歩き出してから数十分後に、アンリエッタはあることに気がついた。
マーカスと二人きりで、ギラーテの街を歩くのが、初めてだということ。そして、いつも一人で歩いている時には、それほど気にすることがなかった、視線にも。
「どうした?」
落ち着かない様子のアンリエッタに、マーカスが声をかけた。
「ううん。何でもない」
いや、正確には、少し問題があった。まさかそこまで、視線を感じるとは思わなかったんだもの。
確かにマーカスは貴族ということもあって、服装は上等のものでなくても、人目を引いていた。もし男前の容姿だったなら、女性の通行人だけが、振り返っていただろう。けれど、中性的な容姿だからなのか、女性だけでなく、男性の視線も集めているような気がした。
今更ローブを羽織って、とか言えないしね。しばらくこの街に住むんなら、尚更だし。でも、人の出が多い時間帯じゃなくて良かったよ。
ギラーテが賑わうのは、朝と夕の二回。学術院の生徒や教授、そこで働く人たちが動く時間だ。昼は、昼食を取るために出てくる者も多くいるが、朝夕に比べれば少なく、今は昼過ぎだった。
「いつも、ここを通っているのか?」
マーカスも視線が気になったのか、時計塔から真っ直ぐ伸びた大通りを、大分歩いた所で尋ねられた。
「うん。この大通りは、時計塔がよく見えるからね。夕方の開店を考えると、その方が便利だから」
というのは建前で、本当は大通りに面したお店を覗きながら歩くのが、楽しいからだった。時間が限られていると分かっていれば、入ってみたいお店でも、そんなに我慢することなく、諦められる。
どうしても、という時は、後日時間を作って行くことにしていた。あとは、それなりに情報に疎くなりたくないためだった。
お店にやって来るお客さんと、話が合わなかったら、相手に嫌な思いをさせてしまうし、私も気分が悪くなってしまう。そう、まさに今がそんな気分だった。
「マーカスが嫌なら、今日は裏通りの方から行ってみる?」
「いや、いつも図書館に向かう道で構わない」
「そう? あっ、裏通りって言っても、怪しくないからね。この大通りは、一直線に時計塔と学術院に繋がっているから、メインストリートになっているけど。一本向こう側にある裏通りだって、広い通りには変わりないんだから」
自警団に所属していれば、いずれマーカスも分かってくるだろう。市場へ行く道などは、さらに狭い道を使うこともある。
「そういう意味じゃない。普段頻繁に使っている道を知っておいた方が、いざ何かあった時、対処できるだろう?」
「いざって? そんなの今までなかったけど……」
何をそんなに心配しているの? と聞くと、溜め息をつかれた。
「常に危機感を持てとは言わない。だが、忘れたのか? アンリエッタが言ったんだぞ」
「私が……? あっ!」
「思い出したか。俺が倒す、と言っただろう」
数日前のことを思い出し、アンリエッタは俯いた。赤面しているかもしれない顔を、見られたくなかったからだ。
意識していなかったとはいえ、はしたないことをしてしまった。マーカスは、孤児院の子供たちじゃないんだから。
でも、なんだろう。口先だけじゃないって思うと、むず痒い気持ちになる。
「だから最近、やたらと私の行動を、把握したがっていたの?」
「……そうだ」
明らかに嘘だと分かった瞬間、一気に気持ちが冷めた。
「それじゃ、私も同じことをする」
「同じこと?」
「そう。そうすれば、どんな嫌な気分になるか、分かるでしょ」
そういうなり、アンリエッタはマーカスに、色々な質問を投げかけた。すでに知っている、家族構成だとか、貴族の身分だとか。そういった、マーカスに関する情報を聞き出しながら、学術院までの道のりを過ごした。
***
学術院の正門は、平民の生徒が通うには立派過ぎていて、逆に貴族の生徒が通うには雄大ではあるが、どこか他者を寄せつけない冷たさを醸し出していた。
それもその筈。この学術院は、現レニン伯爵の先祖である、大魔術師ユルーゲル・レニンが生きていた時代、魔術師たちが集う魔塔だったからだ。ソマイアの首都に移動してしまったため、用途がなくなったのを機に、学術院の形に収まり、今に至っている。
設備も整った、広大な土地を野放しにしておくには、勿体なかったのだろう。何度か建て直しを繰り返し、整備されていたが、醸し出す雰囲気は、最低限損なわないように、細心の注意が払われていた。
それ故に、守衛は人数から制服に至るまで、物々しかった。自警団の中でも、錚々たる人間が選ばれているのでは、と思われる。
そんな人たちを見ても、マーカスは全く意にも介している様子はなかった。
「それで、次は何を聞きたいんだ?」
市民カードを提示し、門を通った時くらいは、いくらか反応はした。しかし、到着までに、何度かやり取りした問答を、やめるつもりはないようだった。
とりあえずアンリエッタは、思いついたものを、片っ端から口に出した。好きな色や生年月日、どんなところで暮らしたのか、家族構成は? といったくだらない質問から、少し踏み込んだ質問にも、マーカスは調子を変えることなく、答えてくれていた。
促されたアンリエッタは、まるでクイズを出題する人のように、頭を悩ませた。『銀竜の乙女』の情報が、逆に邪魔になったからだ。
本来なら知り得ない、知らないことになっていることを、聞くわけにはいかない。けれど、なかなかないチャンスを、無駄にもしたくなかった。ない頭を、フル回転させて、絞り出せ!
「うーん。あっ、そうだ。マーカスは、どうしてマーシェルを離れて、ソマイアに来たの?」
うん。これなら、怪しくない。本来なら、マーシェルに帰らないの? と聞くべきなのかもしれない。
それで本当に帰っちゃったら……? どうしてだろう。数日前までは、それを願っていたはずなのに……。
「アンリエッタに会いに……って言ったら、怒る?」
苦笑して言うマーカスに、アンリエッタは眉をひそめた。
「これからマーカスの発言を、信じないことにしても良いのなら」
「……わかった。正直に話すよ」
降参とでも言うように、両手のひらを見せた後、マーカスは辺りを見回した。そして少し離れた場所にあったベンチを確認すると、アンリエッタを誘導し、まず先に座らせた。少し長くなるから、と。
「さっき、姉がいると言ったのを、覚えているか。パトリシアという名で――……」
マーカスは私が知っている、パトリシアに関する『銀竜の乙女』の設定通りのことを、そのまま話してくれた。これでより、この世界が『銀竜の乙女』の世界であることの証明になった。
はぐらかされなかったことは嬉しいが、ここまで話してくれたのは、単に私が孤児だとか神聖力といったものを、マーカスに伝えたからなのだろうか。
「それで、銀竜には会えたの?」
「いや、今も探している最中だ。ここの図書館に、手がかりがあると、良いんだけどな」
つまり、マーシェルで探しても埒が明かなくなり、手がかりを求めて、ソマイアでもマーシェルに近い、学術院があるこのギラーテにやってきた、ということになるのか。なるほど。パトリシアのことは、全く解決していなかったのね。
ということは、学術院内での警備は、マーカスにとって、ある意味チャンスになった、というわけだ。
「今日はそんなに時間を取れないけど、これからはここに頻繁に来るようになるんだから、幾らでも調べられて、良かったじゃない」
「そうだな。……アンリエッタ、もしここで俺を見かけたら、声をかけてくれ」
「どうして?」
「進捗状況は、知りたくないのか?」
知りたい! と思わず口に出しそうになったのを、手で止めた。まるで野次馬みたいじゃない。
それに、そんなに物欲しそうな顔をしていたかな。
「分かった。必ず声をかければ、良いんでしょ」
アンリエッタの答えに、マーカスは満足そうに微笑んだ。
***
学術院には、敷地の北と南に一つずつ図書館がある。アンリエッタたちが向かったのは、その二つの内の、南館と呼ばれている場所だった。
一般の者は、その南館のみ利用が可能なため、行くも何も、そこにしか行くことが出来ない。
しかし、マーカスが今、肩に掛けているバッグに入っている本の中には、明らかに北館の物である本があった。
ポーラから借りた神聖力の本である。
南館が一般のみなら、北館は内部の人間のための図書館だった。専門書や希少な蔵書が多く、館外への持ち出し不可な書物が多くある。
その本をポーラから受け取った時、アンリエッタは確認した。この本は、学術院の図書館の本なのか。南館の物か、北館の物か。はたまた、教授職の人物の私物なのか、どうかを。
『これから学ぼうって人に、物騒な物は渡さないわ。大丈夫。それは南館に所蔵している本よ。だから、返却は南館にね』
南館、と聞いてほっとしたものの、一応裏表紙を捲り、確認した。すると、その本は、北館の物である判が押されていた。
司書と言えど、見た目とタイトルだけでは、北館か南館か分別することは、容易ではないため、判を押すことで、混入を防ぐ対策をしていた。
念のため、ポーラに聞くと、許可は取ってある、というので、その言葉を信じた。
『それから、その本を薦めてくれた人物が、返却の時に合わせて、次の本を渡してくれるように、司書に頼んでおくって言っていたから、受付で確認してね』
それも、全部南館で済ませてくれる、ということだった。アンリエッタにとっては、有難いことではあったが、そこまで親切にしてもらえて、逆に怖かった。相手の人物というより、それを可能にしたポーラに。
南館に到着すると、慣れた手つきで扉を開け、マーカスからバッグを受け取った。中身を取り出し、入ってすぐに目に入る受付へと向かった。
「こんにちは。こちらは……すべて返却で、宜しいですか?」
「はい。それで、この本なんですが……」
カウンターに置いた三冊の本の中から、神聖力の本を指差した。頼んでおくと言われた手前、聞かなければならない。本当に北館の本を、南館で返して怒られないだろうか。
恐る恐る聞くと、司書は全く問題ない、とばかりに態度は変わらなかった。
「こちらの本に対しての質問がございましたら、受け付けるよう、マスティーユ教授より承っております。何かございますか?」
「えっ、無いですが、そんなことも可能なんですか?」
「返却の際、確認するように申し付かっておりますので」
さすがはポーラさんの紹介。……マスティーユ教授っていうのか。
「分かりました。何かあれば、紙に書いて持ってきます」
「そうしていただけると、こちらも助かります。それでは少々お待ちください。次にお渡しする本を持ってきますので」
カウンターの後ろにあるドアが開かれ、司書の姿が見えなくなってから、しばらくすると、両手で二冊の本を持ってやってきた。
「マスティーユ教授から、もしよろしければ、二冊ともどうぞということでした。書かれている内容は、あまりどちらも変わらないそうなのですが、解釈の好みもあるので、二冊選ばせていただきました、と仰っていました。いかがされますか? 一冊だけ借りても、大丈夫だと伺っておりますが」
「この二冊を、ここで多少読んでから、決めたらどうだ?」
カウンターの上に置かれた本を眺めていたら、後ろからマーカスがやってきてアドバイスした。マーカスの言う通り、その選び方でも構わないと司書は言ってくれた。けれど、私が本を凝視しているのには、別の訳があった。
「とりあえず、場所を移動しよう」
私が悩んでいると思ったのだろう。マーカスが本を持とうとした。それをすかさず、右手で止めた。
「アンリエッタ?」
「こっちを借りていきます」
中身を確認せずに、アンリエッタは左側にあった本を手に取った。何故かマーカスが、右側にあった本に手を近づけた瞬間、背筋がゾクッとした。
こういう勘は当たる。右はダメ。どうしてダメなのかなんて関係ない。ダメなものは、ダメ。
「では、今日はこちらだけになさいますか?」
「いいえ。少し見てからにするので、この本を持ったまま、中にいて良いですか?」
「それは勿論、構いません。ごゆっくりどうぞ」
アンリエッタは会釈した後、急いで受付を後にした。今はとにかく受付から、いやあの本から離れたかった。どうしてあの本に反応したのか、分からなかったが、とにかく離れなければ、この悪寒が止まらない。
マーシェルで孤児院から逃げ出した時に、何度も味わった感覚に、吐き気がした。恐怖と悪寒が襲ってくるのに、立ち止まることも、ゆっくり休むことも出来ずに、ひたすら体と頭を動かした。
「大丈夫か?」
マーカスが私の手から本を取り上げると、肩を抱き寄せた。場所を考えると、離れるべきなのだろうが、今はそれが心地よかった。
手続きをしていない本を持っていたため、外に出ることが出来ず、閲覧用に設けられている椅子に座らされた。幸いにも、館内にいた者たちは、気にした様子はない。時々、気分が悪くなる者がいたりするのだろうか。
そうしてしばらくの間、マーカスの肩を借りた。
「ありがとう、マーカス。もう平気」
「……何があった?」
さすがに尋常じゃない、と思ったのだろう。小声で話しかけられた。孤児院でのことは、すでに話していたため、隠す必要を感じなかったので説明した。
「それで、こっちは問題ないんだな」
「うん。何も感じないから、大丈夫」
何が違うのか、マーカスは本を頻りに調べている。しかし、私にとっては、違いや原因なんて、正直どうでもよかった。最優先事項は、元の状態に早く戻ること。ただそれしか、考えられなかった。
そしてもう一つ、大事なことがある。アンリエッタは、マーカスの手を軽く叩き、立ち上がった。
「そろそろ別の本を探しに行くね」
先程返却してしまったために、手元には読む本がなかった。神聖力の本だけじゃ、気が滅入っちゃう。気分転換にも、何か探さないと。
「まだ休んでいた方が……。いや、俺も行く」
出来れば一人で行きたいんだけど……、と言える雰囲気ではなかった。だからせめて、少しだけ離れるよう、要求した。すると、何故? という表情で返された。
「恥ずかしいから」
だから、私も小声でそう返すと、ますます納得できないと、顔で訴えられた。
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