私
私
あとから警察に聞いてわかったことだが、私を誘拐した犯人は料理人だった
過去に、私が適切な星を付けたことが原因で、彼がオーナーシェフを務めていたレストランは潰れていた
多額の借金を抱えて、家族を失った
そうだ
つまりあの日の事件の動機は
単純な逆恨みという訳だ
料理人
声が聞こえ、目を開けると 私は両手足を椅子に縛り付けられ、座らされていた
目の高さを合わせるためだろう、彼は腰を屈めていた
料理人
彼はスープ皿を抱えていた
湯気が立ち、トマトとバジルの強い香りがする
トマトシチューだ
私
彼は少し微笑むと、優しい口調で言った
料理人
料理人
彼はスープをすくい、そのスプーンを私に近づけた
私は口を閉じ、頭を横に振った
料理人
料理人
彼はそう言うと、再びスプーンを私の口元に近づけた
観念し私はスプーンを咥えた
彼の目は瞬きせずに、私をじっと見つめていた
表情から感情を読み取ろうとしているのだろう
料理人はみな、私に対して同じ視線を送る
別段、旨くもなく、不味くもない平凡な味だった
こんな犯罪行為をおこなってまで、必死に食べさせるような代物ではない
こんなシチューを出す店は都内だけでも1000店はある
...普段なら そう評価していただろうが
私
あの日の私はそう言ったのだ
彼はその言葉を信じたようだった
料理人
今度はスープから肉を1つすくい、私の口元へと運んだ
スプーンがスープと私の口を何度か往復し 皿が空になると
彼は会釈して部屋をあとにした
そして もう戻ってこなかった
代わりに来たのは数人の警察官だった
恐らく彼自身が通報したのだろう
あれから10年が経った
私はもう自分を軟禁した男の顔すら覚えていない
大恩ある警察官の名前も忘れてしまった
大抵の記憶は時間とともに風化するものだ
事件直後は、トラウマから同じ仕事を続けることは難しいかもしれないと思ったが
半年で現場に復帰することができた
その5年後には、カウンセラーの女性とも再婚することができた
もちろん、前妻のことは忘れていない
それは
...最初に述べた通りである
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解説 前妻の前菜(トマトシチュー)
トマトシチューは前菜のスープなんてね
...最初に述べた通りである↓ 私は一度食べたものの味を忘れない その才能を活かして、レストランに適切な星を付けるのが私の仕事だ