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1 ─────
『ねぇぷりちゃん!』
そう言って、いつも元気に俺の名前を呼ぶ君。
そんな元気で優しい君が、俺は好きだった。
────恋愛とか、そういうんじゃなくて。
俺と君は、幼馴染。
初めての出会いは、小学校だった。
入学式が終わってから、少し、休憩時間があった。他のみんなは同じ幼稚園だったり、保育園だったりの子達と話してた。
でも、一人だけ、不満そうな顔をして、みんなのことを眺めていた。
俺は、ここら辺の幼稚園出身で、知ってる人も多かった。
でも、特別仲の良い親友、と呼べる人も居なかったので、何故か目を引かれた君に声を掛けた。
『お前、一人?』
俺が声をかけると、その子は驚いたような、めんどくさそうな顔をしていた。
あ、やらかした。そう思った。
幼いながらに背筋が凍ったのをよく覚えている。
だが、まだ幼く、そんな感情の名前を知らない俺は、ずっとその場に立っていた。
そして、1分程立って、気まずい空気が流れていた時。
『別に、関係ない』
幼かったため、「別に」という興味を示さず、
「関係ない」という明確な拒絶の言葉を飲み込まず、
ただ返事を返してくれた事が嬉しかった。
内心、凄くハッピーな気持ちでいっぱいだった。
その事で浮かれていた俺は、さっきの返事を忘れていた。
『じゃあ今日から友達な!』
自分でも話が飛んだと思う。
「別に、関係ない」のあとの言葉が「じゃあ今日から友達な!」絶対に可笑しい。
でも、俺はそんなことを考える暇もなかった。
こいつとどうやって仲良くなるか、ばっかり考えていた。
そんな時、君は、呆れたような、勘違いかもしれないが、少し嬉しそうな顔をして言った。
『ばかみたい』
幼いこともあり、まだ言葉の奥の意味を知らなかった俺は、「ばか」という言葉を素直に受け止めて言った。
『俺はばかじゃねぇ!』
そんな些細なことから始まった幼馴染の関係。
この時は、ただただ一緒に居ることが楽しくて一緒に居た。
『てか、お前名前は?』
『俺?ちぐさ』
『ならちぐだな!』
『ふーん』
『君はぷりっつでしょ』
『なんで分かるん?』
『名札』
『…あ』
2 ─────
君と話していて気づいたことがあった。
君はこのクラスに俺以外友達がいない。
俺は同じ幼稚園の友達が大半だったから、ペアを作る時は基本、誰でもいけた。
でも、君はいつも、俺のほうに来ることはなくても、必ずこっちを見ていた。
だから俺も嬉しくなって、必ず君の方に行った。
1度だけ、君にイタズラをしたくなって、友達に協力してもらって他の人とペアを作るっていうドッキリをした。
すると、その後の授業や休憩時間に口を聞いてくれなくて、流石にまずいと思い、謝った。
君は、もうしないでよ、と言って許してくれた。
『なぁ、ちぐって保育園どこ?』
俺とは違うところで教育を受けていた君の、
ずっと気になっていた事を入学してから1ヶ月弱くらいで聞いた。
すると君は少し困ったような悩むような表情をして言った。
『行ってない』
『じゃあ幼稚園なん?』
俺は幼稚園出身で、ここの小学校に近い幼稚園は俺が通っていたところしかなかったから、入学する時に転校でもしてきたのかと思って聞いてみた。
『行ってない』
は?と思った。
幼稚園に行ってない。
保育園にも行ってない。
ならどこに行ったんだ。
俺の頭は混乱していて、クエスチョンマークで埋め尽くされていた。
『義務教育じゃないから。』
「義務教育。」
そんな言葉、小学1年生、入学したての俺が知ってるはずない。
だから俺は、君のことを天才だと思った。
でも、義務教育の意味を知らなくても、幼稚園や保育園は、俺的に凄く楽しいと思っていた。
だから、義務教育という言葉を知らなくても、行ってないということは理解して、可哀想だな、と思った。
3 ─────
俺達は、どちらかが転校する。
などという漫画展開もなく、楽しく小中学校生活を過ごした。
今は、高校2年生の秋。
君は、学校に来る頻度が減った。
俺はいつも、君の夢を聞く。
『俺、絶対医者になるから!!』
医者。
莫大な夢。
でも、君ならいけると思った。
俺は、その夢を応援した。
君は、医者になるため、まだ高校2年生でも、勉強に没頭した。
俺と遊ぶことも少なくなった。
いや、ほぼ無かった。
でも、それでも俺は、君の夢を応援した。
『……2位とか、意味ないし』
そう言って、答案用紙を机に置いた。
赤い「2」の数字が、やけに目につく。
『いや十分すごいやろ』
『1位じゃなきゃ意味ない』
そう言い切る声に、冗談はなかった。
俺は、自分の答案をそっと裏返した。
ある日を境に、君は登校頻度がとても少なくなった。
君にLINEをした。
返信はなかった。
そりゃそうだ。
俺は知っている。
君はいつも、なにかに集中するときはスマホをマナーにする。
あぁ、勉強、頑張ってたから、休憩のために休んでるのか。
そう思って納得した。
数日が経った。
流石に長いな?
そろそろ出席日数も足りないんじゃないか?
と思った俺は、君の家に行ってみることにした。
風邪?だとしたらこじらせすぎか、
疲れが溜まってたのか?いや、出席日数のこともあるし、…
君の家に行く途中、ずっと考えていた。
1度、赤信号で横断歩道を渡りそうになった。
でも、大きなクラクションを鳴らされて気がついた。
あぁ、そういえば君はこの音が鳴ると俺に引っ付いて来てたよな。
そんな思い出が懐かしい。
そんなことを考えてるうちに、君の家に着いた。
3年前、何故か合鍵を渡されてからずっと持ち歩いてるけど、一応インターホンを押す。
ピューン ポーン
君の家のインターホンが鳴る。
君の家のマンションは昔からあるため、少しインターホンの音がおかしかったりもする。
今日は、特に酷かった。思わずくすっと笑ってしまった。
君は出てこなかった。
待った。長い時間。
といっても3分弱くらいなのだが、
ゲームの広告などで待つのが苦手な俺にとっては長かった。
4 ─────
出てこなかった。
待った。待ったけど。
合鍵で開けてみることにする。
ガチャ
空いた。本物の合鍵だった。
『失礼しまーす、』
そう遠慮がちに入った家は、もぬけの殻だった。
ベットだってぐちゃぐちゃだし。
冷蔵庫からは腐った納豆の匂いがするし。
正直言って、ゴミ屋敷だった。
冷蔵庫の中の匂いが部屋中に充満する前に換気扇をつけようとした。
付かなかった。
君の家に行く途中に外も暗くなっていたので、電気を点けようとした。
点かなかった。
壊れているのかと思った。
全てが重なって、誘拐のことも考えたが、
先生は毎日、君から直接休みの連絡を受けているというから、その考えは意外と早くに捨てた。
なら、どうして。
俺は、君を待つことにした。
LINEを開いても、まだ付かない「既読」の文字。
1週間前に最近来ないな。と送ったのに。
YouTubeのショート動画を見ながら待っていると、
いつの間にか2時間半が経っていた。
時刻は、7時24分。
君は、運動は苦手だから、と言って部活には入っていない。
塾などで勉強するよりも、教科書や参考書を使って自分で勉強する方が得意だと言って塾にも入っていない。
俺でも分かった。
絶対におかしい。
流石にそろそろ帰るか、と思っていた時。
スマホの上部にLINEからの通知が来た。
「明日遊べる?」
君じゃなかった。
そりゃそうか。そんなタイミングがいい事あるか。
握りしめた拳は、白くなっていた。
5 ─────
後日。
やっと返信が来た。
「ごめん。用事があって。」
それだけ。たった。それだけ。
返信が来たから、俺は「どうかしたん?」と返した。
すぐ返したのに、既読だけついて終わった。
『意味わかんねぇっ、…』
君のこと、知りたい。
今、何処にいるのか。
今、何をしているのか。
今、何を考えているのか。
なんでこんなことを考えてしまうんだろうか。
数週間が過ぎた。
君がいなくなっただけ。
俺はほかにも友達はいるし、別になんの影響も無いはずなのに、
君がいない日々を過ごして行くうちに、
桜が散っていくようだった。
ある日、君から住所が送られてきた。
住所と共には、「良ければ来て」
素っ気なかった。まるで、入学式の日に戻ったようだった。
でも、迷うことはなかった。
「行く」
その日に予定していた誘いもドタキャンした。
でも、そんなことはもうどうでもよかった。
俺は、その住所が何処か分からなかったから、
君から送られてきたメッセージをコピーしてマップのアプリを開く。
範囲がぐんっと狭まって、赤いピンが刺さった位置は、病院だった。
『は、?』
意味が分からなくて、住所を間違えたんじゃないかと思った俺は、君にLINEを送る。
「住所、間違えてね?」
何分待っただろうか。1分か、5分か、でも、俺には永遠のように感じられた。
やはり、既読の文字は付かない。
いつもすぐ返してくれていた君の面影はどこに行ったのか。
返信が無いことを確信して、1度行ってみることにした。
病院に行くことなんて最近はほぼ無かったから、少し怖くもある。
でも、それより、間違えてない方が、怖かった。
素っ気ない君。
病院。
パズルのピースがはまっていくようで、
病院へ向かう足取りが、重くなった。
ふと、LINEを開いたら、既読がついていた。
返信を待った。
「間違えてない」
その答えを聞いた瞬間、俺は怖くなった。
パズルのピースがはまって、完成してしまったように感じたから。
6 ─────
病院に着いた頃。
君から追加の連絡。
「228号室」
言葉は少なくとも、伝えたいことはわかる。
病院に駆け足で入ると、1度受付に止められたが、
君のことを話すと案外すぐに通された。
駆け足で登っていた階段だったが、君のことを考えると、足取りが重くなる。
1度、踵を返そうと思ったが、君に会いたいという気持ちが勝ってしまった。
「228」
その番号をもう一度読み返す。
毎日会っていた君と会うのに、こんなに緊張するなんて思わなかった。
ふっと息を吐いて、吸う。
何度か繰り返して、ドアを開けた。
そこに居たのは、君だった。
痩せこけて、
血色感もなくて、
布団に身を包んで、
医療用帽子を被って、
君がいつも付けていたお気に入りのヘアピンは、
ベッドの横にあった棚に置かれていた。
『ぷりちゃん』
声に覇気がなかった。
でも、そこに居たのは紛れもなく君で、君でしかなかった。
『久しぶり』
その言葉を聞いて、俺は涙を堪えた。
『あぁ、久しぶり。』
そう言って、君が寝ていたベッドの端に腰を下ろす。
スプリングが軋む音がした。
その後の会話は無い。
何処から話せばいいのか分からなかった。というのが正しいのかもしれない。
ふと、君が口を開いた。
『ごめんね』
なんで君が謝るんだ。君が何をしたんだ。
『謝んなや、』
咄嗟に出た言葉。
もっと考えて返答したかった。
でも、この沈黙に耐えられる気がしなかった。
君は、歯を食いしばっていた。
『俺、…』
話さなくていい。そう言いたかった。
でも、俺の中で、君に辛い思いをさせたくない気持ちより、
君のことを知りたいという気持ちが勝ってしまう。
『白血病なんだ』
白血病。
知らない。
そんなの漫画でしか聞いた事ない。
君は、天を仰いだ。
『4歳の頃に発症して、…再発した』
再発。4歳の頃。
保育園にも幼稚園にも行ってないことも、
部活をしていないことも、
全部、繋がった気がした。
ぐっと拳を握りしめるつもりが、君の手を握っていた。
冷たかった。
──思ってたよりも。
でも。
手を握った瞬間、君の瞳孔が揺れた気がした。
7 ─────
君は、俺が重ねた手を振り払った。
『優しく、しないでっ、…』
その瞬間、考えることより先に身体が動いた。
気づけば、君に抱きついていた。
点滴が落ちる規則的な音が聞こえながら、
俺は、君の背中に手を回していた。
君の手の行き場はなくて、俺の服の裾をキュッと掴んでいた。
少しの間そうしていて、俺は1度離れようと思った。
だが俺は、離すのとは逆に、君のことをさらに強く抱き締めていた。
その後、君は、堪えていた涙がこぼれ落ちたかのようだった。
俺は、少し離れて君の涙を拭った。
『俺が居るから。』
それだけ言った。
それ以上は、言わなかった。
幼い頃に病気を発症して、
中学生の頃に不慮の事故で父親を亡くした君にとっては、
一人で抱え込む事が当たり前で、
そうでなければ混乱してしまうと思ったから。
でも、俺の存在を伝える事は出来る。
言葉はなかった。
いや、要らなかった。
しばらくすると、俺の肩に体を預けていた君の重みが増すのを感じた。
寝たか、と思って顔を覗き込むと、
少し泣いた跡が残った顔で、少しだけ、
俺が来たばかりのときより安心したような顔をして眠っていた。
俺は、その場で、君が俺に体重を預けている方では無い腕を、
君の医療用帽子の上から撫でた。
君の表情は、すっと、笑顔になったように感じた。
8 ─────
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が静かに締めつけられた。
こんな顔、できるんや。
そう思った。
普段の君は、どこか張り詰めていて、 誰にも寄りかからないように、
無意識に距離を取っているように俺には見えたから。
でも今は違う。
俺の肩に体を預けて、 小さく息を立てて眠っている。
その事実が、妙に現実味を帯びていて、 同時に、ひどく脆いものにも感じられた。
このまま、離れたらどうなるんだろう。
また、元の君に戻るのか。 何もなかったみたいに、 ひとりで全部抱え込む君に。
『離れんといてや、…』
思わず、声が漏れた。
もちろん君は起きない。
ただ少しだけ、俺の服を掴む手に力が入った気がした。
俺はゆっくりと、君の身体が楽になるように体勢を整えた。
点滴の管に触れないように気をつけながら、
そっと、ベッドに寄りかからせる。
それでも君は、完全には離れなくて、
俺の袖を掴んだままだった。
『しゃあないな、…』
小さく笑って、ベッドの脇に腰を下ろし直す。
このまま、しばらく動けへんな。
そう思ったのに、不思議と嫌じゃなかった。
静かな病室に、規則的な音が響く。 点滴の音と、君の穏やかな寝息。
時間が、ゆっくり流れていく。
ふと、君の額にかかる、
薬の副作用で少し抜け落ちてしまった髪が気になって、 指先でそっと整えた。
その瞬間、君の唇がわずかに動いた。
『いか、…ないで、っ、…』
かすれるような、小さな声。
夢の中での言葉なのか、 それとも──
『行かへんよ。』
今度は、はっきりと答えた。
聞こえていなくてもいい。
それでも、伝えておきたかった。
君が一人で抱え込むのが当たり前なら、
俺は、そこに“当たり前に居る存在”になればいい。
無理に変えなくていい。
ただ、少しずつ、 君の中に、俺が居ることを残していけばいい。
君の手を、そっと包む。
今度は、振り払われなかった。
その温もりを確かめながら、 俺は静かに目を閉じた。
ほんの少しだけ、 この時間に甘えてもいい気がした。
9 ─────
どれくらい、そうしていたのだろう。
気がつけば、窓の外はすっかり暗くなっていて、
病室の蛍光灯だけが、やけに白くて、
現実に引き戻されるような気がした。
腕に、じんわりとした重さ。
君はまだ、俺の袖を掴んだまま眠っている。
『ほんまに、…離さへんな、』
小さく呟いてみる。 もちろん返事はない。
けど、その代わりみたいに、 君の指がほんの少しだけ動いた気がした。
その時、不意にドアが軽くノックされた。
コン、コン
静かな音と一緒に入ってきたのは、 看護師さんだった。
一瞬だけ、俺と君の体勢を見て、 少し驚いたように目を丸くしたあと、 すぐに柔らかい表情に戻った。
「ああ……眠ってるんですね」
小さな声でそう言って、 点滴の様子を確認し始める。
俺は動こうとした。 でも──
「そのままで大丈夫ですよ」
先に、そう言われた。
「こうやって誰かに寄りかかって眠るの、久しぶりかもしれません」
胸の奥が、少しだけ痛くなった。
知ってたつもりだった。 でも、つもりだっただけだ。
「……よく、頑張ってますよ」
看護師さんはそう言って、 点滴を整え終えると、静かに部屋を出ていった。
ドアが閉まる音が、やけに小さく響いた。
静寂が戻る。
俺は、君の方を見た。
変わらず眠ってる。 けどさっきより、少しだけ表情が穏やかに見えた。
「……頑張りすぎやろ」
思わず、そんな言葉が漏れる。
医者になるって夢も、 一人で抱え込む癖も、 弱さを見せないところも。
全部。
そう思いながら、 もう片方の手で、そっと君の頭を撫でた。
医療用帽子の上からでも分かるくらい、 その頭は小さくて、軽かった。
その時。
『……ぷり、ちゃん、』
かすれた声。
起きたのかと思って顔を覗き込むと、 目は閉じたまま。
寝言、かと思った時。
『俺、…怖い、』
その一言で、 時間が止まったみたいになった。
君が、怖いなんて弱音を吐くのを 初めて聞いた気がした。
ずっと強がって、 何でも一人で抱え込んでた君が。
君の頭を、そっと撫でる。
届いてなくてもいい。
『…大丈夫やで、俺、居るから。』
今度は、少しだけはっきりと。
君の手を、少しだけ強く握る。
逃げられへんように、じゃない。
離れんように。
すると──
君の指が、 ゆっくりと、俺の手を握り返した。
ほんの少しだけ。 でも、確かに。
その瞬間、 胸の奥にあった何かが、すっとほどけた気がした。
小さく笑う。
強くならなくていい。 全部背負わなくていい。
少しだけでいいから、 こうやって頼ってくれたら。
それだけで、十分や。
俺は、君の隣に座ったまま、 窓の外を見た。
真っ暗な夜の中に、 街の灯りがぽつぽつと浮かんでいる。
長い夜になりそうだな、と思った。
でも──
悪くない。
君が隣にいる、この夜なら。
10 ─────
それから、どれくらいの時間が過ぎただろう。
気がつけば、君は目を覚ましていた。
『……ぷりちゃん』
かすれた声。 でも、さっきまでの不安に押し潰されそうな響きじゃなかった。
『起きたんか』
そう言うと、君は少しだけ目を細めて、弱く笑った。
『……まだ、居た』
その一言に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
『当たり前やろ』
軽く返したつもりだったのに、 声が少しだけ震えていた気がした。
君は、俺の袖を掴んだまま、 少しだけ視線を逸らした。
『……あのさ』
『ん?』
『もし、俺がさ』
そこで言葉が止まる。
言いたいことは、なんとなく分かってしまった。
分かってしまったからこそ、 続きを聞きたくなかった。
『もし、じゃない』
被せるように言った。
『そういう話、すんな』
少し強くなった口調。
君は一瞬驚いた顔をして、 それから、ふっと小さく笑った。
『……ぷりちゃん、ずるい』
『なにがや』
『そうやって、逃げ道くれるとこ』
逃げ道なんかじゃない。 ただ、聞きたくないだけだ。
失う前提の話なんて。
『……俺ね』
君は、今度はちゃんと続けた。
『手紙、書いてたの』
『手紙?』
『うん』
ベッドの横にある棚に目をやる。
そこには、ノートが一冊置かれていた。
『最初はね、もしもの時のためにって思ってたの、』
もしもという言葉に、少しだけ息が詰まる。
『でも、途中から分からなくなっちゃって、』
『何が?』
『渡したいのか、渡したくないのか』
静かな声だった。
でも、その一言一言が、 やけに重かった。
『だってさ』
君は、少し笑った。
『渡したら、終わる気がして』
その言葉で、全部分かってしまった。
手紙は、“終わり”の準備だ。
だから君は、渡せなかった。
『……ばかやな』
気づけば、そう言っていた。
『なんでやねん』
『終わらへんわ、そんなもん』
少しだけ、強く言い切る。
君は、少し驚いた顔をしたあと、 静かに目を伏せた。
『……そっか』
その表情は、 納得したというより、 少しだけ、安心したように見えた。
11 ─────
『読んで、みる、?』
突拍子もなく、突然、君が言った。
棚に置かれたノートを、顎で示す。
心臓が、ドクンと鳴る。
読みたい。
でも、 読んでしまったら、 何かが変わる気がした。
『……いい』
そう答えた。
自分でも、少し驚くくらいあっさりと。
『…どうして?』
『今、聞けるやろ』
言葉にするのは、少し怖かったけど。
『直接、言え』
逃げるな、って意味じゃない。
今ここに居る君の言葉を、 ちゃんと聞きたいだけだ。
君は、少し黙ってから、 小さく息を吐いた。
『……ありがと』
その一言だけだった。
でも、それで十分だった。
それからの日々。
俺は、出来るだけ病院に通った。
学校終わり。 休みの日。 時間を見つけては、君のところに行った。
他愛もない話をして、 時々、勉強を教えてもらって、 くだらないことで笑って。
まるで、 昔に戻ったみたいだった。
違うのは、 点滴の音があることと、 時間に限りがあることくらい。
でも俺は、 それを“特別な時間”だとは思わないようにした。
思ってしまったら、 終わりを意識してしまうから。
冬の始まり。
君の体調は、 少しずつ、でも確実に悪くなっていった。
それでも君は、
『俺、医者なるし』
なんて、笑って言う。
絶対に、無理してる。抱え込んでる。
その言葉に、 何も返せなくなる自分が、 少しだけ嫌だった。
少しなんかじゃない。とてつもなく、だ。
12 ─────
ある日。
病室に入ると、君は眠っていた。
でも、いつもと少し違った。
呼吸が浅い。
機械の音が、やけに大きく聞こえる。
『……ちぐ?』
返事はない。
近づいて、手を握る。
冷たい。
でも、まだ、温もりは残っていた。
その時、ふと気づいた。
ベッドの横の棚。
あのノートの隣に、見慣れないものが置いてあった。
──医学書。
開きっぱなしで、付箋だらけで、ところどころに書き込みがある。
「白血病」「寛解」「再発」
難しい言葉が並んでいる。
……ここまでやってたんかよ。
喉が詰まる。
夢、まだ諦めてなかったんやな。
指でそっとページをなぞる。
乱れた字で、小さく書かれていた。
「ちゃんと知りたい」
その一言に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
そのまま、ノートに手を伸ばす。
少しだけ迷った。
でも──開いた。
そこには、見慣れた字。
『ぷりちゃんへ』
視界が滲む。
『たぶん、これ読んでるってことは、
俺、ちゃんと話せなかったんだと思う。』
ページをめくる手が震える。
『ほんとはさ』
『…めっちゃ怖い。』
息が詰まる。
『死ぬこともなんだけど、
それよりも、ぷりちゃんが居なくなることの方が怖い。』
『俺ね、ずっと、一人で頑張るのが普通だと思ってた。』
『でもね』
『ぷりちゃんといたら、それ、どうでもよくなったんだ。』
涙が、ぽたっと落ちる。
『あの時、抱きついてくれたでしょ。
あれ、ほんとはめっちゃ嬉しかったの。』
『優しくするなって言ったけど、
ほんとは、もっとしてほしかった。』
ページの端を強く掴む。
『俺がもし、だめになっても』
呼吸が止まりそうになる。
『泣かないで、とは言わない。』
『でもね』
『忘れないで欲しい。
俺がちゃんと、ぷりちゃんといたってこと。』
涙で文字が歪む。
『あと、』
少しだけ、文字が乱れていた。
『医者なるって夢、途中で投げるの、悔しいから』
『代わりに、とかじゃなくていいの。』
『ただ、誰かの隣に居れる人でいてほしい』
視線が止まる。
隣に居れる人。
──それって、俺やったやんか。
『俺なんかの隣に、居てくれたみたいに。』
最後の一行。
『ありがとう』
『ほんとに、大好き。』
ページの最後に、もう一つだけ、小さく書き足されていた。
『あとさ』
『ぷりちゃん、絶対、ちゃんと笑ってよ?』
ぐっと歯を食いしばる。
……無理やろ、そんなん。
でも。
それでも。
俺は、医学書をもう一度見た。
付箋だらけのページ。
必死に生きようとした跡。
ノートを閉じる。
そして、小さく呟いた。
『……知るわ』
『ちゃんと、知る』
何をかは、まだ分からない。
でも、
逃げるのは違う気がした。
13 ─────
気づけば、手が震えていた。
ノートを閉じることもできず、
ただ、ページを開いたまま、俯いていた。
『……ちぐ、』
名前を呼ぶ。
返事は、ない。
ゆっくり顔を上げる。
そこには、変わらない顔で眠る君がいた。
でも──
もう分かってしまった。
点滴の音が、止まっている。
機械の音も、もう、鳴っていない。
『……うそやろ』
一歩、近づく。
もう一度、手を握る。
さっきより、少しだけ冷たい。
『……おい』
『ちぐ』
『起きろや』
声が、崩れる。
それでも。
もう一度、強く握る。
喉が震える。
『お前が知ろうとしてたこと、
ちゃんと、俺も知る』
涙が落ちる。
止まらない。
その時。
君の手を、ゆっくりと胸に引き寄せた。
冷たいはずなのに、
どこか、あの時の温もりが残っている気がした。
どれくらい泣いたか、分からない。
看護師さんが来て、何かを言っていた気がする。
でも、何も聞こえなかった。
ただ──
最後まで、手を離さなかった。
──
春。
桜が咲いていた。
あの日と同じように。
俺は、あのノートと、もう一冊の本を持っていた。
あの時、病室にあった医学書。
少しだけ、読み進めた跡がある。
難しい。
正直、全然分からない。
でも。
ページの端には、小さくメモが増えていた。
俺の字で。
「ここ分からん」
「あとで調べる」
「なんでこうなる?」
情けないくらい、初心者の跡。
それでも。
ちゃんと、続いている。
『……ばかやな、ほんま』
小さく笑う。
風が吹いて、桜が舞う。
ノートを胸に当てる。
これは、まだ“渡されてない手紙”。
“渡さなかった”んじゃない。”終わらせたくなかった”んだ。
だからこそ。
『終わらせへんよ』
ぽつりと呟く。
空を見上げる。
誰かの。
そして──
君が知ろうとした世界の、隣に。
ゆっくりと、一歩踏み出した。
14 ─────
春。
あの日と同じように、桜が咲いていた。
でも、違うのは──
俺が立ってる場所。
『……迷うなぁ、これ』
小さく呟く。
手に持っているのは、分厚い参考書。
見慣れた医学書よりも、少しだけ新しいやつ。
ページの端には、相変わらず俺の字でメモが並んでる。
「ここ意味わからん」
「あとで聞く」
「図にしてみる」
……成長してんのかしてないのか、分からん。
苦笑いしながら、ページをめくる。
正直、まだ全然分からんことの方が多い。
難しい言葉ばっかりで、途中で何度も投げ出しそうになった。
でも。
それでも、やめへんかった。
『ちゃんと知る』
あの日、そう言ったから。
誰に聞かせたわけでもない言葉なのに、
それが、妙に重くて。
──逃げられへんかった。
ふと、空を見上げる。
桜の花びらが、風に乗って舞っていた。
『……なぁ』
小さく呟く。
もちろん、返事はない。
『まだ、全然分からんわ』
笑いながら言う。
『お前、ようこんなんやってたな』
ページを軽く叩く。
白血病。寛解。再発。
何度も見た言葉。
でも今は、少しだけ分かる。
ほんの、少しだけ。
それでも──
前とは違う。
ゆっくりと、本を閉じる。
ベンチの横に、あのノートを置いた。
何度も読んだ。
覚えるくらい、読んだ。
それでも、まだ──
“受け取った”とは思ってない。
『まだ、続いてるからな』
ぽつりと呟く。
風が吹いて、ページがぱらりとめくれた。
あの一文が、目に入る。
『ただ、誰かの隣に居れる人でいてほしい』
静かに、息を吐く。
遠くで、小さな子どもが転んだ。
母親らしき人が駆け寄って、抱き起こす。
泣き声が、すぐに小さくなる。
その光景を、なんとなく見ていた。
胸の奥が、少しだけ動く。
理由は分からない。
でも──
目を逸らさなかった。
『……これも、知るってことなんかな』
誰に聞くでもなく、呟く。
答えはない。
でも、あの日みたいに怖くはなかった。
立ち上がる。
ノートと本を手に取る。
少しだけ、迷ってから。
ノートを、胸に当てた。
『行くで』
あの日と同じ言葉。
でも今は、少しだけ意味が違う。
歩き出す。
ゆっくりと。
ちゃんと、自分の足で。
『俺、まだ途中やから』
空を見上げる。
桜の隙間から、青が覗いていた。
『……見とけよ』
少しだけ、笑った。
風が吹く。
花びらが、ひとひら。
肩に落ちて、すぐに滑り落ちた。
そのまま、前に進む。
振り返らずに。
でも──
隣には、ちゃんと残っている。
見えへんだけで。
15 ─────
午後。
窓の外は、少しだけ白く霞んでいた。
晴れているのか、曇っているのか分からない空。
『……ここやっけ』
小さく呟く。
手元の紙と、目の前の建物を見比べる。
大学の資料に書いてあった場所。
医療系の講義で使う施設の見学。
正直、来るか少し迷った。
難しそうやし。
場違いな気もするし。
でも──
あの日の言葉が、頭から離れなかった。
軽く息を吐く。
『まぁ……見るだけやしな』
自分に言い聞かせるみたいに呟く。
自動ドアが、静かに開いた。
中は、思っていたより静かだった。
病院ほどじゃない。
でも、似ている。
白い壁。
消毒液の匂い。
少しだけ、胸がざわつく。
足が止まりかける。
……あかん。
『行くって言ったやろ』
小さく言う。
誰にでもなく。
一歩、踏み出す。
受付の横を通り過ぎる。
人の話し声が、遠くで聞こえる。
専門用語ばっかりで、ほとんど分からない。
『……やっぱむずいな』
苦笑する。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
分からん、ってことが。
前より、怖くない。
廊下の途中で、立ち止まる。
ガラス越しに、小さな部屋が見えた。
中では、白衣の人が誰かに説明している。
ベッドの上には、小さな子ども。
話の内容は、半分も分からない。
それでも──
目を逸らさなかった。
前なら、たぶん逸らしてた。
『……こんなんやったんかな』
ぽつりと呟く。
答えはない。
でも、想像はできる。
少しだけ。
ほんの、少しだけ。
ポケットから、小さなメモ帳を取り出す。
あの医学書とは違う。
自分で買ったやつ。
ペンを走らせる。
「白血病 子ども」
「治療 何する?」
「なんで再発する?」
字は、相変わらず雑。
でも、止まらない。
分からんことが、増えていく。
それでも──
書くのをやめなかった。
ふと、ガラスに自分の顔が映る。
少しだけ、疲れた顔。
でも、前よりは──
ちゃんと、前を見てる。
『……まぁ、ええか』
小さく笑う。
完璧じゃなくていい。
分からなくてもいい。
それでも、ここに来た。
それで、十分やろ。
メモ帳を閉じる。
胸の奥に、少しだけ静かなものが残る。
名前は、分からない。
でも──
嫌な感じじゃない。
廊下の先に、進む。
ゆっくりと。
途中で、足を止める。
窓の外。
空は、さっきより少しだけ明るくなっていた。
『……なぁ』
小さく呟く。
『ちょっとだけ、分かった気するわ』
もちろん、返事はない。
でも──
それでいい。
ここは、“今の俺”で来たかったから。
それでも、ちゃんと分かってる。
隣にいること。
見えへんだけで。
『まだ、全然やけどな』
少しだけ、笑う。
そして──
もう一歩、踏み出す。
静かな足音が、廊下に響く。
誰にも気づかれないくらい、小さく。
でも確かに。
進んでいる。
『俺、…知れたんかな。』
ぽつりと、呟く。
返事はない。
それは、分かってる。
それでも──
少しだけ、立ち止まる。
ポケットに手を入れる。
指先に触れるのは、あのノート。
“渡されてない手紙”。
取り出しかけて、やめた。
『……まだ、ええか』
小さく、笑う。
『これ、終わらせたらあかんしな』
ゆっくりと顔を上げる。
前を見る。
あの日より、少しだけ遠くまで。
『なぁ、ちぐ』
風が、吹く。
桜の花びらが、ひとひら、視界を横切った。
『俺、ちゃんとやってるで』
誰もいないはずなのに、
どこかで聞いてる気がして。
『なんて言えばいいかは、…わからへん、俺、ばかやから、』
少しだけ、息を吐く。
『それでも、逃げてへん』
一歩、踏み出す。
『せやから──』
言葉を、選ぶみたいに、少しだけ間を置いて。
風が、また吹く。
桜の花びらが、ひとひら、ゆっくりと落ちてきて──
気づけば、それを手のひらで受け止めていた。
あの日みたいに、掴み損ねることはなかった。
少しだけ、笑う。
『……ちゃんと、届いとるやろ』
返事はない。
それでも、分かってる。
俺はもう、ひとりで立ってるんやなくて──
“隣に居た時間ごと”、前に進んでる。
君みたいに、メモ帳を持ち歩く癖がついたんやで。
だから。
もう一歩、踏み出した。
終わりやなくて、
これは、続きや。
『終わらせへん』 end─────
登場人物 ぷりっつ
ちぐさ
看護士
作者 青葉菜々
参考 妹の発言
コメント
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ねぇっ、ほんとに何回泣かせればいいの……
読み終えました……。 「渡されなかった手紙」というモチーフがとても印象的で、最後までずっと胸が締めつけられていました。 特に、ぷりちゃんが医学書を開き、「ちゃんと知る」と決めた場面。あそこから、単なる追悼じゃなくて、“生きていた証を背負って歩いていく”物語になったのが、すごく良かったです。 幼馴染の距離感や、沈黙の間に流れる時間の描き方も丁寧で、読んでいる自分も隣にいるような気持ちになりました。 終わらせない、という選択——その強さと優しさ、きっとちぐにも届いてますよ。
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