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心海の底に沈む少女 川井心那。それが、この世に生を受けた彼女に与えられた名だった。しかし、彼女が他者と決定的に異なっていたのは、その身に宿る異能力――「心海の底」の存在だった。それは、まるで深海の底を覗き込むように、人の心の奥底、普段は意識されることのない深層心理までも読み取り、感じ取ることができるという、幼い彼女にはあまりにも強すぎる力だった。幼い頃から、まるで濁流のように押し寄せる他者の感情の奔流は、まだ自我の確立していない心那の幼い心を浸食し、彼女は中学生になる頃には、人間という存在そのものに深く根ざした不信感を抱くようになっていた。 しかし、皮肉な運命のいたずらか、あるいは前世からの魂の輝きか、心那は神に愛されたとしか思えないほどに高い知能を持っていた。それは、他者の感情を理解する上で役立っただけでなく、本能的に周囲に溶け込むための術を彼女に授けた。まるでカメレオンが周囲の色を変えるように、心那は無意識のうちに自分の言動を周囲に合わせ、誰にもその内なる苦悩を悟られることなく、完璧な虚飾の仮面を被って生きてきた。異能力については、まだ幼く、その強大さを持て余し、理解することも制御することもできなかった。心の壁を築こうとすればするほど、他者の感情は容赦なく彼女の心の隙間から流れ込み、彼女を苛んだ。人混みは、彼女にとって無数の悲鳴と欲望が渦巻く地獄絵図だったが、それを周囲に悟られないよう、彼女は常に明るく振る舞い続け、その小さな胸には、誰にも打ち明けられない秘密と苦痛が深く沈殿していった。 異能力が、ようやく彼女の意のままに制御できるようになり始めたのは、中学生になった頃のことだった。それは、まるで長年扱えなかった古の楽器が、ふとした瞬間に音を奏で始めたかのような、静かで、しかし確かな変化だった。時折、彼女の脳裏には、前世の記憶が鮮やかに蘇ることがあった。そこでは、彼女は望むものを全て手に入れ、何の苦労もなく、ただ才能を謳歌する人生を送っていた。その記憶が、この過酷な現実を生き抜くための術を、無意識のうちに彼女に教えていたのかもしれない。まるで暗闇の中で微かな光を頼りに進むように、心那は前世の記憶という羅針盤を頼りに、この世界で生きるための術を学び取っていった。 探偵社という、奇妙な肩書きを持つ人々の集団に身を置くことになったのは、彼女が長く身を寄せていた孤児院での出来事が、決定的な引き金となった。そこは、血の繋がりはないながらも、共に苦楽を共にした者たちの、ささやかな 공동体だった。その中で、ただ一人、心那が心の奥底から信頼し、何の打算もなく心を通わせることができた同い年の孤児が、ある日忽然と姿を消してしまったのだ。まるで砂の城が波に攫われるように、その日を境に、心那の中でかろうじて繋がっていた他人への信頼の糸は、何の抵抗もできずに、ぷつりと音を立てて切れてしまった。しばらくの間、彼女は気丈に振る舞おうとしたものの、心の奥底に空いた巨大な空洞は埋めようもなく、彼女の精神は徐々に蝕まれていった。そして、ついに限界を迎えた心那は、誰にも何も告げず、夜の闇に紛れて孤児院を後にした。 あてもなく彷徨う心那の前に、まるで運命の悪戯のように、一人の奇妙な男が現れた。太宰治と名乗るその男は、飄々とした、どこか掴みどころのない雰囲気を纏っていた。「困っているなら、君のような聡明そうな少女に、ちょうど良い就職先を紹介してあげよう」と、まるで道端の花でも勧めるかのような軽い口調で言った。人を信じることをとうに諦めていた心那は、警戒しながらも、本能的に彼の心の内を探ろうとした。すると、彼女の意識に流れ込んできたのは、自殺、心中、美しい女性といった、常軌を逸した言葉の羅列だった。その騒がしさに辟易としながらも、心の奥底には、微かに、しかし確かに、他者を助けたいという、純粋な願いが揺らめいているのを心那は感じ取った。その表層と深層のあまりの落差に、心那は奇妙な興味を抱き、この掴めない男について行くことを、半ば成り行きで決めた。 太宰に連れられて辿り着いたのは、「武装探偵社」という、古風ながらもどこか風格のある看板を掲げた建物だった。薄暗い廊下を進むと、雑然としながらも活気のある一室に通され、そこには、太宰を含めて四人の人間がいた。それぞれの紹介を受けるため、会議室のような、大きな机が置かれた一室に通された。そこで紹介されたのは、太宰治、泉鏡花という、どこか陰のある少女、眼鏡をかけた几帳面そうな男、国木田独歩、そして、屈託のない笑顔が印象的な青年、宮沢賢治という面々だった。他の社員は皆、何らかの任務で不在らしい。 社長への挨拶に向かう直前、突如として、けたたましいサイレンの音と共に、探偵社内に緊張が走った。なんと、武装した男が探偵社の中央に立てこもり、爆弾を仕掛けたというのだ。混乱の中、成り行きで、心那は探偵社員の一員として、犯人の説得を任されることになった。しかし、彼女の異能力は、犯人の焦燥と狂気を鮮明に映し出すだけでなく、その奥底に隠された意図、そしてこれが自分に対する入社試験であり、爆弾が実際にはただの張り子の虎であるという事実までも、鮮やかに読み取ってしまった。 一瞬の思考の後、心那は最善の行動に出た。偽物とはいえ、爆弾を抱え込み、身を挺して周囲を守る姿勢を示したのだ。それは、計算された行動であると同時に、彼女の中に眠る、他者を守りたいという微かな願いの表れでもあった。その瞬間、奥の部屋から、威厳のある佇まいの社長、福沢諭吉が現れ、静かに、しかし力強く彼女に合格を告げた。 騒動が収まると、任務に出ていた残りの探偵社員たちが、次々と探偵社に戻ってきた。最初に姿を現したのは、鮮やかな紅色の着物を纏い、どこか豪胆な雰囲気を漂わせる女性、与謝野晶子だった。続いて現れた江戸川乱歩という少年は、まるで全てを見透かすような鋭い眼光で、新入りである心那を一瞥した。そして、心那が言葉を失ったのは、その次だった。そこに立っていたのは、まさか、孤児院から忽然と姿を消してしまった、中島敦その人だったのだ。「敦…!」心那は、思わず彼の名を呟いた。 驚愕する心那に気づき、敦の方から、優しい眼差しを向けて声をかけてきた。「心那…どうして、ここに?」 その言葉に、隣に立っていた乱歩が、まるで高性能のコンピュータのように、心の中で高速で推理を始めたのを心那は感じ取った。それを遮るように、彼女は周囲に説明を始めた。もちろん、孤児院での辛い過去は曖昧にし、太宰に拾われた経緯から、探偵社での出来事までを、巧みな話術で語った。 説明が終わると、話題は自然と、探偵社の人間にとって最も関心のある事柄、異能力へと移った。「君は、何か異能を持っているのかい?」と、探るような視線を向けられ、心那は一瞬躊躇した。もしここで異能力を明かせば、探偵社での生活は、間違いなく楽になるだろう。しかし、同時に、彼女の秘密を知った人間が増えることによる面倒事も、容易に想像できた。わずかな逡巡の後、彼女は静かに「いいえ」と答えた。 だが、その場の空気を読むという概念を持ち合わせていないかのような男、江戸川乱歩が、こともなげに、しかし確信を持って言った。「彼女には異能があるよ。『心を読む』異能だ」 その一言で、周囲の視線が一斉に、まるでスポットライトのように心那に注がれた。言い訳は無駄だと悟った彼女は、観念して、これまでの孤児院での孤独な日々、そして誰にも打ち明けられなかった異能力のことを、静かに語り始めた。 心那の説明を聞き終えた探偵社の面々は、驚きと、そして何よりも彼女の境遇への深い理解を示し、口々に彼女を歓迎し、異能力の制御方法を教えたいと言ってくれた。そして、何よりも心那にとって嬉しかったのは、いなくなってしまったと思っていた敦と、再び言葉を交わし、共に笑い合い、心を通わせることができるようになったことだった。心海の底に沈み、孤独に苛まれてきた少女は、ようやく、温かい光に包まれ、安堵の息をついた。彼女の新たな物語は、今、始まったばかりだった。