澪ちゃんは幸せ者よね。
___何で? 1度だけそう聞き返した事がある。
すると昇くんのお母さんは嬉しそうに目を細めた。
「だって昇がいるやんか。昇といれば澪ちゃんはずっと安泰やよ」
関西で暮らしていた小学生の時。
私の両親はテレビ局に勤めている。カレンダー通りの休みは稀で、朝方帰って来る事や何日も家を空ける事はザラだった。
休日家族と出掛ける事はおろか、家族と一緒に食卓を囲む事も少なかった私を気にかけてくれたのが、昇くんの家族だった。
昇くんの家族には本当に何度も助けられた。
小学3年生の時に昇くんは中学に上がり、昴くんが小学生になったのは私が小学5年生の時だと言うのに両親の代わりに参観に来てくれたし、 体調を崩せば看病もしてくれた。
だから両親も、昇くんの家族には頭が上がらない。
「いつもいつも本当にありがとうございます」と何度も頭を下げるお母さんを前に、昇くんのお母さんは笑みをたたえながら昇くんの頭を撫でた。
「いいんよ。昇も好きでやってるんやから」
子供の頃から身長が高かった昇くんは、その整った顔に笑みを広げた。 __それは中学生にしては大人びた、そして昇くんのお母さんによく似ていた。
「おばさん。お礼とか別に大丈夫ですよ。この状態がいつまでも続くんなら」
…小学生ながら、違和感を覚えた。
それじゃまるで私は______…。 しかし昇くんのお母さんは より一層笑みを深くして頷いた。
「そうやね。昇は優秀やから、澪ちゃんも安泰やね
澪ちゃんは幸せ者やね」
「澪ちゃんは幸せ者やね」
__その言葉が小学生時代の記憶を呼び覚まし、再び現実へと連れ戻した。
台所から紅茶の香りが漂って来る。 …女性に人気のシリーズの、春限定の新作だ。
オンライン限定販売で、すぐに売り切れるが、昇くんなら労せず入手出来るんだろう。
その茶葉に、昇くんのお母さんが鼻歌を歌いながらポットのお湯を注ぐ。
相原 澪
目の前に、限定の紅茶が置かれる。 綺麗な桜色だ。
………孝太くんのお姉さんが、一度でいいからこのシリーズを飲んでみたいと言って……
そちらに向かいかけていた意識が引き戻された。
昇くんのお母さんは向かいに腰掛けると、すぐにカップを傾けた。
相原 澪
相原 澪
相原 澪
限定の紅茶は全く味を感じられなかった。
昇くんのお母さんから逃げるように、「散歩に行く」と言って抜け出した。
相原 澪
何もかも昔のまま、と言うわけではなく、街並みは私の記憶と若干の差違がある。
それでも懐かしむ気持ちの方が大きい。昇くんの家族と過ごした思い出がほとんどだ。
相原 澪
どうも駄目だ。 昇くんと話をつけると言ったものの、ここにいると弱い自分に戻ってしまう。
その事も、私を「向こう」に繋ぎ止める理由に含まれるのかもしれない___…
昔から考え事がある時はこの大きな公園に来ていた。 ぼんやりと公園内の遊歩道を歩いていると、同年代の女性に声をかけられた。
当然だが関西訛りだ。
相原 澪
名前を聞いて、目の前の女性について思い当たった。
中学の同級生だ。
そして私の意識は再び中学時代に引き込まれる____…
中学に上がっても、昇くんの家族にお世話になった。
特に昇くんには。
何度か校門に、忘れ物だとか傘だとかを高校2年生の昇くんが届けに来た事もある。
本当によく気の効く、頭の回転が早い、お兄ちゃんのような存在だった。
ただ一方で。
いわゆる思春期の、自立を意識する年代だった中で 「いつまでも年上の人に世話されている」と言う状況は
ほんの少しだけ心にモヤを作った。
中学1年の委員会は、図書委員に入った。
蒼陽高校のような進学校ではないので、図書室に足を運ぶ人は少ない。 当番と言っても ほとんど手持ちぶさた。
その当番で一緒になったサエちゃんは、熱心に英単語帳を覗き込んでいた。
英語のテストでもあるのかと聞くと、「将来CAになりたいから英語の勉強を頑張る」と返って来た。
将来。
その単語は頭の奥までガンガンと震わせながら、私の中に居座り続けた。
将来。 将来。私は?私の将来って
「澪ちゃんは昇といれば安泰や」
私。私の将来。私の………私って
不意に黙り込んだ私を、サエちゃんは違う意味で解釈したらしい。大袈裟に肩を竦めた。
「まっ、私はたぶんCAなれへんと思うけどさ。だって狭き門やし。私アホやし。だからあんま本気じゃないって言うかさ
でも澪ちゃんはいいよな
イケメンで賢い幼なじみいるやん。将来約束されたような物(もん)やで」
相原 澪
相原 澪
相原 澪
相原 澪
相原 澪
だから私は関西を離れた。
広い世界を知りたいと、かねてからお父さんは関東に異動願いを出していた。なら家族全員で引っ越した方が不便も無いのでは、と言う意見になった。
中学1年の終わり頃、ほとんど衝動的に私はその話に乗った。
昇くんのお母さんは困惑してた。「安泰」が呪文のように繰り出されたが、不思議とそれを聞くたびに引っ越しの思いは強くなって行った。
昇くんは
いつものように人当たりの良い笑みを浮かべて、YESともNOとも言わなかった。
それでも昇くんが何か言えば、弱いあの頃の弱い意志など簡単に揺らぎそうで
孤独を埋めてくれた、いつも私を助けてくれた、お兄ちゃんのような存在だったのに、私からの引っ越しの挨拶は自分でも分かるほど素っ気無かった。
あの時はそんな自分に戸惑った物だが、今なら分かる。
引っ越しの前日。 昇くんから電話があった。
「ほんまは本心じゃないんやろ。ちょっと冒険したくて頷いてるだけやろ」
普段の昇くんとは程遠い、冷たい声音に受話器を持つ手が震えた。全身の毛が粟立った。
でもそれ以上に
「今なら間に合う。引っ越しは嫌やって言(ゆ)うんや。俺が説得したる」
こちらの心情を余さず汲み取る、 何も考えずに頷いてしまいそうになる物言い、
頼もしいと思って来たそれらが、あの瞬間どうしようもなく、
「澪も引っ越す事無いやんか。関西圏を離れる事が、
俺から離れる事がどんだけの事か、澪は分かってない
俺と居れば澪は安泰なんや」
どうしようもなく腹が立った。
「やめてっ 私は——
——あの時はそんな自分に戸惑った物だが、今なら分かる。
せっかく懐かしい同級生に会ったのに、適当に切り上げて帰って来た。
後で謝ろう。
_昇くんは今日は仕事に出ている。
夕飯時には帰ってくるだろう。
相原 澪
関西を離れて、環境の違い、言葉の違いに悩まされた。
衝動的に引っ越した代償。自分の浅はかさと、戻ってしまおうかと本気で思ってしまった意志の弱さが憎らしかった。
_のぞみと出会い、なごみさんと出会った。
なごみさんが通っていた大学の、料理系のサークルの手伝いで、何度か台所に立つうちに料理の楽しさに気づいた。
フードコーディネーター。なごみさんに聞くまで知らなかった単語だが、関西と離れた地で目標を見つける事が出来た。
「昇くんといる」以外の選択肢。 「私が」魅力的だと思った選択肢。
だから真剣に考えて、選んで、私は高校も大学もこの地にした。
その選択に後悔はして無い。間違ってるとも思えない。
その後もたくさんの人と出会って
大切な人が出来て
今の私が在るんだから。
高山 昇
だから衝動的な行いの代償を
私が選んだ選択肢を
払わないといけない。 示さないといけない。
相原 澪
相原 澪
胸を張って生きれるように
ケジメをつけないといけない。
高山 昇
私用にあてがわれた部屋のドアを後ろ手で閉めると、昇くんは笑みを浮かべたまま早速続きを促した。
髪も肌もスーツも、どこにもスキが無い。 浮かぶのは強者の笑み。
だから私とは釣り合わない。
相原 澪
相原 澪
昇くんの笑みが、一層深くなった。
引っ越しの前日の、電話越しの冷たい声が思い出される。 直視出来なくて下を向いたけど、私は続けた。
相原 澪
相原 澪
バシッ
頬に熱が走った、
と認識した時には洋服掛けを巻き込んで床に手を付いていた。
後から発生した頬の痛みと打撲で、目の前がチカチカする。
高山 昇
昇くんの爪先が1歩ずつ近づいて来る。
高山 昇
相原 澪
拳を握る。 ー思い出されるのは、引っ越しの前日の会話。
ぞっとするほど冷たい昇くんの声と、爆発した私の感情。
私は
相原 澪
昇くんの腕が迫る。 そして私の髪を掴んで無理矢理上を向かせた。
相原 澪
階下から昇くんのお母さんののんびりとした声が聞こえる。
高山 昇
昇くんは優等生の声で答えると、髪を掴む手に更に力を入れた。
相原 澪
高山 昇
高山 昇
高山 昇
高山 昇
高山 昇
高山 昇
髪を掴んでいた昇くんの拳が開き、頭頂部から後頭部へと滑るように移動する。 そして片側で纏めていた髪を一息に解(ほど)いた。
昇くんは床に片膝を付くと、私と目線を合わせた。 五指の全てに私の髪を絡ませゆっくりと梳(す)いて行く。
昇くんの目には狂気のような熱が灯っている。
高山 昇
高山 昇
全身の毛が粟立つ。歯の根が鳴る。
相原 澪
昇くんが幼い時から私を助けてくれたのは、優しいからじゃない。 体が動かなかった。
相原 澪
このままでは、私は一生ここから出られない。楽しいあの日々に戻れない。 だけどいろいろな感情が邪魔をして、声すら出せない。
髪を梳いていた昇くんの手が頬に移った__
部屋のドアがノックされた。昇くんのお母さんの声。
高山 昇
高山 昇
困惑した様子の昇くんのお母さんの声が途中で跳ね上がった。 そして部屋のドアが空き_
山崎 孝太
相原 澪
息を呑んだ。 昇くんも来訪者を見て僅かに眉を動かした。
高山 昴
高山 昇
昇くんが不機嫌さを隠そうともせずに、弟の名を呼んだ。
高山 昇
高山 昇
昇くんは足取り荒く昴くんに歩み寄る。
昇くんの手が昴くんに届く寸前、孝太くんが腕を掴んで阻止した。空いた手で部屋のドアを閉める。
血管の浮いた顔で、昇くんが孝太くんをじろりと見下ろした。
山崎 孝太
_室内にいるのは、私と昇くんと孝太くんのみ。 まだ思考が追いつかない。
山崎 孝太
山崎 孝太
山崎 孝太
コメント
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先日機種変しまして、今回のお話はiPhoneで書きました。操作に慣れるまでちょっと時間がかかり、そして普通に表現力が無く、更新が遅れてしまいました。ごめんなさい!! サブタイトル読み:ソロ 読んでくださりありがとうございました❗️