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ここは男子校の教室。朝の喧騒はまだ遠い。 釉は、窓際の自分の席で、カバンの中から消えたはずの教科書を、 諦めにも似た落ち着きで探していた。
釉
溜息すらつかない。これはもはや日課だ。無視、消えた文房具、 見覚えのない落書きがされたノート。そして、廊下で聞こえる、 自分を中傷する悪意のこもった陰口。 釉は、いつも一人で解決しようと努めた。 探す。片付ける。無視する。耐える。、
釉
そう心の中で繰り返すことが、彼の最大の呪文だった 頼ることは弱さだと知っていた。 誰かに話せば、同情か、あるいは更なる攻撃の種になるだけだと。 休み時間、釉は屋上の隅で一人、パンを齧っていた。頬張るたびに胃がきゅっと縮む。
モブ(その他)
不意に声をかけられ、ビクリと体が跳ねた。 振り向くと、クラスの中心にいるような 明るい笑顔の男子が立っている
釉
モブ(その他)
モブ(その他)
嘘。彼は何もしていない。だが、 そう言ったところで、誰も信じないことを知っていた。 釉は視線をパンに戻し、黙っていた
沈黙は肯定と取られる。わかっている。だが、 反論する言葉は、いつも喉の奥で氷のように溶けてしまう
その時、静かに、だが確かな声が割り込んだ。
雨嶺
雨嶺
声の主は、雨嶺(あまね)だった。 誰にも優しく分け隔てなく接する クラスでも浮いた存在の男子。
釉
雨嶺
雨嶺はそれだけ言うと、 釉に軽く会釈し何も言わずにその場を離れた颯爽と そして穏やかに。雨嶺の行動は闇の中で灯された 小さな蠟燭の炎のようだった 攻撃を止めさせようとする光 釉は冷たいパンを握りしめたままその背中を見送った なぜ彼は自分に手を差し伸べるのだろう
放課後釉は長袖の袖口を少しだけ引き下ろし 自宅へと向かう
釉
玄関の前には、弟の留(るい)が立っていた 有名校の制服に身を包み、人懐っこい笑顔で友達と談笑している 留は、誰からも好かれる家族の話題も聞かれれば嘘と本当を混ぜて 「うち、仲良いんだぜ」と上手く作り上げるその鮮やかで器用な嘘を、釉は知っていた。そして、その嘘が、家族の境界線を保っていることも
留
釉
家の中は夕暮れ時特有の光と闇が混ざり合う曖昧な時間だった。 玄関に入った瞬間リビングから母親の鋭い怒鳴り声が飛んできた
母親
母親
釉は反射的に体を硬直させた父親の暴力的な行動 母親のヒステリックな怒鳴り声と機嫌が悪い時に 飛んでくるマグカップの破片 それらは長袖の下の傷跡と同じくらい日常の一部だった
釉
母親
物を投げる音が響く釉は全てを飲み込む闇のように 静かに、無抵抗に立っていた
釉
その時父親が帰宅した酒の匂いと低い声
父親
父親はいつも留を溺愛し釉には嫌悪を向ける
父親
留は何も言わずただその場に立っている その「何も言わない」という行為が 釉にとっては、最も重い闇だった
夜。自室のベッドで釉は長袖を少しだけ捲った 細い腕に刻まれた幾つもの白い筋 これは彼の秘密であり彼が自分で引いた 「これ以上は、誰にも侵されない」という 最終防衛線だった痛みは彼に「生きている」という 歪んだ安堵を与える
その時窓の外から優しくしかし明瞭な声が聞こえてきた
柊星
隣に住む、仲の良い大学生、千影(ちあき)の声だった彼は 釉にとって、学校でも家庭でもない 唯一の安心できる「光の領域」だった 釉は、慌てて長袖を元に戻し、窓を開けた
釉
千影
千影
柊星はそう言って小さなタッパーを差し出した中には ほんのり湯気の立つ、温かい煮物
釉
いつものように、釉は笑って誤魔化す。 柊星は、何も追及しなかった ただ彼の瞳は温かい月の光のように 釉の深い闇の奥を優しく照らしていた
千影
千影
釉
千影はそれだけ囁くと「おやすみ」と告げて去っていった 煮物のタッパーはまだ温かい 釉はその温もりを両手で受け止め 窓から差し込む月の光を見上げた
釉
軽いいじめ、家庭の暴力弟の沈黙。彼を囲む闇は深い しかし雨嶺が差し伸べた一瞬の優しさ
釉
そして柊星がそっと置いていった 煮物のタッパーの温もりと「光を分け合う強さ」という言葉 それは彼が今まで抱えてきた孤独と痛みを 全ては無理でも少しだけ溶かしてくれる ほんのりとした温かい光だった 釉は初めてその小さな光を一人で抱え込まずに 誰かに預けてもいいのかもしれない、と思った