもしてないけど、なんで?」
「なんか、こう……。冷たい感じが伝わってきてる」
隠しきれない負の感情を制御しきれないことを、部長が告げたセリフで知り、いったん落ち着くべく、大きなため息を吐く。そして、キッチンタイマーのボタンをいつもより強く押して、負の感情をそこに擦り付けた。
(――これでいつもどおりに、接することができるはず!)
そんなおまじないをした私は、部長が好きだといった笑顔をわざわざ作って、ソファに移動した。
「わかってないのは部長でしょ、もう!」
「え、な……なにが?」
嫌いの感情をこめて、ダイレクトに体当たりしてやる。すると私からの接触に喜んだ部長の口元が緩んだのを見、迷うことなくそのだらしない感情に乗っかってやろうと、腰かけながら腕にぎゅっと絡みついてやった。
「寂しかったんだよ、これでも。自分の体調悪化のせいで、ずっと部長に逢えなかったことがね」
思ってもいないことが、流れるように口から出てくる。
「うん」
それを聞いて喜びの表情をあらわにする部長のことを、もっともっと嫌いになった。だからこそ、彼のテンションがあがるセリフを吐いてやる。
「久しぶりのふたりきりの逢瀬に、照れない恋人はいないんじゃないかな」
「なんだ、照れ隠しってことか?」
部長の空いた手が、私の頬に触れた。そして顔を近づけてキスをしようとした瞬間、絶妙なタイミングでキッチンタイマーがリビングに鳴り響く。そのタイミングの良さに笑い出したくなるのを堪えつつ、部長の唇をぎゅっと強くつまみ、キスの寸止めをはかった。
「部長のせっかち。こういうのは、もっとあとにしなきゃ。せっかく紅茶を淹れたのに、アレがはじまっちゃったら台無しになるでしょ」
「でも少しくらい――」
部長のセリフを断ち切るべく、摘まんだ唇を汚いものを突きはなす感じで手放し、勢いよく立ち上がって背中を向ける。
「いつもすぐにがっつくでしょ。とめられるの?」
「だって……」
「今ここではじまっても病みあがりの私は、ソファなんていうところで、部長を受け止められないんだからね。それくらいの配慮もできないの?」
「するに決まってるだろ。大事な華代の体のことを、ちゃんと考えてるって」
立ち上がった部長が私の右手を掴んで、力任せに下に引っ張り、ソファに座るように促した。これに抵抗したら、無理やり行為に及ばれるかもしれないと考え、仕方なくそれに従って、近づいてくる唇を受け止める。
「んっ……」
触れるだけのキスが、口内に部長の舌を差し込まれて、卑猥なものに変わっていった。しかもそれだけじゃなく、両手で体に触れてくる。
「んぅっ、やっ……ほらもう!」
バシッ!
ふざけんなと思いながら、頭を振ってキスから逃れ、胸を触る部長のいやらしい手を思いっきり叩いてやった。
「大好きな華代に触れたかっただけなんだ」
(ただヤりたいだけのクセに! そんなことを言っても、私の心にはまったく響かないのにね!)
「違うでしょ。ずっとシてないから、ヤりたいだけなんじゃないの?」
逃げるようにソファから腰をあげて立ち上がり、部長に触れられないようにすべく、急いで距離をとる。
「そんなことないって。ホントだよ」
「まったく、困った部長! あーあ、紅茶が濃く出ちゃっただろうな。それでも飲んでもらうからね!」
そんな文句を言ったが、紅茶が濃く出てラッキーだと思った。少しだけ苦みのある薬だから、それを隠すために紅茶を濃く出してほしいと、事前に絵里よりアドバイスされていたのもあり、茶葉を通常よりも多く入れた。
それにプラスして、今回のことで時間がかかったため、紅茶はかなり濃くなっているだろう。
部長が持参したミルフィーユと、色濃く出た紅茶が入ってるポット、ふたり分のティーカップをトレイに載せて、ふたたびリビングに戻った。
「部長のせいで、紅茶が濃く出ちゃったんだからね。見てよ、これ!」
ローテーブルにケーキを置き、その隣にティーカップを並べ、色濃く出た紅茶をなみなみに注いでやる。
「悪かったって。罰として、俺が全部飲み干すよ」
(――部長いいことを言ってくれて、どうもありがとう!)
「部長のそういうところ、大好き♡」
言いながら紅茶の入ったポットの中身を、部長に見せる。ふたり分の紅茶が事前にティーカップに注がれているのに、ポットの中身はかなり残った状態だった。
「部長が美味しく飲めるように、足し湯してあげるね」
「お気遣い、ありがたくちょうだいする」
部長はティーカップを手にして、紅茶を飲み干した。お薬入りの紅茶をお代わりしてもらうべく、足し湯してから、空になったティーカップに、紅茶をドバドバ注ぎ入れる。
「私、すっごく嬉しい。こうして部長と一緒にいられるのが」
みずから進んで、睡眠薬入りの紅茶を飲んでくれたという事実に歓喜し、無駄にテンションがあがってしまった。
「華代の体調がよくなって、本当に良かったな」
「ミルフィーユ食べさせてあげるね。はい、あ~ん」
私が紅茶に手をつけないことに不信感を抱かれないように、フォークで切り分けたミルフィーユを部長の口元に運んで、お世話をしてあげる。すると彼は嬉しそうに頬張り、ふたたび紅茶を飲んだ。
「私もミルフィーユ食べようっと♪」
いつものように振る舞うべく、ケーキに手をつけた私に、部長は腰に腕を回して抱き寄せた。体に絡んだ腕の先は、胸の下あたりをいやらしく撫でさする。下半身に触れられないだけ、まだマシと言えよう。
「俺は早く華代を食べたいんだけど?」
「食べたければ、紅茶を全部飲んでからだよ」
部長の顔の前にフォークを突きつけて、お薬入りの紅茶をもっと飲むように促した。
「わかってる。だけど足し湯していても、結構苦みを感じるんだな」
部長は顔を歪ませて、私が注いだ紅茶を半分だけ飲み、ボソッと文句言った。
「当たり前でしょ。ここで私の動きをとめた、誰かさんのせいなんですからね」
部長の隣でミルフィーユに舌鼓を打ち、平然と食べてやる。腰を抱き寄せられた時点で、彼の肩に頭を乗せて、私もイチャイチャする流れが通常なのに、それをせずにケーキを食べ続ける私を見、流されないことを悟った彼は、仕方なく目の前に置かれたものに、やっと手をつけた。
ミルフィーユを先に完食し、部長のティーカップが空になるタイミングで、ポットの中身を注ぎ入れる。
「部長、どうしたの? 手が止まってるよ?」
「なんか一瞬、くらっとした気がしたんだ。おかしいな……」
「めまいみたいな感じ?」
心配そうに顔を覗き込むと、部長は作り笑いを浮かべた。
「大丈夫。華代がいない間、いっぱい仕事をこなしたせいかもしれないな」
「部長が仕事をこなすって、それは違うでしょ。めんどくさそうな案件を、部下に押しつけるだけだもんね」
「華代?」
睡眠薬の効き具合がわかる、部長の目の焦点が揺らめいているのを確認したので、今まで溜め込んだ言葉を吐き捨ててやる。
「そしてうまいことやりきったものを、自分の手柄にしてるっていう。ズルい仕事のやり方して、今の地位を得たんでしょ?」
部長は両手で目を擦り、何度も頭を振った。それでも表れた症状の改善には至らず、目頭を押さえて私を見据える。
「華代おまえ、俺に薬を使ったの、か?」
「使われるようなことをしたのは、部長じゃない」
「俺がな、にをした……っていうんだ?」
言い終える直前で部長は白目を剥き、そのままソファの上に仰向けで倒れ込んだ。すかさずカーディガンのポケットに忍ばせていたスマホを手に取り、待っている親友に話しかける。
「ミッション完了だよ、絵里」
『了解! 荷物を運び出す準備に取りかかるね』
絵里は端的に返答し、すぐさま通話を切った。
「部長、美味しいミルフィーユありがとね。お礼に、私からのプレゼント受け取ってよ」
自分の気持ちを再確認にすべく、ソファの上に倒れてる部長に跨り、触れるだけのキスをしてすぐに離れた。
「やっぱり前のように、ドキドキしないや……」
自分の中にある嫌悪感を確かめ終えたことで、この恋の終止符を打った。そして絵里たちを向かい入れるべく、鍵を開けに玄関に向かう。
スマホを切ってすぐに、大きなキャリーケースを持ったふたりが、私の家に現れた。
「すごいなぁ。ホントにこんな、大きなキャリーケースがあるんだ」
玄関先で絵里たちを見た瞬間、目に留まったキャリーケースの感想を述べてしまった。
「大学の知り合いが、忘年会のマジックで使ったのを思い出したんです。しかもこれ、くれたんですよ。場所をとるからいらないって」
榊原くんはキャリーケースを持ち上げ、リビングに移動する。そのあとに続いて中に入ると、渋い顔した親友が振り返り、大きなため息を吐いた。
「ハナが津久野さんに襲われるんじゃないかと思って、すっごくヒヤヒヤしたよ」
「でも大丈夫だったでしょ。嫌いっていう感情が出ないようにするのに、かなり苦労した」
「斎藤さんがターゲットに、薬入りの紅茶を無理強いせずにうまいこと飲ませたのには、すごいって思いました」
榊原くんがしゃべりながら大きなキャリーケースを開けてる間に、絵里は患者さんに接する看護師みたいに、手際よく動いた。きちんと部長のバイタルを計ってから、両腕と両足に結束バンドを取り付け、目隠しとしてアイマスクをつける。
「ハナは、テーブルの上を片付けちゃっていいよ。証拠隠滅!」
「はーい、証拠隠滅いたします!」
絵里からの指示に快活な返事をして、自分の仕事にとりかかった。さっきまで大嫌いな部長と一緒にいた反動もあり、絵里たちといるだけで心がほっとする。
「それが終わったら、奥様に連絡よろ! これから出発するからって。航希くん、予定時間は大丈夫?」
(おっ? 絵里ってば榊原くんのことを、下の名前で呼んでる。これはもしかすると……)
絵里が拘束した部長を、榊原くんがソファから難なく持ち上げた。そんな力仕事をしている最中とは思えない、眩しい笑顔で答える。
「斎藤さんがターゲットにたくさん紅茶を飲ませたおかげで、早く寝入ったでしょ? 10分弱時間が余ってる」
「よかった。慌てて作業すると、どこかでミスをする恐れがあるから。梱包手伝うよ」
絵里たちは部長をキャリーケースに入れる仕事を、私はテーブルから茶器セットを片づけ、洗い物をはじめる。こうして、二手に分かれて作業をこなした。
「ハナは昨日、奥様と同伴で会社に行ったんでしょ? どうだった?」
作業を進めながら絵里は訊ねた。
「事前にアポをとってたから、社長と人事が話を聞いてくれたよ」
「私も同伴したかったのに、今日の休みをもぎとる関係で、休めなかったもんなぁ。うまく話をすることはできた?」
「もちろん! 絵里が自腹を切って探偵事務所に調査してくれた資料が、すっごく役に立ったんだから」
昨日のことを思い出しつつ、タオルで濡れた手を拭って、絵里たちの傍に駆け寄りながら話しかける。