テラーノベル
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この街では、朝がいちばん静かだ。
高架歩道の手すりに掌を置くと、夜のあいだに降った雨の名残が冷たく指先に染みた。眼下の車道を電動バスが濡れた路面を割って滑っていく。聞こえるのは、タイヤが薄く張った水を切る低い音だけだ。歩道には出勤する人々の流れが途切れずに続いているのに、靴音のほかには何もない。誰も口をきかないからだ。
声に出して話すのは、禁じられているわけではない。ただ、必要がない。僕たちの周囲には目に見えないほど微小なナノマシンが空気のように漂っていて、思いは声になる前に塔へ届き、塔から相手へ届く。会話は頭の中で交わされる。数百万人の言葉で満ちた街はだからこそ、驚くほど静かだった。
僕はこの静けさが好きだった。言葉がぎっしり詰まっているのに、誰の邪魔もしない静けさだ。
足を止めて、思考の塔を見上げる。
街のどこからでも見える、白灰色の巨大な柱。表面には継ぎ目ひとつなく、低い雲の朝には頂が霞に溶けて、空と地面を一本の線で縫い合わせているように見える。晴れた日にはその肌に朝日が斜めに滑り、研ぎ上げた刃のような薄い光沢が走る。見慣れているはずなのに、見るたび、少しだけ背筋が伸びた。あの中で僕は働いている。
隣を歩いていた老婦人がふと僕に会釈をした。
同時に視界の右下に淡い文字が浮かぶ。
〈今朝は冷えますね〉
《親しみ。会話の継続を望んでいる。軽度の孤独》
文字は彼女の思考そのものではない。塔が整え、僕が受け取りやすいように組み直した文章だ。その下に小さく添えられた注釈は塔が推定した感情の名前である。
僕は返事の言葉を頭に浮かべた。唇も舌も要らない。ただ、伝えたいことを静かに思えばいい。
〈ええ。手がかじかみます〉
老婦人の口もとがほころんだ。《軽度の孤独》の文字が湯気のように薄れて消える。
便利なものだと思う。子どもの頃の僕はこういう朝に何を言えばいいのかまるで分からなかったのだから。
塔の内部は外から見るよりもずっと静かだった。
十二階、翻訳監査室。壁も床も天井も吸音材を兼ねた淡い灰色の素材で覆われていて、足音さえ柔らかく吸い込まれる。窓はない。かわりに壁面全体がほのかに発光していて、時刻に合わせ朝の白から昼の黄みへ夕方の橙へとゆっくり色を変えていく。僕はその光の色で一日の進み具合を知る。
机の上には半透明の監査パネルが三枚、扇のように浮かんでいる。左には原思考の信号波形。中央には塔が生成した翻訳文。右には受け取った側の反応記録。三つを照らし合わせ、翻訳が妥当かどうかを判定する。それが僕の仕事だった。
〈おはよう篠原くん。目の下すごいぞ〉
《親しみ。からかい。軽い心配》
隣席の先輩がパネルの縁越しにこちらを見ていた。
〈昨日も遅かったので。……顔に出てますか〉
〈翻訳に出てる〉
二人で声を出さずに笑った。こういうやりとりが僕は好きだ。言葉の外側にあるものを取りこぼさずに受け取れる。かつての家では想像もできなかった種類のやわらかい世界。
僕が十歳のとき、両親は毎晩のように言い争っていた。食卓の皿が鳴る音と、閉じられるドアの音。父の沈黙が拒絶なのか疲労なのか、僕には分からなかった。母の沈黙が怒りなのか悲しみなのかも分からなかった。ただ、家の空気がいつか音を立てて割れるのではないかと息を潜めて夜を過ごしていた。
思考共有が入ってから、すべてが少しずつ変わった。父の沈黙の下には言い出せない後悔があった。母の苛立ちの底にはただ疲れ切った寂しさがあった。そうと分かってはじめて二人は互いに謝ることができた。
だから僕はこの仕事を誇りに思っている。人と人との間にある暗がりを一つずつ照らしていく仕事だと信じている。
夕刻、塔を出ると、空は薄い葡萄色に染まっていた。
駅へ向かう大通りには帰宅を急ぐ人々の流れができている。店のシャッターが次々と下り、屋台の灯りがぽつぽつと点りはじめた。通りは静かだった。靴の底が濡れた舗道を擦る音と、遠い電車の軋みだけ。言葉はすべて誰の耳も通らずに人々の頭の中を行き交っている。
僕は信号の手前で赤が青に変わるのを待っていた。
向かいの歩道に中年の男が立っていた。灰色のコートに少し擦り切れた鞄。ごく普通のどこにでもいる勤め人に見えた。男は信号を見ていなかった。視線は宙のどこかをさまよい、唇が声にならない何かの形にかすかに動いている。
僕の視界に文字が浮かんだ。
《困惑。不安。理由が分からない》
僕に向けられた思考ではない。公共の場では人々の感情は注釈の形で低い強度のまま滲み出てくる。男の不安がそれに乗って漏れているのだ。
男は急に周囲を見回した。誰かを探すように、怯えたように。
そして、その文字がふっと消えた。
僕は瞬きをした。消えたのはその一行だけではなかった。この一帯のすべての文字が同時に途絶えたのだ。老いた男も、買い物袋を提げた女も、制服姿の少女も、誰もがただ黙った顔になった。耳の奥のあの整列するような感覚が消える。街がいきなり音のない水槽に変わってしまったようだった。
さっきまでの静けさとはまるで違う。あれは満ちた静けさだった。これは空っぽの静けさだ。
信号が青に変わる。誰も動かない。
男の足もとの水たまりが波紋もないのに、きしむように歪んだ。
次の瞬間、何が起きたのかを僕は正確には覚えていない。ただ、見てはいけないものを見たという感覚だけが残った。鈍く、重く、何かが折り畳まれるような音がした。遅れて人々の悲鳴が水面を割るように街へ溢れた。何年ぶりかに聞く人間の生の声だった。
僕は動けなかった。
信号の青い光が濡れたアスファルトに長く伸びていた。
翌朝、政府は男の死を圧壊症によるものだと発表した。
公式の告知だけは今も声で読み上げられる。塔が生まれるずっと前からの名残で重要な決定は肉声で伝えるのが習わしになっている。監査室の壁面ディスプレイの中で白い制服の報道官が落ち着いた声で原稿を読んだ。環境中のナノマシンと人体の生体信号との異常な干渉による、ごくまれな神経・物質反応性疾患。予測は不可能であり、市民は過度に不安を抱く必要はない。
続いて報道官は付け加えた。
「なお、死亡した男性は社会の安定に対して重大な悪影響を与えかねない思想を抱いていたことが後の調査で確認されています」
僕は自席でその声を聞いていた。声というものは、こんなに平べったいものだっただろうか、と思いながら。
病気で死んだ人間の思想をなぜ発表するのだろう。
疑問ははっきりした形になる前に沈んでいった。僕は監査パネルを開き、男の最終思考記録を呼び出した。本人が亡くなっていても、監査権限があれば遡って確認できる。
波形が展開する。男の名前は笹岡達夫。四十八歳、物流会社の事務職。記録の最後の数分間はあの大通りでのものだ。
そこには暴力への願望も社会への敵意もなかった。
信号を見ている。自分の足がなぜか動かない。誰かに呼ばれたような気がした。違う、通信がおかしい。胸のあたりが冷える。
そんな、とりとめのない断片が並んでいるだけだった。恐れ。戸惑い。そして最後に一行だけ。
〈なにが起きている?〉
僕は画面の前で長く動けなかった。
監査システムが控えめな通知音とともに結果を返してくる。《翻訳に問題なし。記録に異常なし》。
僕は画面の隅の通信ログをもう一度見つめた。笹岡が亡くなる四秒前、あの一帯の通信が途切れている。僕の視界から文字が消えた、あの数秒。
偶然だったと思おうとした。僕は疲れているのだ。理解が足りないだけなのだ。そう考えるほうがずっと楽だった。
僕は調査画面を閉じた。
ただ、窓のない壁の淡い光がその日はいつもより冷たく見えた。
コメント
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わあ、繭ネさんの世界観、すごく好きです…!😭💕 思考が声にならない静けさと、“空っぽの静けさ”の対比がもうエモすぎる…。翻訳監査官って仕事の設定も新鮮で、笹岡さんの死と“異常なし”のギャップにゾクッときました。何が起きてるんだろう、続きが気になりすぎる!!🙏✨