きみは二人の子供だろうと聞かされた方が呆然とする様な言葉を残して奥の取調室に些か乱暴に連行された初老の男を見送ったリオンは、この感情を処理するためにどう名付ければ良いのかがわからずに、己以上に信頼している伴侶の顔を見下ろすが、そこに見出したのは己とほぼ同じ表情で、こちらもまたどうすれば良いのか分からない顔でメガネの下から見上げてくる。
「……ドク、申し訳ないがリオンの聴取に入りたい」
「あ、ああ、申し訳ない」
呆然と視線だけで混乱ぶりを伝え合っている二人に咳払いをしたマクシミリアンがウーヴェに申し出、それに気付いて何度も頭を縦に振ったウーヴェは、とにかく聴取を受けてこい、終わるまでここで待たせてもらっているからと周囲の歓迎の雰囲気に背中を押されてリオンの肩を撫でて何やら戸惑っている様子のリオンに首を傾げるが、背中の古傷が痛むほどの強さで抱き締められて目を白黒させてしまう。
「リオン……?」
「……待っててくれ」
「ああ。この間ダニエラから依頼があった件について話をしているから大丈夫だ」
だから行ってこいとリオンの腕を微かに震えさせる感情が何であるかを察したウーヴェが安心させる様に背中を撫で、待っているから行ってこいと再度繰り返すとようやく得心がいったのか、リオンの顔が上げられる。
「……ん」
「一人にしないから安心しろ」
腕を震わせた感情、つまりリオンが素直にそうと見せない孤独への恐怖を、今この場所で、懐かしいお前のホームグラウンドでもあったここで感じなくて良いと不安げに小さく開く唇にそっとキスをしたウーヴェが周囲の視線を黙殺し、耳朶に嵌る青いピアスごと耳を撫でるとそんなウーヴェの額に額を重ねる様にリオンが顔を寄せる。
「ドク、そこでコーヒーでも飲んでいて下さい」
「ありがとう」
以前はただリオンが結婚する前のウーヴェとの関係について毎日話してうるさいぐらいだと思っていたが、結婚後の二人の様子を間近で見たのは久し振りで、変わらないことへの安堵と嫉妬に周囲にいた刑事たちの視線が険しくなる。
「ダニエラ、コールタールみたいなコーヒーをドクに出してやれよ」
「……お湯で薄めてくれないかな」
「ドクに反論の権利はない!」
マクシミリアンと共に取調室にリオンが入った直後にダニエラが無言でコーヒーメーカーの前に向かい、ヴェルナーが今にも飛び掛かりそうな顔でウーヴェを睨む。
「ヒドイな」
「目の前でイチャイチャするからよ。リアが時々愚痴る理由がわかったわ」
コールタールの一歩手前の様なコーヒーが出てくる覚悟のウーヴェの前に想像以上に普通のコーヒーが出されて安心して受け取って口を付けるが、ダニエラが呟いた言葉に最近やたらと多いが液体を喉に詰めそうになってむせ返る。
「……ぐっ!」
「ドク、大丈夫!?」
己の言葉がもたらした結果に慌てたダニエラがウーヴェの背中を撫でるが、大丈夫だと涙混じりの声で礼を言われて胸を撫で下ろす。
「あ、ああ、そうか、ダニエラはリアと出掛けたりするんだったな」
「そうよ。今度ライブがあるから行こうって言ってるのよ」
私服刑事が趣味に時間を取れることは本当に良いことだと皮肉ではない本心から伝えたウーヴェは、リオンが入った取調室のドアを見つめた後にその隣のドアを見て眉を寄せる。
今、リオンと比べられないほど厳しい取り調べを受けているだろう初老の男は何故ハイディ・クルーガーを撃ったのか、そこに殺意はあったのか、それともただ怪我をさせることが狙いだったのかなど聞かれているのだろうが、ウーヴェが今最も知りたいのは先ほどリオンに投げかけられた謝罪の言葉とその意味だった。
『きみはヴィルヘルムとハイデマリーの子供だろう』
その言葉の意味は額面通りに受け取ろうが額面の外を察しようが、リオンの親があの二人だと男が思っていたということだけだったが、驚いていたリオンの様子からもあの男と初対面であることは間違いがなかった。
その初対面の男がリオンをまるで亡霊か何かを見る様な目つきで見つめた後、脳内で想像している誰かの子供ではないかと問いかけたのだろうが、何故その二人なのだろうか。
男の呟きから生まれた疑問は荒れる川に立つ波飛沫の様に生まれては消えていくが、消えた痕跡を隠す様に次から次へと生まれてくる。
泡の様な疑問が生まれる根源はなんだとメガネの下でターコイズ色の双眸を半ば隠し、考え事の癖で手の上で万年筆を回転させているかの様に指を動かしてしまう。
疑問の発生場所を俯瞰した時、発砲事件が起きる前に考えていたノアがリオンと血縁関係があればどうだという声が脳内に響き、隠していた目を全開にしてしまう。
先日来ウーヴェがつらつらと考えていたリオンとノアの血縁関係。もしそれが本当にあるのだとすればと何度目かの思考の痕跡を辿った時、カメラを構えて笑う男の顔がスライドしたように脳内に浮かび上がる。
それは、家族写真を撮影するためにカメラを構えているヴィルヘルム・クルーガーで、カメラで目元などは隠れているが、顔全体の雰囲気などが何故か安心できると感じたことも思い出し、その理由を何となく胸の内で呟いたウーヴェの身体が雷を受けた時の様に衝撃に揺れ、咄嗟にデスクに手をついて体を支える。
「ドク?」
コーヒーを前に何やら考え込み出したウーヴェの様子を見守っていたダニエラだったが、急に痩躯がびくりと揺れて驚愕の顔でデスクに手をついたことに彼女も驚きに目を見張ってしまう。
「ダニエラ、あちらの取調室に入った彼だが……名前などは教えてもらえないかな?」
「……名前程度なら明日の新聞に出るでしょうし、ニュースでも流れるから良いかな」
ただ情報源は秘密にしてねと肩を竦める彼女に当然と頷いたウーヴェは書類をそっと差し出され、ヴェルナーもそれを見て見ぬ振りをしてくれ、その気配りに感謝しつつその書類の内容を脳裏に書き記していく。
男の名前はベンヤミン・シュペーア。ベルリン在住の工場勤務者で、家族は老人ホームに入居している母と大学に通う娘が一人。妻とは娘が幼稚園の入園前に離婚していることが書かれていたが、身体的特徴としてまず目につく右足を引きずり杖を使用していることについて、若い頃に秘密警察によって聴取を受けた際に痛めたと書かれてあり、目を瞬かせてダニエラを見ると無言で肩を竦められる。
年齢から考えて当然ながらベルリンという街が東西に分断されていた時代を知っているどころか青春の真っ只中だっただろう彼が秘密警察の取り調べを受ける様な何かをしたのかとの思いがあったが、あの当時、友人や家族でさえも信頼できないと多少の誇張を含めて聞かされたことがあったが、もしその友人や家族らが何らかの理由で当時幅を利かせていた秘密警察の取り調べを受けなければならない事件を起こしていたのだとすればと仮定し、真っ先に思い浮かんだのは亡命という単語だった。
「……彼の関係者に旧東ドイツから亡命した人がいるのかな」
「年齢を考えれば亡命した友人や知人がいてもおかしくないと思うけど、どうかしらね」
若い頃に秘密警察の取り調べを受けたことから彼の出身が旧東ドイツである事は疑う余地はなかったが、亡命関係者とみなされたのだろうかと思案し、あの時代を思えばそれが最もしっくりくる理由だと思いつつも一体何をしたんだろうと呟き、書類をデスクに置いて溜息を零す。
夕方から脳味噌をフル回転させ仮説を組み立ててきた疲労感が出てきたのか、再度溜息を零して頬づえをついたウーヴェは、リオンが入っている部屋のドアに再度目をやり、あの言葉の意味はどういう意味だろうとポツリと呟く。
「……ドク、シュペーアだけど、クルーガー夫妻の事を昔から知っているのかしら」
ヴィルヘルムに謝ってくれとの言葉はある程度の親しさがあるものの言葉のように思えた事、彼の妻を撃った後悔の言葉かしらとダニエラが刑事の顔で先程の光景を目の当たりにした疑問を口にした為、ウーヴェが彼女へと顔を向ける。
「そう思うか?」
「ええ。さっきの口振りからすると旧知の仲だった感じがするのよ」
それに、脅迫状とは関係がなさそうな気がする続け、ウーヴェが知らなかった事実に目を丸くする。
「脅迫状?」
「ええ。公表はしていなかったけど、彼女に対する脅迫状が届いていて、警部とコニーが対策を練っていたわ」
「そうだったのか」
年に一度の映画祭に脅迫状が届いていた事実は公表されておらず、警察としてはそのタイミングを図っていたのだろうが、脅迫状通りに彼女が撃たれてしまったのだと教えられ、ウーヴェが神妙な面持ちで頷く。
「でも脅迫状を送って来た犯人から犯行声明は出ていないのよ」
「それは気になるな」
脅迫した相手を予定通りに負傷させた犯人からすれば大々的に公表してこそ己の存在や行動を周囲から評価されるはずで、それを行わない理由はなんだろうと二人で思案しているが、ダニエラがポツリと呟いた言葉にウーヴェが軽く目を見張る。
「シュペーアにはリオンがクルーガー夫妻の子供に見えたのかしら」
「……」
「勝手な判断だけど、久しぶりに会った友人や知人の子供を見たって顔をしていたわね」
ダニエラの疑問にウーヴェは明確に答えることが出来ず、彼の知人の中にリオンと良く似た人達がいるのかも知れないとだけ返しコーヒーを飲み干す。
「……リオンの親、か」
ここにいる刑事たちの大半はリオンが児童福祉施設の出身である事を知っており、良くも悪くもそれがリオンの根幹を成すものである事も熟知していた。
自分の親はどんな人達だったのかという疑問を軽口という衣を纏わせて表に出すことすらしないリオンだったため、実の両親が何処の誰で何をしていた人達なのか、そして何故己を生後間もないたった一人では絶対に生きていけない頃に教会に捨てていったのかの疑問はリオンの中では解決している風を装っているが実は喉から手が出るほど希求している事であるとは意外と知られていなかった。
己の親は育ててくれたマザー・カタリーナで、兄弟姉妹は同じ施設で育ったあいつらだけだと何気なさを装って時折口にするリオンの横顔を脳裏に浮かべたウーヴェは、その言葉の奥底で握りしめた拳を振るわせて真実を教えてくれと叫ぶ小さなリオンの背中も見透かしていたため、達観した笑みを見せられた時はただ抱きしめることしか出来ないでいたのだ。
リオンが常に望み決して得ることが出来ない真実。それをもしも今取り調べを受けているシュペーアが知っているのだとすれば、ここで取り調べを受けている事実はリオンの疑問を解消しなくともそれに繋がる道を作ることになるのでは無いかと頬杖をつきながら思案してしまうと、ダニエラが申し訳なさそうに苦笑する。
「……踏み込み過ぎちゃったかしら」
「いや、そうじゃない。……彼が、ヘル・シュペーアがもしもリオンの両親について何かを知っているのなら話を聞きたいと思っただけだ」
「聴取が終われば留置場に行くけど……」
その時に聞き出せないかとダニエラが提案するものの、留置場にまでさすがに足を運べないとウーヴェが苦笑し、確かにそうだと彼女も同意する。
「ヘル・シュペーアに聞けないのならもう一方に聞いてみるのはどうだ?」
そのウーヴェの呟きは独り言のようなものだったが、夕方から組み立てては崩していた仮説に繋がるもので、どうしてもそこに繋がってしまうのならばいっそのこと飛び込んでみようと腹を括った結果だったが、ダニエラがどういうことと首を傾げて見つめてくる。
「クルーガー夫妻に話を聞けばどうだろう」
「確かにそうね」
初老の男-ヘル・シュペーアが名を上げた、ヴィルヘルムとハイデマリーとは、今回の事件の被害者のハイディ・クルーガーとその伴侶のヴィルヘルムに間違い無いだろう。シュペーアに話を聞けないのならばもう一方の当事者である夫妻に話を聞けばどうだろうとウーヴェが呟き、何とか彼らにコンタクトを取れないかと呟くと、聴取の関係でヴィルヘルム・クルーガーには署に来て貰う可能性があるが、彼女は何しろ負傷して今頃病院で手当を受けているだろうとダニエラに返されて己の思いつきが不発に終わりそうだと気付いてウーヴェが肩を落とす。
「誰か知り合いがいないかな」
肩を竦めるダニエラに同じくウーヴェが肩を竦めた時リオンがいる部屋のドアが開き、マクシミリアンが微苦笑を浮かべつつドアを開け放ったまま出てくる。
歩く几帳面と呼ばれる男がドアを開け放ったままなのは珍しいとダニエラが目を丸くするが、中からリオンがこちらを見ていることに気付きウーヴェが小首を傾げると、そこにウーヴェがいる安心感から浮かれているのか調子に乗ったのか、両手を顎の下に充ててキスを送った後に片目を閉じる。
「……」
己に向けて投げられたキスだったが気恥ずかしさと今まで考えていたことのギャップに一瞬にして疲労感を覚えたウーヴェがそのキスを受け取った事を示すように左手を顔の前で一つ振るが、顔を輝かせるリオンに見せつけるように力強く床に向けて手を振り下ろす。
「バカたれ」
「オーヴェのイジワル! トイフェル!」
デスクと取調室とで交わされる無言のそれに部屋にいた者達の口からやりきれない溜息が零れ、当人は一方が泣き真似をしてデスクに突っ伏し一方は無言で眼鏡を押し上げる。
「まったく」
「……ドク、リオンの聴取はもうすぐ終わる」
「ああ、そうか。ご苦労様」
その様子になんとも言えない顔で首を横に振ったマクシミリアンだったが、リオンが犯人の事を知りたいらしいと呟き、ダニエラがウーヴェに見せた資料と同じものを手渡してマクシミリアンが部屋に戻っていくが、ドアが閉まる寸前に見えたのはリオンがウーヴェに向けて憎たらしそうに舌を出している顔だった。
「……」
それを見たこちら側の刑事と最愛のパートナーはただ無言で溜息を吐き、早く聴取が終わらないものかと各々同じ思いを胸中で呟くのだった。
リオンが聴取を受けそれをウーヴェが待っていた頃、最寄りの病院に救急搬送されたハイデマリー・クルーガーとその救急車に同乗した彼女の夫と息子は、手当てを受けながら手術室へと運ばれていく彼女を呆然と見送っていた。
この病院の外科医は優秀なことで名前が通っていると安心させるためか真実かは不明ながらも救急隊員が教えてくれた事に一縷の望みを掛けてただ一心に彼女の手を握って祈っていたヴィルヘルムは、不安そうに母を見つめる息子に無意識に大丈夫だとも呟いていた。
そんな二人が手術室近くの待合室でぼんやりとベンチに座っていた時、警察関係者だと思われる厳めしい顔つきの男と柔和な雰囲気を持った男が待合室に入ってくる。
誰が来たとしても知人ではあり得ないために茫洋とした目を彼らに向けたヴィルヘルムだったが、その顔に見覚えがあり、目と口を見開いた後、普段虫一匹も殺すことが出来ない優しい男と友人知人から好意的にからかわれる彼が目を吊り上げて厳めしい顔つきの男の襟元を掴んで揺さぶり出す。
「何故助けてくれなかった! 犯行予告が出ているから警備を万全にすると言ったのはあなた達ではないのか!?」
脅迫状が届いている事を相談した時にあなたが言った言葉を忘れたのか、それともあれは単なる気休めなのかと、妻が負傷し手術の結果一命を取り留めてくれると願っているものの、万が一の事があればと想像するだけで不安と怒りと恐怖に足下が覚束無くなりそうなヴィルヘルムは、父が取り乱す様に呆然としている息子の前で二人の刑事を口汚く罵り、この街の警察は昔と変わっていない、事なかれ主義だと吐き捨てる。
「……お言葉ですが、事なかれ主義とは思っていただきたくありません」
ヴィルヘルムの罵詈雑言をきつく目を閉じて受け止めていた男の横、柔和な顔に厳しい色を浮かべた年下の男が顔を上げ、胸ぐらを掴んでいる手に手を添えて彼の目をまっすぐに見つめる。
「何を……!」
「保護対象者を負傷させてしまったことはどう言い訳をしようが我々の力不足でした。ただ、昔と変わっていない事なかれ主義という批判に対しては反論させて貰います」
犯行予告が出ていたにもかかわらず狙われた彼女が負傷してしまったことは紛れもない事実であり痛恨の極みだが、過去にあなたが言うような事なかれ主義が警察に蔓延していた、そしてそれは今もそうだとは思わないで欲しいと顔を上げて言い返す男に彼が尚も言い募ろうとするが、血に汚れたジャケットの裾を強い力で引っ張られたことに気付いて振り返る。
「ウィル、大きな声を出すなんてらしくない。ここに座って落ち着いて話そう」
「……ノア」
「俺も言いたいことはある。でも……刑事さん達も出来る事はしてくれたんだろう?」
今ここで大声で刑事達を罵っても母の怪我が治るわけではないと裡に怒りを込めた顔で二人の刑事を見つめるが、父の時とは違って驚きの顔で無言で見つめられて居心地の悪さを感じてベンチから立ち上がる。
「何だ?」
「……いや、知人に良く似ていると思ったのです」
「……さっきマリーを介抱してくれた彼のことか?」
それは今関係の無いことだと己の言葉を否定する男に首を傾げたノアだったが、その知人というのはリオンという名前で母を介抱していた男かとある疑念を抱きつつ問いかけ、二人の目が限界まで見開かれたことから間違っていないことを知る。
「この街に来てあちらこちらを歩いていたが、そこで知り合った農場の人にもリオンという男と間違われたな。彼はそんなに有名人なのか?」
まだ数日しか滞在していないこの街で同一人物に二人以上から似ていると言われる確率はどれぐらいだ、自分は最近確かに名前が売れ出してきているが、間違われた彼は自分を上回る有名人なのかと己の中の疑問を打ち消すように冷めた笑みを浮かべたノアに、確かに似ているが有名人では無いとこの時初めて厳しい顔つきだった男の顔に柔和な色が浮かび、彼を知っているのには理由があると教えられて先を促した彼は、先ほど彼女を介抱していたのは以前自分たちと同じ職場で働いていた男で、今は刑事を辞めて別の仕事をしていると教えられて蒼い目を瞠る。
「元刑事?」
「Ja.なので拳銃の扱いにも慣れているし、さっきのような場面で人を落ち着かせる方法も知っていました」
ただ現職時ならばその行動は賛否程度で済むだろうが刑事を辞めて一民間企業で働いている身であれを行えば色々な問題があると、厳めしい顔に微かな笑みを浮かべて男が溜息を吐いたため、彼の行為を口で咎めていても内心では違う思いを持っていると気付いたノアが溜息をリノリウムの床に落とす。
「……確かに、彼はお前に良く似ているな」
「ウィル?」
「お前と言うよりは……昔の僕に似ている気がする」
今までのやり取りをどこか遠い世界のように見ていたヴィルヘルムの呟きにノアが父の顔を覗き込み、二人の刑事が互いの顔を見合わせる。
「……彼の髪の色はマリーに似ていたし背格好も僕やノアにも似ている」
この街に縁も所縁もない自分達家族に似ているという言葉で片付けられない程似通った人がいるのか理由は不明だが、妻を介抱してくれた彼は本当に自分たちに良く似ていると呟き、足の間で頭を抱え込む。
「彼は元刑事だって?」
「Ja.私たちの同僚でした」
息子より年上で自分に良く似た男がいる理由が分からずに混乱しているヴィルヘルムの肩をノアが撫で、負傷した母を挟んで対面したリオンと言う名の己にそっくりな男の顔を思い描き、ハールと呼んでくれとぶっきら棒に告げた男の言葉も思い出す。
ヴィルヘルムとハイデマリーの子供であるノアは二人の職業を思えば珍しいと感じてしまうほど親戚付き合いが無く、彼が己が今まで一度も会った事のない親戚だと紹介されても納得してしまいそうな程似ていたが、もしもそうだとしたら何故写真の一枚、話題の一片すらなかったのか。
いや、それ以前に、どうして父が己と同じように驚いているのだろうか。
誕生日会を始めクリスマスや新年のパーティなども自宅にやってくるのは父のスタジオで働くスタッフであったり母の気心の知れた映画仲間だったりで、両親の親兄弟についての話を聞いたこともなければその影すら感じたこともなかった。
幼い頃からそれが当たり前だったために何とも思わなかったが、二人が天涯孤独でも無い限りそれが一般的なものでは無いのではないかとようやくその疑問にたどり着くが、母が暗い顔をして呟いた言葉を不意に思い出す。
『ウィルにベルリンの話をしてはダメよ』
その一言に何かノアが与り知らない暗い事実が隠れているのではと憔悴している父の横顔を無言で見つめた息子は、自分が知らない両親の過去について今まで気にしていなかったが、もしかすると何か大きな秘密があるのではと思案し、横にいる見慣れた父の顔が見ず知らずの疲労しきった初老の男の顔に見えてしまう。
己の妻が狙撃され女優生命にも文字通り命にも関わる負傷をしてしまって憔悴し切っているこの男は、生まれてこのかた疑う余地もなく父だったし、同じ道へと進んだ先では穏やかな顔で待ってくれている先輩でもあったが、本当にそれだけだろうか。
まだ己が知らない父の顔があるのでは無いかとも考えた時、何を馬鹿なことを考えている、ここにいるのは愛する妻の身を案じる優しいヴィルヘルムだと頭を左右に振ると、首の上で結んだくすんだ金髪が左右に揺れる。
父と母の過去に自分には言えない何かがあったとしても、自分にとって二人は最高の両親だったし今もそれは変わらないのだ。
父の過去についていずれ聞けるのであれば聞いてみよう、今すぐに追求しなければならないものでは無いと半ば無理矢理己を納得させたノアは、頭を広げた足の間に落として抱え込む父の背中を撫で、マリーは大丈夫だからと気休めにしかならないが今もっとも必要としているだろう言葉を何度も伝える。
「もっとセキュリティがしっかりしていれば……」
入口のセキュリティがしっかりと機能していれば犯人が持っていた銃も没収され事件は未然に防げたはずだと、事件を起こした犯人に対するものよりも警備を担っていた人達への怨嗟の思いを呟く父に何も言えなかった息子だったが、あの時もそうだった、被害者であるはずのマリーを厄介者が事件を起こすなと蔑んだ目で見つめ、相手にすらしてくれなかったと刑事を目前にして警察を詰る声にノアの蒼い目が再度見開かれる。
父の言葉に籠るのは明らかに警察への恨みだったが警官や刑事を憎んでいると思しき言動は日頃はない為に違和感を覚えたノアだったが、被害者である母を犯罪者扱いしたとう言葉が気になって父の肩を揺さぶる。
「ウィル、今の言葉はどういう意味だ?」
ノアの素朴な疑問にヴィルヘルムの顔がノロノロと上がるが、顔中に浮かぶ疑問に己が何を呟いたのかを察して憔悴し切った顔から更に血の気が引いてしまう。
「……何でもない」
「ウィル?」
「何でもないと言っただろう!」
激昂し大声を上げる父など今まで殆ど滅多に見た事がないノアはその剣幕にただ驚いて悪かったと素直に詫びるが、興奮した父は諸々の感情の捌け口を見つけたように二人の刑事を視線で殺してしまいそうなほど睨みつける。
「この街の警察は亡命してきた僕らが事件を起こした事が気に食わなくて見て見ぬ振りをした! 今もそうだ!」
だから今回も全力を尽くしますと言いながらも手を抜き、結果彼女が撃たれてしまったのだと二人の刑事に怨嗟の声をぶつけるヴィルヘルムに誰も声を掛けることが出来なかったが、再度刑事らしからぬ柔和な顔に険しい色が浮かんだ事に気付いたのか、厳めしい顔の男が制するように手を上げる。
「コニー、落ち着け」
「……」
「ヘル・クルーガー。先ほど部下が申し上げたように我々の至らないところについては後日正式に謝罪をさせて貰う。ただ、今回の事件、自分達は見て見ぬ振りをした訳ではないからその批判は甘んじて受けられないな」
あなたが昔この街の警察によって不愉快な思いをさせられたのかも知れないが、それは自分たちにとって与り知らない事だと己と部下の名誉を守るように断言すると、ヴィルヘルムが激情のままに吐き捨てた言葉が意味するところを察したように顔が青ざめ、呆然と見つめてくる視線にも気づいてこの世の終わりのような顔で刑事を、ついでノアを見つめる。
「彼女の手術が終わるまでまだ時間が掛かるでしょう。事件の時、何があったか詳しい話を聞かせて下さい」
あなたの警察批判を自分達は受けた、だから今度はあなたが事件についての聴取を受けてくれとコニーと呼ばれた刑事が二人に向けて口調だけは丁寧に申し出たため、断ることも反発することも出来ずに頷いたヴィルヘルムは、己が感情に任せて今まで封印してきた過去の一端を自ら暴露してしまった衝撃と、それを聞かされた息子の驚愕を感じ取るもののどんな類の言葉も伝える事ができないのだった。
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