テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
廊下に出た途端、ソーレンは舌打ちをひとつ喉の奥で噛み殺した。
(ったく、あの野郎──
俺をパシリに使いやがって)
視線だけが、金縁の案内板をかすめる。
壁に掛けられた小さなプレートに刻まれた〝RESTROOMS〟の白い文字が
シャンデリアの光を鈍く返していた。
金と白と、磨かれた空気だけで構成された
上等な廊下の風景。
(レストルームは、あっちか。
……時也がいりゃ、読心術で一発なんだがな)
思考は、そこで一度、わずかに息継ぎをする。
(けど、この人数と規模じゃ
あいつでも息切れするか──)
足音はあくまで静かに。
だが、歩幅は狭めない。
厚みのある絨毯が、体重と筋肉の重さを
沈黙の底へとさらりと呑み込んでいく。
(会場横に宴会キッチンがあるだろうが──
小規模なら、そこで混ぜりゃ足りる。
だが、今夜の人数と提供スピードじゃ
その線は薄い。
キッチンのドリンクステーションも
あの様子じゃ〝飾り棚〟が関の山だろ)
眉間に、僅かな皺が刻まれる。
額の奥で、先程まで眺めていたフロアの図が
線と矢印に組み替えられていく。
(となりゃ、ホテル全体か
各フロアの酒を管理してるストック室……
その辺りを押さえるのが無難ってとこか)
護衛としてここにいる自分が
どこまで動けば〝不審〟になるか──
その境界線も、同時に計算する。
(とはいえ
護衛でもウロウロすりゃ
それはそれで目立つ。
金持ち連中は
〝空気を乱す影〟には敏ぇからな……)
思考がそこまで辿り着いた時
視界の端で、白い光が瞬いた。
非常口を示す、緑のピクトグラム。
矢印と階段の図が、壁の隅で控えめに
しかし確実にこちらを誘っている。
(……しゃーねぇ。
なら、〝外〟からスタッフの動線を見て
位置を特定すっか)
ソーレンは足を止めないまま
肩だけをわずかに振った。
ささやかな角度の変化だけで
進路は滑らかに非常口へと切り替わる。
銀色のノブに手を掛け
躊躇いのない力で押し下げた。
重いドアが
油の抜けた蝶番を軋ませて開いていく。
──空気が、裏返る。
香水とワインと焼けた肉の匂いが支配していた
廊下の気配が──
一枚の扉を境に
コンクリートと消毒液と鉄錆の匂いへと
くるりと反転した。
そこに、ほんのわずかに混じる
金属にも似た──甘さ。
ソーレンの鼻腔に
その馴染み深い香りが、棘を立てて刺さる。
(──……?)
一拍だけ、呼吸が浅くなる。
(血の、匂いがしやがる)
階段室には、人の気配はない。
ざらついた塗装が
非常灯の白光を鈍く吸い込み
上と下へ延びる鉄の手すりが
無言でこちらを見返しているだけ。
ソーレンは顎を僅かに上げて
上階の闇を一度測る。
すぐに視線を落とし
香りの濃さが集まっている方──
下へと視線を落とした。
(上は後回しだな。
……まずは、こっちからだ)
一段目を踏みしめた瞬間
靴底に伝わる感触が変わる。
絨毯のない素のコンクリートは
その冷たさを骨の奥まで静かに伝えてきた。
数段降りたところで、空気の密度が変化する。
「……うぇ。なんじゃこりゃ?」
踊り場の隅──
非常灯の下、影が沈殿する場所。
そこに、人の形をした塊がふたつ
折り重なるように横たわっていた。
男と女。
どちらも夜会用の正装を
纏っているはずなのに
生地は血と皺で原型を失いつつある。
煌びやかだった筈の
布の波間に漂う真珠の飾り
それだけが、場違いに上品な光を残していた。
ソーレンは眉ひとつ動かさず、膝を折る。
片手を階段のコンクリートに着き
もう片方の手で、上になっている身体の肩を
骨の動きだけで仰向けに転がした。
(……死んで
まだそんな時間は経ってねぇな)
押し当てた指先に、熱の余韻が僅かに残る。
(体温が、抜けきっちゃいねぇし
血も完全には乾いちゃいねぇ⋯⋯)
顔を見た瞬間
鼻先で呼吸が一度、ひっそりと止まる。
「石で削ったみてぇに
顔の肉が剥ぎ取られてんな……。
生きながらやるたぁ
えらく〝趣味がいい〟ぜ」
頬骨のラインが、生々しく露出している。
眼窩の周りの皮膚は、不規則に欠けていた。
刃物で切り裂いた整った線ではない。
無造作に削ったような、荒々しい剥離。
かろうじて端に残っている唇の形から
ついさっきまで
社交界向けの笑みを貼り付けていた女の顔が
かすかに想像できた。
(⋯⋯?肉片が──まったく落ちてねぇ。
戦利品として持ち帰るタイプの変態か?)
観察する琥珀の瞳に映った隣の男の腹部では
シャツのボタンが弾け飛び
ベストが裂けている。
布の隙間から覗く腹は
贅肉を蓄えた柔らかな膨らみ──だった筈が
内側から無理矢理押し広げられたように
歪んだ亀裂を刻んでいた。
「お前ら
そんな殺され方するくらい恨まれてたんか?
……は。
豚みてぇに〝食い過ぎ〟っから
動きも鈍んだよ」
低く呟きながら、腹を指先で軽く突く。
沈み込むだけの肉が、何も返さない。
脂と血と冷たさだけが
皮膚の上に鈍く残った。
「〝何をどこまで食ったら〟──
そんな腹になんだよ?マジで豚だな」
踊り場に、声が低く反響する。
非常灯の淡い光が、頬から剥がれた肉と
乾きかけの血で湿った光沢を与えていた。
鉄の手すりの影が、二人の死体の上で
まるで格子のように重なっている。
(ま、金持ち連中の考えや
いざこざなんざ──
俺にはわかんねぇしな)
ソーレンは立ち上がる。
膝の皺を伸ばすように自然な動きで
ズボンについた埃を払うことも忘れない。
(今は──〝こんなこと〟してる場合じゃねぇ)
視線は、一瞬だけ死体から離れ
上階へ続く闇の方へと滑った。
(……とはいえ、こいつらも、
〝使い道〟が全くねぇ訳でもねぇか)
踊り場に放置されたふたつの死体を
ひとつの風景として見下ろす。
血の匂いが
階段室の隅々にまで薄く行き渡りはじめていた。
(スタッフを〝引き寄せる餌〟くらいには──
なりそうだな)
鼻から静かに息を吐き、踵を返す。
階段を上へ向かって登りながら
血の匂いと夜会の香りが時折入り混じる
この狭いコンクリートの箱の温度を
もう一度確かめるように呼吸を整えた。
上へ、さらに上へ──
非常階段の手すりは、上階へ行くほどに
ひんやりとした冷たさを増していく。
壁に埋め込まれた細い小窓の外側で
街の灯りが、離れた星々のように
細い線を引いて流れた。
(屋上に出りゃ、建物全体の息遣いが見える。
スタッフの動線も──
〝どこで何が混ぜられてるか〟の
匂いくらいは、掴める)
息は乱れない。
ただ
階段を踏み上がる足取りに宿る重さには
靴底がコンクリートを押し込むたび
その苛立ちが淡く響くようだった。
あの〝優雅な怪物〟の命令に
背くつもりはない。
それはそれとして──
(終わったら、あの野郎のツラ⋯⋯
ちょっとは歪ませてやんねぇとな)
最後の段を踏みしめ、ソーレンは顔を上げる。
目前に
屋上へ続く重い扉が静かに口を閉ざしていた。
金属の取っ手に手をかける。
汗ばむことのない掌が
冷えた鉄の温度をじわりと握り込む。
その背後で
下層から立ち上る血と香水の匂いが
ひとつの濁った潮のように
彼の背骨を静かになぞり上げていった。
(……はぁ。
かったりぃ空気が、いくらかマシだな)
ドアを押し開けた瞬間
胸いっぱいに入り込んできたのは
血と香水と肉の澱んだ匂いではなく──
夜の、薄く冷えた風だった。
屋上は、拍子抜けするほど静かだった。
磨かれてもいなければ飾られてもいない
素っ気ないコンクリートの床と
腰の高さほどの手すり。
その向こうには、黒い空と
街の灯りが散らした星屑のような光の海が
どこまでも無言で広がっている。
下層から押し寄せていたざわめきは
ここまで来るとすっかり薄膜になって
遠い劇場の残響のように
耳の奥でくぐもった揺らぎだけを残していた。
ソーレンは胸の内ポケットへ指を滑り込ませ
煙草の紙箱を取り出した。
指先でリズムを刻むように叩きながら軽く振り
一本を抜き取る。
唇に咥え、指と掌を風からの
ささやかな盾にしながら火を点けた。
フッ、と火が揺れ、橙色の小さな円が
闇の中で静かに膨らむ。
最初の一吸いで肺の奥へと落ちていく熱が
先程まで鼻にこびりついていた血の匂いを
じわじわと追い出していく。
(やっと吸えたわ⋯⋯。
あのクソ野郎の相手をしてると
肺ん中まで妙な匂いが残るからな)
細く吐き出された煙が、夜風にちぎられ
分解されながら空へと溶けていく。
ソーレンは、煙草を指に挟んだまま
手すりへと歩み寄った。
コンクリートの縁に片足をかけ
足裏と手すりとの距離を
おおよそで測るように一度視線を落とし
そのまま街の光の方向へと滑らせる。
(……さて。仕事すっか)
何でもない動作の続きのように
手すりに片手を置いた。
ざらついた金属の感触が
掌の皮膚と骨の芯にまっすぐ伝わる。
彼は、そのまま手すりを──跨いだ。
その瞬間、耳鳴りのような静寂が
身体の芯を細く貫いていった。
世界にかかっていた重力の向きが
気配だけを残して静かに軋んでいく。
足の裏へ掛かっていた重さが
じわりと踵から爪先へ移動し──
次いで、今度は胸の方へと滑っていくような
目には見えないゆるやかな傾斜。
地面が傾いたのではない。
ソーレンの中の〝下〟が
そっと書き換えられたのだ。
常ならば
奈落へ落ちていくはずの空間へ向かって
一歩。
コンクリートの外壁が、真下ではなく
〝足元〟としてそこに在る。
靴底が、垂直だったはずの壁を
確かな〝床〟として捉える。
体重がゆっくりと移り、膝と足首の角度が
新しい〝重さ〟に黙って順応していく。
ふわり、と腹の底が浮くような感覚は
一瞬だけ。
次の瞬間には、ソーレンの身体は
ホテルの壁に対して垂直に
きちんと〝立って〟いた──
風が、今度は横合いからではなく
〝頭上〟から吹き付ける。
屋上で感じていた風と同じ冷たさなのに
向きが変わるだけで、肌の上を滑る速度も
音の聞こえ方も、微妙に違っていた。
屋上の縁は
今や彼の背後に張り付く〝段差〟に過ぎない。
「……ったく。
どいつもこいつも、俺を便利屋扱いしやがって」
小さく呟いて、煙草を指先で弾く。
火のついた先端が
ホテルの外壁に沿って
ゆるやかに灰を零しながら
夜気の中へ小さな光の粒を落としていった。
ソーレンは、一歩
外壁の〝廊下〟を、歩き始める。
足を出すたびに
靴底とコンクリートの摩擦音が
本来なら縦に伸びているはずの壁を
〝床〟として世界に固定し直していく。
重力に従っていたはずの塵の粒が
彼の周囲だけ
どこか迷子のような軌跡を描いた。
ソーレンの視線は、斜め下へと落ちていく。
ガラス張りの宴会場が
いまや〝足元〟に開いていた。
巨大な水槽のような空間の中で
シャンデリアが逆さの星座のように吊られ
床に広がる人影もまた、ソーレンにとっては
緩やかに傾いた劇場の群像に過ぎない。
煌びやかなテーブルクロスの白さ
グラスの反射、ドレスの裾の揺れが
すべてひと続きの煌めきとなって
足元の硝子越しに蠢いている。
(あれがさっきまでいた、地獄の主舞台──)
シャンデリアの光を受けて
スタッフの黒いジャケットが忙しなく行き交う。
客と客の間を縫うように、銀盆が滑っていく。
(スタッフの動きは……)
さらに数歩、壁を伝って進むと
窓から漏れる光の質が変わった。
宴会場の暖色の光から
白く冷たい蛍光灯の帯へ。
厨房か、それに隣接したバックヤード──
仕事のための光。
小さな窓の向こうで
白いシェフ帽子が横切る。
ステンレスの台に反射した光が
刃物のような線になってちらりと揺れた。
その脇を、黒いベスト姿のスタッフが
忙しなく往復している。
トレイや皿を抱え
一定のリズムで行き来するその動き。
だが、その出入りだけで
このホテルの胃袋を支えているには
いささか細すぎる流れだった。
(……こっちは〝見せる用〟のキッチンだな。
ドリンクステーションも
今夜の規模を捌くにしちゃ──ハズレだ)
再び歩んでいたソーレンは立ち止まり
壁という名の〝床〟に片膝をついた。
煙草を咥え直し、身体をわずかに屈めて
硝子越しに室内の動線を観察する。
宴会フロアより一段下の階。
そこには煌びやかな客の姿はなく
スタッフたちだけが忙しなく動き回っていた。
ときおり、四角い光が口を開ける。
貨物用エレベーターの扉か
搬入用のシャッターか──
そこから押し出されるように
金属ラックや台車が現れ
ケースや箱を載せたまま
別の闇へと飲み込まれていく。
(……あの高さ。動きの量。台車の積み方──)
台車に積まれた箱の角が
蛍光灯の白さを鈍く反射する。
ラベルの色、ケースのサイズ
動きに伴う重さの揺れ。
(あそこらへんが
酒を含めたストックの主動線、ってとこか)
ソーレンは、煙草の先端を軽く払った。
灰が、夜気の中へ細い尾を引いて落ちていく。
(搬入口、ストック階、宴会キッチン──)
建物の内側に通された
その細い線たちが、頭の中で繋がっていく。
(見る角度を変えりゃ──
建物ん中が、血管みてぇに繋がって見える)
ソーレンは、小さく鼻で笑った。
重力の向きがどう変わろうと
世界の〝流れ〟そのものは変わらない。
ただ、見下ろす角度さえ変えれば
人間たちの作った動線の浅さや
欲望の通り道まで
くっきりと浮かび上がるだけだ。
(時也の読心術とは
また別の〝見え方〟ってやつだな)
壁の上に真っ直ぐに立ったまま
彼は再び歩を進める。
一歩ごとに
フロアの用途と光の色が
少しずつ変わっていく。
柔らかな照明と
テーブルランプのある階は客室。
均一な白光で影の薄い階は
会議室や事務エリア。
窓もろくにない、薄暗い帯は
バックヤードと設備層──
その一つひとつを
ソーレンは足裏と視線で確かめるように
通り過ぎていった。
(……いい加減、目星はついたな)
ふ、と足を止める。
煙草を最後にひと吸いし
肺の底に落とし込んだ煙を、今度は真下──
本来ならば〝奈落の底〟に向かって
ゆっくりと吐き出した。
白い煙は、重力に従うことを忘れたように
夜風に攫われながら斜めへと流れていく。
「よし」
短く一言──
ただそれだけを落とし
ソーレンは踵を返した。
重力のベクトルを、もう一度、静かに捻る。
足元だった外壁が再び〝垂直〟に立ち上がり
屋上の縁が〝足場〟へと切り替わっていく。
彼は、何事もなかったかのように手すりを掴み
壁から屋上へと身体を引き上げた。
コンクリートを踏みしめた足が
ようやく〝常識〟の重さを取り戻す。
(場所はだいたい、掴んだ。
あとは──中だ。
中身と、混ぜてる奴のツラを知っとかねぇと)
まだ半分ほど燃え残っていた煙草を指で潰し
ソーレンは、屋上のコンクリートへと
それを無造作に落とし、踵を擦り付けた。
小さな火が、音もなく消える。
そして、再び非常口のドアへと向き直る。
夜風が、彼の後ろ姿を押すでも引くでもなく
ただ黙って通り過ぎていく──
今から向かう
分厚いカーテンに覆われた舞台裏と
後ろ姿に残す
星辰のベルベットの天井との境目を
見えない指先で確かめるように
薄く撫でていった。