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#オリジナルストーリー
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第二話 ②【消えた終電客】
会社に着いてからも、誉はほとんど使い物にならなかった。
「北松くん、大丈夫?」
隣の席の先輩にそう聞かれて、「ちょっと寝不足で」と曖昧に笑う。
本当のことなど言えるはずがない。終電で知り合ったベーシストと一緒に、頭から血を流した男を見つけて、その男が病院から消えました、などと言ったところで、まず休暇を勧められるか、病院を紹介されるかのどちらかだ。
午前中の会議では資料のページを飛ばし、昼にはコンビニで買ったおにぎりの味がしなかった。
午後、メールを返している最中にも、ふと昨夜の光景が頭をよぎる。
路地。
血。
遠ざかる人影。
——誰かいる。
シオンの声まで、妙にはっきり思い出せた。
定時を少し過ぎたところで、誉は半ば逃げるように会社を出た。
警察署へ向かう足取りは重い。
重いのに、署の前にはもう、壁にもたれて待っている男がいた。
シオンだった。
黒いパーカーにデニム、片耳だけにピアス。
朝と違って髪は整っていて、何食わぬ顔でコンビニコーヒーを飲んでいる。
「なんでいるんですか」
「来るって言ったじゃん」
「本当に来るんだ……」
「失礼だな」
「いや、あなた突然いなくなるタイプかと」
「そういうのは気分」
「会ってまだ二日目なのに、どうしてこんなに疲れるんだろう……」
「北松が真面目すぎるから」
警察署の中では、昨夜とは別の刑事が対応した。
三十代後半くらいの、くたびれたスーツの男で、名札には相良とあった。
「お二人とも、お時間取らせてすみません」
そう言いながらも、相良の視線は鋭い。
誉は椅子に座っただけで胃が痛くなった。
「まず確認ですが、昨夜、被害者と面識は?」
「ありません」と誉。
「俺もないです」とシオン。
「では、なぜ被害者があなたを追っていたと思ったんですか」
相良の問いはシオンに向く。
「駅出たあたりから何回か見たんで。目立つんですよ、ああいうコート」
「トラブルの心当たりは?」
「ゼロじゃないです」
「それは」
「ライブハウスって客も演者もいろいろいるんで」
ふわっとした答えだ。
誉は横で、もっとちゃんと答えてくれと思ったが、口には出さなかった。
相良は次に、誉へ視線を向ける。
「北松さん。あなたは、被害者がシオンさんだけでなく、ご自身も見ていたように感じたと」
「……気のせいかもしれません」
「印象で構いません」
誉は迷った。
あのときの視線は、確かに不快だった。誰かを観察するような、値踏みするような。
「……見られている感じは、ありました」
「なるほど」
相良はメモを取り、数秒黙ったあと、机の上に一枚の写真を置いた。
「今朝、病院の裏口付近の防犯カメラ映像から切り出したものです」
写真には、夜明け前のぼやけた通路が映っていた。
帽子もコートもない、ラフな格好の男が、ふらつく足取りで歩いている。顔は少し下を向いていたが、昨夜の男に間違いなかった。
「被害者は自力で出ていったように見えます。ただ——」
相良は二枚目の写真を置く。
誉の背筋が冷えた。
同じ通路の、少し後ろ。
別の人物が映っていた。フードをかぶり、顔は見えない。
だが、その人物は明らかに、被害者のあとを追っていた。
「……誰ですか、これ」
「まだ分かっていません」
相良は言った。
「問題はここからです。病院の外のカメラには、この二人が一緒に出た形跡がない」
「え?」
「被害者だけが映っていない時間帯があるんです。死角が多く、解析中ですが」
誉は写真を見つめた。
消えた終電客。
まさにその通りだった。
シオンが口を開く。
「じゃあ、病院を出たあと、どっかで合流したか、連れ去られたか」
「その可能性はあります」
「でも自分で歩いてたんですよね」
「ええ」
「ふーん……」
シオンは写真をじっと見ていた。
軽口のない横顔は、年齢より少し大人びて見える。
「ところで」
相良が言う。
「被害者の所持品から、奇妙なものが見つかりました」
机の上に、小さな透明袋が置かれた。
中には、折りたたまれたレシートの切れ端のような紙。
その紙には、乱れた文字でこう書かれていた。
『K.H. しおん 終電』
誉の呼吸が止まる。
「……K.Hって」
「あなたのイニシャルですね、北松さん」
「なんで俺の……」
「分からないから聞いてるんです」と相良は淡々と言った。
誉は頭を抱えたくなった。
知らない男の持ち物に、自分とシオンを示すような文字がある。最悪どころではない。
「俺、そんなの知らないです。ほんとに」
「分かっています。だから確認です」
「しおん、っていうのは俺だろうね」とシオンが言った。
「本名じゃないんですか」と相良。
一瞬だけ、空気が止まる。
シオンは笑った。だがその笑い方は、いつもの軽さとは少し違った。
「活動名です」
「では、本名もお聞きしていいですか」
「それ、必要ですか」
「必要です」
誉は思わずシオンを見た。
初めてだった。この男が、ほんのわずかに言い淀んだのを見たのは。
「……あとで書きます」
それだけ言って、シオンは写真から目を逸らした。