彼が写る、 あの頃の私はきっと
幸せだったんだろう。
でも、その幸福も 今は
朧気(おぼろげ)ですら わからない。
ピンボケしまくった 不良品のアイシャッター。
何も見えない。
毎日を自暴自棄に生きる、 あの頃の私はきっと
苦しかったんだろう。
つらいことは全部 繊細に映る。
まるで、 高画質レンズみたいに。
全てが暗く見えて。
私に残ったのは、
眠れないときは、 視界に何も入れないのが一番。
目を瞑って、 雑念を取り払う。
305匹ほど、 羊を数えた。
正直、羊が多すぎて 頭が痛くなってきた。
やばい。
珈琲なんて飲んでないのに。
そもそも好きじゃないけど。
時間が経つにつれて、 目が冴えていく。
今日はもう、 眠るなってことね。
溜息が漏れた。
スマホを起動する。
午前2時18分。
小さな機器が放つ 思ったより強い光に 目を細めた。
睡眠は諦めて、 散歩でもしようか。
薄い毛布から抜け出した。
適当にパーカーを羽織って ジーパンを履く。
最近、ろくな服 着てないな。
ぼやきながら、 薄いピンクの 口紅を塗る。
玄関に向かうとき、 ふと思いたって 引き返した。
長らく触っていなかった カメラを手にする。
埃が積もっていた。
現像しよう。
埃を払った。
彼と別れてから数週間、
ずっと家にこもっていた。
お腹が空いたら 冷蔵庫をかき回した。
大量のヨーグルトが 減っていくのが、 なんとなく虚しかった。
昼と夜の区別が つかなくなるほど眠って
起きたときは 二日酔いみたいに 頭が疼いて、吐き気がした。
パズルゲームを インストールした。
飽きるまで延々と アプリを増やし続けて
ただ、容量が半端なく消えた。
窓辺にあった 観葉植物の葉をちぎって、
一枚一枚ティッシュに くるんで捨てた。
ついでに、茎だけになった その鉢植えも ごみ箱に投げ入れた。
買ってから開けたことのない ネイル用の液体を、 タッパーに全て入れた。
蓋を閉めて振ると、 マーブル模様から えげつない単色に変化した。
その禍々しい色を放つ タッパーを、 テーブルに放置した。
以前テレビで観た 超能力とやらを 試してみた。
瞑想して、 第六感的な力を 生み出そうとしたけれど
でも何も動かないし 馬鹿らしくなったので すぐにやめた。
退屈な日々を、 ぼんやりと過ごした。
堕落しきった生活を 送っていた。
カメラを持って、
外に出た。
闇の空気は鋭くて、
暗いのに、目に刺さった。
棘のように 鋭く吹く風が
露出した肌を 擦っていく。
痛い。
肌寒かった。
吐いた息の白は、
ゆるやかに混ざり 溶けていく。
月の出ていない、澄んだ空。
浮かんだ星が、 いやに眩しく見えた。
夜に囲まれて歩く 無防備な私は、
孤独だった。
ベッドの上に 座り込んで
茶色の封筒を手にとった。
分厚い。
今まで、何枚撮ったんだろう。
中身を広げた。
たくさんの彼がいた。
カメラを気にした、 照れくさそうな微笑み。
真剣に何かを見つめる横顔。
振り向いた瞬間の、 驚いた表情。
映画館の外で 泣きそうになっている様子。
真っ直ぐに向いた 彼の瞳。
まるで、彼と 目が合っているようだった。
それでも、なんの感情も 湧かなかった。
何も、ではないけれど
言葉で上手に表せなくて
何色もの絵の具が
適当に混ぜられたような。
怒りの赤でも
哀しみの青でも
絶望の黒でもない
複雑で、 めんどくさい色。
部屋にいると、 彼の気配を感じた。
過去になった、 去っていった彼。
部屋にいると、 肺が押しつぶされるように 感じた。
埃だけじゃなくて
もっと、湿ったもの。
そんなもので、 圧迫されているようだった。
息苦しくて、
逃げたかった。
真っ黒な空の下では
ようやく息をすることが 許された気がした。
私は、自由だった。
彼が写る、 あの頃の私はきっと
幸せだったんだろう。
でも、その幸福も 今は
朧気ですら わからない。
ピンボケしまくった 不良品のアイシャッター。
何も見えない。
毎日を自暴自棄に生きる、 あの頃の私はきっと
苦しかったんだろう。
つらいことは 繊細に映る。
まるで、高画質レンズみたいに。
全てが暗く見えて。
でも、その痛みも 今は
忘れてしまった。
私に残ったのは
無。
こうして、 考えることが できなくなったから
だからきっと
涙すら、 枯れてしまった。
小さな水の筋を 肌で感じた。
霧のように、柔らかく 雨は降る。
傘も差さず、私は浴びた。
身体の熱が 奪われていくのが わかる。
家の前で、 私は立ったまま。
眠気はやってこないし
今日はもう、 細い雨が流してくれた。
座った。
ごつごつとした地面が冷たい。
久しぶりに、昼の空を見よう。
でも、今はまだ深夜。
空は、しっとりとした 闇に覆われている。
夜はまだ、明けないらしい。
コメント
16件
最近知りました。 表現の仕方が上手すぎて、その場にいるみたいに感じるます。 綺麗な描写で儚い物語 最高です✨
え、めっちゃ感動した……
彼のことが忘れられなくてたくさんの想い出が詰まったカメラの現像に行けない……。彼のことを本気で好きだった、愛してたってことですね……😭😭 素敵です😇✨ すうさんが書く、切ない系のストーリーは私の心に響きます🤭💭