「榊原くん、あとどれくらいで移動できそう?」
「5分もかかりません。絵里さん、お手伝いありがとうございました。蓋を閉めます」
ふたりが協力して、津久野さんをキャリーケースの中に梱包し、そこから絵里が離れると、榊原くんがゆっくり蓋を閉めて鍵をかけた。
「斎藤さん、手を拭ったそのタオル貸してください。車に移動したら、キャリーケースの蓋に隙間を作るために、タオルをかませたくて」
(――ああ、なるほど。津久野さんが窒息しないような配慮をしてくれるんだ)
「いいよ。奥様には5分以内に、ここを出発することを伝えておくね」
使用すると言ったタオルを首にタオルをかけてから、榊原くんが告げた出発時間を奥様宛てのLINEに打ち込んで送信する。
「よし、出発しましょう。斎藤さん、準備はできてますか?」
「証拠隠滅したし、いつでも行けるよ。部長の上着とカバンを忘れずに持ってっと。あとね奥様からの返信、指定された場所で待ってますだって」
「わかった。忘れ物はなし、出発しよう!」
きちんと背後を確認した絵里と、大きなキャリーケースを引っ張る榊原くん、部長の私物を持った私の三人で、無事にマンションをあとにした。
車を走らせて数分後、環状線の舗道で待っていた奥様とうまく合流し、目的地になってるおじいちゃんが管理している山に向かった。
「岡本さん、昨日のこと斎藤さんから聞きましたか?」
車が高速に乗ってからしばらくして、助手席の奥様が振り向きざまに、絵里に向かって喋りかけた。話しやすいように絵里は後部座席から身を乗り出して、自宅で聞いたことを口にする。
「社長と人事の職員さんに逢って話ができたことと、調査した資料が役に立ったことを教えてもらいました」
「サレ妻と不倫相手が一緒にいることに、かなり驚かれてしまったの」
奥様は昨日のことを思い出したのか、瞳を細めてクスクス笑った。
「そりゃそうですよ、普通はありえないです」
絵里は楽しそうに言いながら、肩を竦めて苦笑いを浮かべる。
「支店でのことも含めて、これまであの人がやらかしたことを、斎藤さんが全部ぶちまけたことで、来週の月曜は大変な事件になるのが決定なのよ。だけど……」
ほほ笑みを湛えていた奥様の唇が、突然真一文字に引き結ばれた。
「なにかあったんですか?」
「斎藤さんが辞表を提出したの……」
「ちょっと、そんな大事なことを、どうして言わなかったの⁉」
絵里はシートに腰かけ直し、私の顔をじっと見つめた。明らかに苛立っている絵里の態度に流されないように、私はいつもと変わらず飄々とした態度を貫く。
「辞表を提出するのは、人として当たり前でしょ。部長とデキた時点で、こうなる運命だったんだって」
「ハナ――」
絵里から注がれる悲しげな眼差しを断ち切るべく、顔を俯かせた。
「どこかでわかってた。誰かが大切にしているものを奪って満足しても、私はしあわせにはなれないんだってこと」
車内にお通夜のような、しんみりした雰囲気が流れた。それを変えるような、榊原くんの明るい声が響く。
「斎藤さん、次の転職先って、同じような系統の会社を志望してます?」
「ううん、全然なにも考えてない。まずはこのミッションを成功させて、落ち着いてからかなぁって」
転職先のことを聞かれるとは思ってもいなかったので、誤魔化す感じで答えてしまった。
「実は俺が勤めてる探偵事務所が、万年人手不足なんです。所長の人使いの荒さが理由で、みんなが辞めていくんです」
(榊原くんの職場の事情を、懇切丁寧に説明しているということは――)
「まさかそこに勤めないかって、私をスカウトしてるってこと?」
「副所長の田所さんは、元サレ妻なんですよ。ここに不倫経験者の斎藤さんが加わったら、事務所的には無敵になれそうな気がしませんか?」
「アハハ! 雑なスカウトの仕方だね、榊原くんおもしろい」
「俺、真面目に誘ってるんですけど?」
「絵里はどう思う?」
漫然と私たちの話を聞く絵里に、無理やり話を振ってやった。
「へっ?」
自分が話に入ると、思っていなかったのだろう。驚きで目を瞬かせる絵里に、人差し指をたてて流暢に語りかける。
「所長さんが仕事のできる人だってことは、あの書類を見たら明らかだけどさ。事務所の様子を直接見た、絵里の感想をぜひとも聞きたいなぁと思って」
「事務所の様子って、私は二回しか顔を出してないから、よくわからない。雰囲気が悪いというのは感じなかったけど……」
運転席側に視線をチラチラ飛ばしながら答える絵里を見るように、ルームミラーに映った榊原くんの瞳が細められたのが目に留まったので、彼に直接問いかけた。
「事務職しか経験のない私が、いきなり探偵事務所に勤めても、やっていけるものなのかな? 依頼された探偵っていう慣れない仕事を、自分からこなさなきゃいけないときだってあるでしょ?」
「事務職経験者だからこそ、お誘いしてるんです。副所長の田所さんは所長のお守りを兼ねているせいで、思うように事務仕事が捗らないことを、よく耳にしてるんです」
「なるほど、だったら考えてみようかな」
探偵事務所的に、事務仕事をこなす人手が足りない明確な理由がわかり、やってみたくなったのは確かだった。顎に手を当てて、どうしようかなぁと考えていると、助手席にいる奥様が口を開く
「榊原さんは、探偵の仕事は長いんですか?」
「今年で6年目です。まだまだ不測の事態に対処できないぺーぺーですよ」
「航希くんってばしっかりしてるのに、そんなことないんじゃない?」
絵里からの質問に、榊原くんの瞳が嬉しそうな感じで三日月になるのが、ルームミラーで見てとれた。
「いえいえ、そんな。この間だって田所さんと一緒に調査してる最中に、警察の職質に捕まってしまったんです。ママ活の援助交際と勘違いされたせいでしつこく尋問された結果、ターゲットには逃げられちゃって。結局所長にわざわざ現地に来てもらったおかげで、解放された次第です」
私や奥様とかわしている会話の違いがわかり、思わず声をたてて笑ってしまった。
「榊原くんってば、絵里と会話してるときだけ、めっちゃ口数が増えてる。どうしてかなぁ?」
「そんなことはない、と思いマス……」
たどたどしく口にした榊原くんに、奥様が追撃をぶちかますように話しかける。
「もしかして、私たちお邪魔だったかしら。私と斎藤さんは、別の車に乗ったほうがよかったかもしれないわね」
奥様からのナイスなツッコミに、ノらずにはいられない!
「ほんとそれ!」
「奥さんと斎藤さん、俺で遊ぶのやめてくださいって。絵里さんが一番困ってるんですよ」
「え? 私、困ってないけど」
きょとんとする絵里と、ハンドルを握りしめながら、慌てふためく榊原くんのリアクションが、私の笑いをさらに誘う。
「絵里は困ってないって。どうして榊原くんだけ、困ってるんだろうねぇ?」
すると助手席で榊原くんの様子を間近に見ていた奥様が、こっちに振り返った。
「斎藤さん、もうこれくらいにしてあげましょう。榊原くんはこれから、もっと大変な仕事が待っているんですもの」
「確かに、これくらいにしてあげるか。今後の榊原くんのフォローは、絵里に任せるからね」
「フォローっていったい……」
「あの、岡本さんに聞きたいことがあるの。いいかしら?」
「なんでしょうか」
基本、こういうときの空気が読めなくて、不思議そうに首を傾げる絵里に、奥様は静かに話しかけた。
「今回の調査、仲のいい親友のためとはいえ、たくさんのお金をかけてまで実行した、本当の理由を知りたいと思ったの」
(確かに他人から見たら、親友のために大金を使ってまで、探偵事務所に調査してもらうなんて、不思議に思うネタになるか)
なんとなく理由がわかってる私は口を引き結び、隣にいる絵里をほほ笑みながら眺める。そんな私を見、同じように笑った絵里は、振り返っている奥様に答えた。
「ハナは私にとって、とても大切な親友だからです。間違った道に足を踏み入れて、みずから不幸になるのを、黙ったまま見過ごすことはできません」
「私たちが高校に入学したときは、こんなに仲良くなるとは思ってなかったよね」
絵里が親友と言いきる理由を説明してあげなきゃと、話に加わった。
「同じクラスになっても、カースト制度のせいで話すことはなかったしね」
「カースト制度?」
奥様は不思議そうな顔で呟いた。私は絵里が口を開く前に先に話す。
「私たちが通った高校には、そういう制度があったんです。クラスにいる人気者や親の仕事の関連でステータスの高い人たちとは、おいそれと仲良くなれないんですよ」
「それは大変そうね」
訝しげに眉を寄せた奥様は『大変』って答えたけど、私はそんなふうに思わなかった。
「目立ちたがり屋の私は、そういった人たちとお近付きになりたくて、ゴマをすったりパシリをたくさんこなして、カースト上位者と仲良くなり、自分の地位を確立しました」
胸を張って答えた私とは対象的に、絵里はどこか困った様相で答える。
「私は部活に全力を注ぐ学生だったので、そういうものに全然興味はありませんでした。ですのでカースト制度でいえば、下位に位置してました」
「それだと学校では、仲良くなれない間柄というわけね」
納得したように何度か頷きながら、私たちの話に聞き入る奥様に、仲良くなったキッカケを説明する。
「ひょんなことから、同じ男性アイドルグループを好きなのがわかって、私は狂喜乱舞しました。学校ではアイドル好き=オタクと判断されるせいで、こっそり愛でていたんです」
「ハナのは、こっそりと言うのかな。限定品をちゃっかり文房具に忍ばせていたクセに」
「絵里に限定品を見抜かれたからこそ、仲良くなれたんじゃない!」
「ハナがアイドル好きを隠してることと、カースト下位の私とは話せないので、学校ではまったく交流はありませんでした。でも――」
あえて言葉を濁した絵里の続きを、私が元気ハツラツに話す。
「お互いの家を行き来するようになってから、私はすごく充実した日々を送れるようになりました。ひとりで盛り上がるより、絵里と一緒にアイドルのことで騒ぐことができて、本当に楽しかった」
「ハナは無理して、カースト上位者と付き合っていたからだと私は思っていたけど、それをやめろとは言えなかったもんなぁ」
「ムダな努力を、教室で垣間見ていたからでしょ?」
「まぁね……」
絵里は苦笑いでやりすごし、せつなげに瞳を揺らした。きっとつらかった当時のことを、思い出しているに違いないと考え、私から話を切り出した。
「三年になって部活を引退する絵里は、最後の試合のレギュラーを外されたんです」
その当時のことを思い出すだけで、胸が痛くなる。
「そのことをハナに打ち明けたら、次の日の部活動の時間に体育館に現れて、顧問に食ってかかったんですよ。そんなことをしたら、今迄築き上げてきたハナのステータスが下がるというのに」
「岡本さんの落ち込んだ気持ちがわかるから、斎藤さんはなりふり構わずに行動したのね」
私たちを慮った奥様の優しい笑顔に、ちょっぴり救われた気がした。
「結局、練習の無理がたたって、体がボロボロだから絵里はレギュラーを外されたという事実に、私は心底呆れ果てたよ。どんだけ練習しまくっていたのって」
私の文句に絵里はひょいと肩を竦めてから、首を横に振りつつ告げる。
「下位の私と影で交流していたのがバレたせいで、ハナはカースト上位から転落。卒業まで私とつるむことになったんだよね」
「結果的には、それでよかったと思う。最後まであの連中とつるんでいたら、こうして絵里に不倫を咎められることなく、不幸になっていただろうし」
「ハナ、本当にそう思う?」
絵里は私の利き手を掴み、ぎゅっと握りしめながら訊ねた。
「だって絵里は、私の地位が落ちたのが自分のせいだって思ってるでしょ? それに責任を感じて、こうして厄介ごとに首を突っ込んだんじゃないかなって」
「確かにそれもあるけど、最初に言ったでしょ。ハナは大切な親友だって。親友のしあわせな姿が見たいって思うのは、当然なんじゃない?」
返す言葉が見つからなかった。不倫という、人としてはしてはいけない過ちを犯したというのに、絵里はそれをしっかり正すべく、私の考えを叩き直してくれた、唯一無二の親友――。
「俺、お二人の関係がすごく羨ましいです。周りの目を気にして、いじめられる友人に手を差し伸べることができなかった自分が、すごく恥ずかしい」
運転している榊原くんが、ハンドルを軽く叩きながら告げた。
「皆さん、いろんな過去を背負っているけれど、今はまっすぐ正しい道に進もうとしているのがわかるわ」
奥様は胸に手を当てて、心に響くような優しげな口調で言った。
「そんな皆さんの手を借りて、私の夫に制裁を与えることを、どうか許してちょうだいね」
奥様に許してと言われて、黙ってなんていられない!
「元はと言えば、私が部長と不倫したのがキッカケなんですから、そんなふうに言わないでください」
「むしろ私たちを、ここぞとばかりに使ってほしいよね」
「俺、犬役に徹するために、昨日はめっちゃ練習したんですよ。奥様からいただいたアドバイスを実践するために、そりぁもう頑張りました」
3人それぞれが、気合の入った言葉を大きな声で告げた。
「制裁がはじまったら、私は喋ることができないから、ここで言わせて。皆さん、私の恨みを加算して、夫に思いきりやってちょうだいね」
私たちの会話は、目的地に着くまで途切れることなく、延々と続いた。復讐することに異様に盛り上がる私たちを尻目に、部長は狭いキャリーケースの中で、幸せそうに寝息をたてていたのだった。