志歩の部屋
目が覚めた瞬間、志歩は違和感に気づいた。 いつもの朝。鳥の声も、窓の外を走る車の音も、聞こえない。 いやー一正確には、”遠い”。 まるで厚いガラスの向こう側にいるようだった。
日野森志歩
呟いた声も、頭の中で鈍く反響するだけ。 喉が乾いている。息を吸うたび、胸の奥がきしんだ。 前の日、軽い耳鳴りと倦怠感を感じていた。
それでも学校へ行き、バンド練習にも顔を出した。 「大丈夫」ーー そう言って笑ったのは、誰に対してだったのだろう。
鏡の前に立ち、髪を整えようとして手が止まる。 頬の血色が悪い。 まるで、自分が"音”のない世界に溶けていくようだった。
スマホの通知が震える。 画面には「一歌」からのメッセージ。
星乃一歌
指が一瞬、止まる。 返信しようとして、言葉が見つからない。 "無理”という言葉を打つのが、 なぜこんなにも怖いのか。 窓を開けると、風が頬を撫でた。 でもその音さえも、世界の奥に沈んでいる。
志歩は、手のひらを胸に当てた。 まだ心臓の鼓動がある。 ーーそれだけが、確かな"音” だった。
白い壁。消毒液の匂い。 志歩は診察室の椅子に座っていた。 窓の外の光がやけに眩しくて、目を細める。 耳鳴りはもう、日常の一部になっていた。 医師の口が動く。 けれど、その声は遠く、途切れ途切れにしか届かない。 ――“原因不明”という言葉だけが、妙に鮮明に残った。
医師
志歩は軽くうなずく。 声を出すと、喉の奥がきゅっと痛んだ。 待合室に戻ると、母が立ち上がって駆け寄ってきた。 「どうだったの?」 志歩は笑ってみせる。
日野森志歩
その笑顔がうまく作れていないことを、母は気づいていた。
外に出ると、風が吹いた。 遠くで車のクラクションが鳴る――はずだった。 けれど、音は風に溶けて、 志歩には届かない。
彼女は空を見上げる。 雲が流れる。 太陽が照らす。 音だけが、ない世界。
日野森志歩
誰にも聞こえないほど小さな声で、志歩は呟いた。
-病院帰り-
午後の陽射しが街のビルの隙間を 抜けて、舗道に長い影を落としていた。 病院を出て、志歩は母と並んで歩いていたが、ほとんど言葉はなかった。 診察室で聞いた「経過観察」という曖昧な言葉が、頭の奥で何度も反響している。
日野森志歩
そう言って母と別れ、志歩は商店街のほうへ歩いた。 ポケットの中のスマホが震える。 画面には「一歌」の名前。
星乃一歌
志歩は少し迷ってから、 『うん。駅前で』 とだけ返した。 ── ベンチに座ると、少しして一歌が息を弾ませてやってきた。
星乃一歌
その声が、ふっと遠くで霞む。 志歩は無理に笑った。
日野森志歩
一歌はそれ以上追及しなかった。 ただ、隣に座って空を見上げた。 しばらく沈黙。 けれどその沈黙が、志歩には救いだった。
日野森志歩
星乃一歌
日野森志歩
一歌は驚いたように志歩を見た。 けれどすぐに、まっすぐな瞳で言った。
星乃一歌
志歩は息を飲んだ。 その言葉が、胸の奥で静かに響いた。 まるで、まだ“音”が消えていないと教えてくれるように。 風が吹く。 小さな葉擦れの音――志歩にはほとんど聞こえない。 でも一歌の笑顔が、それを補うようにそこにあった。
-その時-
日野森志歩
星乃一歌
喉の奥が焼けるように熱くなった。 次の瞬間、口の端から赤いものがこぼれ落ちる。 指先が震え、視界がにじんだ。
星乃一歌
彼女の声が遠くなる。 地面の冷たさと、胸の奥の痛みだけが現実だった。 息を吸おうとしても、うまくできない。 肺の奥が重く、世界が暗く沈んでいく。 一歌は必死に支えながら、声を張り上げた。
星乃一歌
人の足音、ざわめき、サイレンの音―― それらが一つの塊になって、志歩の意識の奥に遠ざかっていった。
日野森志歩
薄れゆく視界の中で、一歌の涙だけが鮮やかだった。 そして志歩は、静かに瞼を閉じた。 ――世界から、音が消えた。
消毒液の匂いと、心拍モニターの一定の音。 白い天井の下で、志歩はゆっくりとまぶたを開けた。 視界の端に、見慣れた顔が並んでいた。
天馬咲希
望月穂波
志歩はかすかに首を動かす。 体中が重い。 声を出そうとしても、喉が焼けつくように痛んだ。
そのとき、病室のドアが開いた。 落ち着いた足音――日野森雫だった。 彼女は小さく息をのみ、妹のそばまで駆け寄る。
日野森雫
その声が震えていた。 普段どんな場面でも冷静な姉の涙に、一歌と咲希と穂波は言葉を失った。 志歩はゆっくりと視線を上げ、 かすれた声で言う。
日野森志歩
雫はその手を握りしめ、首を振る。
日野森雫
医師
医師の言葉に診察室へ向かう。
望月穂波
医師は一瞬だけ言葉を選び、静かに答えた。
医師
安心と不安が入り混じる沈黙。 咲希が泣き笑いのような声でつぶやいた。
天馬咲希
志歩は弱く笑って、目を閉じた。 その笑顔は、ほんの少しだけ昔のステージの彼女に戻っていた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!