仁
紫陽花の季節になると現れる人がいた。
可憐でそこはかとない芯の強さを持つ瞳が印象的だった。
初めて見たかけた時、彼女の傘は雨雲を蹴散らすほどの綺麗なブルーで、なのに手に抱かれていたのは梅雨に咲くしっとりとした紫陽花だった。
彼女には向日葵のような、夏の太陽をめいいっぱいに浴びた元気の湧き出ているような花が似合う気がした。
梅雨に咲く、傘と同じ青や紫がかった紫陽花の花束を、彼女はとても大切そうに抱えていた。
しとしとと降り続いていたあの日の雨は、確か一週間ほど続いていた記憶がある。
ブルーの傘に降り立つ小さな雫が重なり合い身を寄せ合い、少し大きな粒となってアスファルトへと落ちていった。
落ちてしまった先では、雫でも粒でもなくなった雨たちがたくさんの水たまりを作り、歩く彼女の足元を濡らしていた。
彼女の差すブルーの傘に気を取られていたら、まんまと大きな水たまりにはまってしまった僕は、濡れてしまったスニーカーに顔を歪め、あぁ……と声を漏らしてから顔を上げたのだけれど、少し先を歩いていた彼女の姿はもう僕の視界の中にはなかった。
大切に抱かれていた紫陽花も、彼女とともにどこかへ消えていた。
あくる年も彼女はやってきた。その季節も雨の六月だった。
彼女の傘はとても綺麗なパステルピンクで、大切そうに抱かれていたのはやはり紫陽花の花束だった。今年の紫陽花も、薄紫と青だった。
僕はスニーカーが汚れるのを気にしながら、少し先を行く彼女の方へと足を進めた。
紫陽花の花を、いや彼女の表情をよく見てみようと思ったんだ。
彼女の表情を隠すように、パステルピンクの傘が僕の視線の先を遮っている。
まるでその柔らかなピンクと同じで、恥ずかしさに頬を染めているのを知られたくないというように、彼女の表情は傘に隠れてよく見ることができなかった。
僕はあの凜とした瞳をまた見てみたくて気が急っていた。
彼女の歩調よりも少しだけ早足で歩いたおかげで、去年と同じ過ちをおかしてしまった。
パシャりと水溜まりに踏み込んでしまった僕のスニーカーは、今年もまんまと泥だらけでびしょ濡れだ。隠れている彼女の表情に気を取られすぎたんだ。
深いため息を汚れてしまったスニーカーに向かってこぼしているうちに、やはり彼女はいつの間にか僕の前から消えていた。
ピンクの傘から時折覗き見えていた肩先に揺れる長い髪の毛が、梅雨の湿気を吸っているのか少し重そうだった。
今年も彼女がやってきた。僕の心は踊りだす。
やってきたのはやはり梅雨の季節で、彼女の差す傘は目の覚めるような赤だった。
去年肩先で揺れていた髪の毛は更に伸びていて、ワンピースの背中をサラサラと撫でている。
手には今年も大切そうに紫陽花を抱いていたけれど。今年の紫陽花は傘の色に合わせたように赤に近いピンクのような、赤紫とでも言うのかな、そんな色合いだった。
僕にはその辺の色の事はよくわからないけれど、二年続いた青系のあとの赤系はとても新鮮に感じられた。
去年よく見られなかった彼女の瞳は、赤い傘から今はしっかりと覗いて見えたのだけれど、大きな瞳がなんとも悲しげだ。
泣いているの?
潤んでいるような瞳に気を取られ、僕の足は自然と彼女へ向かう。
スニーカーは雨でじっとりとしてきていたけれど、彼女のあんな悲しそうな表情を見てしまっては、それどころではなかった。
水たまりに足を踏み入れても、泥がスニーカーを汚してしまっても。今の僕にそんなことはどうでもよかった。
彼女が歩いて行った先の通りでは、車が容赦のないスピードで行き来している。歩道にいる僕たちの方へ、飛沫をかけていきそうなほどだった。
横断歩道の前にたたずむ彼女が、ゆっくりとしゃがみこんだ。
ワンピースの裾が汚れてしまわないかと僕は気になってしまう。
真っ赤な傘の中に隠れるように、彼女の体と抱えられた紫陽花の花束が見えなくなった。
僕は彼女のそばに駆け寄った。
裾が濡れちゃうよ。
そう声をかけようとして飲み込んだ。
紫陽花の花束は、電柱に寄り添うように手向けられていて、彼女は目を閉じていた。
あぁ、そうだった。
どうしてだろう。
すっかり忘れていたよ。
可笑しいよね。
頬を緩ませ口角をあげようとしたけれど上手くいかない。
彼女の頬に流れる涙は、梅雨の雨とは違って暖かさが伝わってくる。
その体温を思い出せば、とても懐かしく切なくなった。
毎年ありがとう。
もう大丈夫だよ。
僕は君が悲しそうにしている方が辛いよ。
大丈夫だから。
もう、紫陽花の花束を大切に抱えてこなくてもいいんだよ。
ありがとう。
僕はもう大丈夫。
ありがとう。
彼女の涙を拭ってあげられない僕の流す涙は、梅雨の重い雨とともに流れていった。