その頃、雅樹は睡蓮を探しマンションの周囲の公園や飲食店を覗き金沢駅構内を汗だくになって走り回っていた。叶家に電話で連絡を入れた所「こちらには遊びに来ていない」と|蓮二《睡蓮の父》は不思議そうな声色をした。
「睡蓮がどうかしたのかい」
「いえ……….買い物に行ってからまだ帰らないので」
すると蓮二は高らかに笑った。
「雅樹くんは心配性だな、まだ21:00前じゃないか。木蓮は朝帰りだぞ」
「……….え」
「困った暴れ馬だ」
睡蓮の行方を心配しつつ蓮二の発した言葉に動揺する中途半端な自分が居た。
(そうだよな、婚約者がいるんだから朝帰りもするか)
「分かりました!ありがとうございます!」
「睡蓮がこっちに顔を出したら注意しておくよ」
「…………え」
「新婚の嫁がふらふらと見苦しい、申し訳ないが雅樹くんも叱って躾けてやってくれ」
「そんな、そんな事はありませんから」
睡蓮は完璧な妻だ。罵られるのは雅樹自身だった。
「それでは失礼します」
「あぁ、睡蓮が帰ったら一度知らせてくれないか」
「分かりました」
(………….家に戻っているかもしれないな)
雅樹は踵を返しマンションへと向かって走った。ところが肩で息をする雅樹が見たものは、街灯を避けた暗がりに駐車した車の赤いブレーキランプだった。
(ん?)
黒いBMW、見覚えのあるナンバープレートの数字。それが木蓮の婚約者の車である事は一目瞭然だった。
(………..あれは)
その助手席から降りて来た女性は睡蓮だった。明るい笑顔で運転席の窓に話し掛けている。
(どういう事だ)
木蓮の婚約者が睡蓮と話し込んでいる。
(……….なぜ)
その男性の名前は田上伊月、睡蓮の主治医だとは聞いていたがそれにしても2人の距離は近かった。
「もしもし叶さんのお宅でしょうか、雅樹です」
「おぉ、睡蓮は帰って来たか」
「……….はい、ご心配をお掛けしました」
ヴヴヴヴヴ ヴヴヴヴヴ
雅樹の胸ポケットの中で携帯電話のバイブレーション機能が着信を知らせた。それは見覚えの無い番号だったが私用電話番号を知る人物は限られている。
(………..まさか)
雅樹は睡蓮と伊月に背を向けるとポプラ並木を反対方向に向けて歩き出した。赤いブレーキランプから遠ざかる青白い携帯電話の明かりはこれからの4人の行く末を予感させた。
「もしもし」
息遣いが聞こえる。
「木蓮、木蓮なんだろう」
「あんたなにをしたの」
「なにって」
「睡蓮が居なくなったのは、あんたとなにかあったんじゃないの?」
「……………」
「あんたたち、上手くいってたんじゃないの!」
木蓮の背後には車のエンジン音、走り出す人の騒めき、歩行者信号の機械の囀。りが聞こえた。
「おまえ、外に居るのか」
「当たり前でしょ!こんな話、お父さんやお母さんの前で出来無いわよ!」
雅樹は大きく息を吸った。
「睡蓮がおまえと俺の事に気付いた」
「気付いた?」
「あの部屋の鍵の事を知っていた」
「嘘………..いつから」
「新婚旅行に行く前、俺がおまえに荷物を出した頃」
「……..結婚式の前じゃない」
「わかんね」
そうだ、810号室の鍵を仕舞い込んだのはおもちゃのオルゴールだった。睡蓮とお揃いのおもちゃのオルゴールは鍵穴も同じだったのかもしれない。木蓮は後頭部を殴られた様な衝撃を受けた。
(……….だから家に来なかったのね)
思考回路は乱れ、目の前が暗くなった。どうして気付かれないと思ったのだろう、どうしてあの時810号室の鍵を捨てなかったのだろう。それは雅樹も同じ思いで睡蓮の事を軽んじていた事を悔いた。
「どうしたら良いの」
「謝るしかないだろう」
「なんて言うの!あなたの婚約者と寝ましたって言えば良いの!?」
「それしかないだろう!」
「それでその後はどうなるの!」
「わかんねぇよ!」
雅樹は力無くその場に座り込んだ。睡蓮は810号室の鍵や深紅の指輪の事を知っていたにも関わらず毎日笑顔で尽くしていてくれた。
「………..わかんねぇよ」
木蓮とは激しい恋情で身体の繋がりはある、睡蓮とは身体の繋がりこそないが惜しみない愛情を注いでくれる。
「わかんねぇよ」
木蓮とは終わった事だ、どんなに恋焦がれてもあの夜は戻らない。
「……….木蓮」
「なに」
「あの部屋の鍵、返してくれないかな」
「………….!」
「また連絡する」
雅樹とは終わった事だ、どんなに恋焦がれても姉の夫で自分には伊月という婚約者が居る。けれどいざ810号室の鍵を手放すとなると躊躇いが残った。