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923
#魔法使い
MOCHI076
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夜明け前の海は、墨を流したように暗かった。
仁人は、甲板の舷側に両手を預けて、水平線のほうを見ていた。
眠れなかった。
船が紫の都を出てから、十日あまり。
背後で、板の軋む音がした。
振り返らなくても、誰か分かる。
半歩後ろ。いつもの距離だった。
仁人は、振り返った。
勇斗が、頭巾の影の下から、こちらを見ていた。
目が合うと、ほんの少し、眉が下がる。
確かめに来たのだ。そこにいるか。
「起こしましたか」
「いや。俺も、眠れなかった」
この人は、いつからか、こうだった。
歩くたびに、振り返る。
振り返っては、仁人がそこにいることに、安堵の息を吐く。
古都の暗渠で、船の暗い船倉で、紫の都の路地で。
それが、勇斗の癖になっていることに、仁人は、気づいていた。
自分も同じことをしている。
気づいたのは、いつだったか。
仁人もまた、足を止めるたびに、後ろを探すようになっていた。
そこに勇斗がいると知って、初めて前を向ける。
「王都は、近いですね」
「ああ。夜が明けたら、外港だ」
船の上で、二人は決めていた。
復興祭の日に、人の波に紛れて入る。
戦で亡くなった者たちを悼む祭礼だ。
遠方の村々からも人が集まる。顔を隠していても、咎められない。
仁人は、海から視線を戻した。
「怖くは、ありませんか」
「怖い」
勇斗は、あっさり言った。
「だが、お前が見たいと言った。それが、全部だ」
東の空が、わずかに白んだ。
その白に、細かな雨の粒が、ぼんやりと浮かび上がった。
船が外港に着いたのは、雨の降りだした夜明けだった。
外港は、思っていたよりも、大きな港だった。
石の埠頭に、荷揚げ用の滑車と櫓が並び、人夫たちが、雨に濡れながら声を掛け合っている。
船は白の海運のもので、船長が一枚の書付を手に、検査台へ向かった。
乗客は、列の端に並ばされた。
名を問われることは、なかった。
船長が商会の名で、一括して申し出る。
一行、十八名。
仁人と勇斗は、その十八の中の、二つに過ぎなかった。
仁人は、胸の奥で、小さく息をついた。
悲しくはなかった。むしろ、軽かった。
検査台には、二人の人間が、並んで立っていた。
片方は、赤の官吏の外套を着た男。もう片方は、白の職人組合の腕章をつけた、年配の男だった。
積荷の布が、台に広げられる。
年配の男が、月の満ち欠けを刻んだ細い尺で、布の長さを測った。
官吏は、隣で、秤に載せた重りを確かめ、帳簿に数字を書き込む。
二人は、互いの数を、声に出して読み合った。
食い違いはなかった。
箱の側面に、印が二つ押される。一つは、月。一つは、秤。
「前は、こうじゃなかった」
隣で、船乗りの一人が、小声で言った。
仁人たちを、旅慣れない客と見たのか、聞かれもしないのに話しだした。
「港ごとに升が違ってな。同じ小麦が、こっちじゃ一升、あっちじゃ一升半。揉めて、一日つぶれるなんてざらだった。それが、この冬からこうだ。白の王子様が、あっちこっちの組合に頭を下げて回って、ようやく決まったんだとさ」
仁人は、黙って頷いた。
検査台の向こうで、声が上がった。
「こんなに取られたら、うちはやっていけない」
小さな工房の主らしい、痩せた男が、官吏に詰め寄っている。
荷は、籠二つ分。
検査料は、荷の多い商会も、少ない工房も、一件ごとに同じ額がかかるらしかった。
周りの空気が、ざわついた。
追い払われるだろう、と仁人は思った。かつての黄色の国なら、そうなった。
官吏は、筆を取って、男の名と工房の名と金額を、書き留めた。
「月ごとに、まとめて上へ上げる。三年で見直すと決まっている。それまでに、声が集まれば直る」
男は、不満そうに口を引き結んだ。
けれど、引き下がった。
納得したわけではなかった。ただ、聞かれたことは、確かだった。
仁人は、その背中を見つめていた。
誰かが、ここまで考えた。
考えて、それでも足りないことを見越して、「見直し」の余地を、最初から残した。
「……いい仕組みですね」
小声で言うと、勇斗が静かに頷いた。
「白の王子というのは、柔太朗のことだろう」
「ご存知の方ですか」
「何度か、話した。……お前のことを、昔の自分に似ていると言っていた」
仁人は、少し、目を瞬いた。
会ったことのない人に、似ていると言われる。不思議な心地だった。
そして、その人の仕事が、いま目の前で、見知らぬ工房の主の声を、聞こうとしている。
荷揚げ場の脇の、雨除けの庇の下で、人夫たちが粥をすすっていた。
仁人たちも、少し離れた場所に腰を下ろした。
次の荷車が来るまで、時間がある。
王都までは、復興祭の荷を運ぶ車に、便乗させてもらう手筈になっていた。
人夫たちの話は、いやでも耳に入った。
「赤の王様は、とうとう、黒の家来じゃなくなるらしいぞ」
「条約を結んだんだと。黒の第二王子が、わざわざ王都まで出向いて」
「頭を下げたのか」
「いや、下げやしねえさ。だが、署名はした。軍を勝手に徴発しない、後継にも口を出さない。そう決まったってよ」
勇斗の手が、粥の椀を持ったまま止まった。
仁人は、黙って聞いていた。
「それとな」
別の男が、声を落とした。
黒の国から来たという、商人風の男だった。訛りに、北の抑揚がある。
「黒の宮廷じゃ、もっぱら、別の噂が流れてる。……赤の王が、黒の王子を一人、手にかけたってな」
「黒の王子? 古都で殉死した、あの」
「表向きは、そうだ。黄の若い王様と一緒に、炎の中で、最後まで古都を出なかった王子様。だが、宮廷の奥じゃ違う。邪魔になった王子を、赤の王が、混乱に紛れて、始末したんだと」
「おいおい、物騒な」
「だから、だよ。赤の王は、黒の連中に、そう思われてる。何を考えてるか分からん、と。……それでも、あの王様は、第二王子と同じ卓に着いて、条約に署名させた」
男は、肩をすくめた。
「俺には、よく分からんがね。ただ、たいした度胸だと思うよ」
庇の下に、雨の音が、しばらく満ちた。
仁人は、横を見られなかった。
見なくても、分かった。
勇斗が、椀を持つ手に、力を込めている。指の関節が、白くなっていた。
舜太は、勇斗を始末したことになっている。
二人を逃がすために流した噂の代償を、舜太が、一人で背負っている。
人夫たちが立ち去り、庇の下に、二人だけが残った。
長い沈黙のあと、勇斗が、ぽつりと言った。
「第二王子は、」
仁人は、顔を上げた。
「俺が子どもの頃、数の読み方を教えてくれた」
勇斗は、雨を見つめたまま、話しだした。
「黒の宮廷で、俺は、継ぐ資格のない王子だった。誰も、構わなかった。だが、あの人だけは、帳簿を広げて、桁を指でなぞって見せた。戦は損得だ、勘定の合わない戦は負ける、と。……人も、勘定のうちだと言った。使えるものは使え、と」
淡々とした声だった。
「第一王子は、逆だった。子馬から落ちて泣いている俺を、馬の上から見下ろして、手も貸さなかった。起きろ、起きなければそこで終わりだ、と。……泣きながら立ち上がったら、一度だけ、笑った」
勇斗は、少し、息をついた。
「俺は、二人とも怖かった。あの二人の前では、顔を上げられなかった。黄色の国へ出されると決まったときも、安堵したくらいだ」
仁人は、何も言わず、聞いていた。
話してくれている、と思った。かつて、何も話してくれなかった人が。
「その二人と」
勇斗の声が、わずかに揺れた。
「舜太は、並んで卓に着いた。捕虜だったあいつが。命乞いをして、第二王子に拾われたあいつが、今は、あの二人と、同じ高さで向き合おうとしている。……俺は、一度も、できなかったことだ」
「勇斗」
「感心した」
勇斗は、小さく笑った。
「悔しいくらいに」
仁人は、勇斗の手の上に、自分の手を重ねた。
濡れて冷たい指が、少しずつ、温まっていく。
「いつか、ちゃんと、礼を言いに行きましょう」
「……会えば、あいつに迷惑がかかる」
「だから、いつか、です」
仁人は、静かに言った。
勇斗は、しばらく黙っていた。それから、頷いた。
「ああ。いつか」
荷車が来た。復興祭のための、麦と蜜の樽を積んだ車だった。
御者の老人は、二人の顔をろくに見なかった。「乗りな」と顎で示しただけだった。
荷台に乗り込むとき、仁人は、振り返った。
雨に煙る港の向こうに、白の商船が、ゆっくりと帆を畳んでいた。
十日あまり、揺られ続けた船だった。
声を失って、背を向けて、勇斗の袖を掴んだ日のことを、思い出した。
荷車が、動き出す。
勇斗が、荷台の縁に腰を下ろした。仁人のすぐ隣に。
肩に落ちる雫が、ふと、止んだ。
勇斗が、自分の外套の端を持ち上げて、仁人の頭の上にかざしていた。
仁人は、何も言わず、その外套の下に頭を寄せた。
「あの人の国を」
仁人は、雨の向こうの道を見つめながら呟いた。
「僕は、まだ、何も知りません」
「ああ」
「知りたい、と思いました。……今、初めて」
勇斗は、答えなかった。
ただ、外套を、少しだけ、仁人のほうへ寄せた。
荷車は、雨の中を、ゆっくりと、王都へ向かって進んでいく。
コメント
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いやあ、今回も良かった…!港の検査場のシーン、白の王子(柔太朗だよな?)の仕組みがしっかり描かれてて、世界観の解像度がぐっと上がった感じがしたわ。それと勇斗が舜太に対して「感心した。悔しいくらいに」って言うところ、胸に来たな…あの二人の関係性がここへ来て深み増してる。日常のように寄り添う仁人と勇斗の距離感もたまらん。静かで染みる話だった。