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啓蟄の候。穏やかで暖かな西日と風が運ばれていく。 外では大きな天然木の桜が揺れつつ花弁を舞わせる。 ある男は、ふいにその木の近くにあった店に立ち寄った。
──いらっしゃいませ。段差があります故、 お足元にお気をつけください。
店の奥から顔を出したのは、この店の看板娘の雪だ。 儚くも可憐な佇まいが巷でも人気を集めている。 その美声と姿にどうやら男は惚れたようだった。
──この饅頭を、二つ。ひとつは私用に、 もうひとつは土産用に頼む。
──承知致しました。少々お時間頂戴いたします。 そちらの座布団でお待ちください。
その娘は振る舞い、声、顔とどの要素をとっても 極上の女であった。つまり男は、あまりにも好みの女性 であった故に雪から目を離すことができなかった。
──お待たせ致しました。お代は結構でございます。 初回のお客様には、私からの馳走ゆえ。
──ならば、必ず礼は返すと約束致す。 特に予定などなければ、明日も来てくれないか。
雪は少し驚いたが、すぐに柔らかな笑みを湛えて 〝畏まりました。お客様のまたのご来店を心より お待ちしております〟と告げ、丁寧に饅頭を拵え始めた。
いかにも佳味そうな饅頭が、木箱から取り出されて 彼女のしなやかで細く白い指が、懐紙を折る。 そのたびに饅頭の甘い香りが店舗内を満たしていく。
──此方がご私用のお饅頭と、此方がお土産用と なっています。ご利用ありがとうございます!
お淑やかな少女から、その商品を受け取ると、 店を出る前に一例し、障子を開いて店を出ていった。 その男は、贈り物を買いに出かけていったのだ。
やはり、おなごにはかわいらしいものを贈るべきか? 実用的なものを渡すか、消耗品にするのか⋯と彼の 胸の内はざわめき、何を買うべきかわからなかった。
適当に街を見て回っていると、〝はなや〟という 文字が目に入った。彼女に見目麗しい花々は必ずや 似合うに違いない。そう思って足を踏み入れた。
──すまない。知り合いの女性に贈る花を 探しているのだが、何かないか。
──あら〜、土蜘蛛の旦那さんじゃない。 私がいい花を教えてあげる。その子は何色が好き?
──それは⋯知らぬ。だが、長く豊かな白髪と 涼しげな空色と白色の振袖に、薄浅葱の鼻緒の草履だ。
自分でも驚くほどすらすら言葉が出てきた。それは 彼女がこの〝土蜘蛛〟という男に、強烈な印象を 残していたからだろう。店の女はそれを受けて、
──なら、水色が好きな可能性が高いわね〜。 瑠璃唐草とかどうかしら?振袖によく似合うし⋯。
──ふむ⋯⋯見事な花だ。この花にする。 おい、花籠と花瓶をくれないか。それぞれ入れたい。
──わかったわ〜。この花、〝可憐〟っていう 意味もあって、絶対似合うと思うの〜。
この花を抱えながら、或いは世話をしながら笑む姿を 想像するだけで頬が緩む。花言葉など気にも留めた ことがなかったが、意味もあったのか⋯と新たに知る。
──これ、花籠と花瓶ね。合計百二十文よ。 毎度あり〜。ご贔屓に。頑張ってね〜。
しっかりと金銭を払ったあと、花籠と、小さな花瓶 それぞれを抱えつつ家路を辿った。気がつけば辺りは 日没前の、夕餉を作り始める頃に差し掛かっていた。