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雨は、途切れることを知らなかった。
九州の山あい。
夕方には抜けられるはずだった峠道で、
神崎杏咲(カンザキアサ)は完全に
道を失っていた。
スマートフォンの地図は灰色の画面に
「圏外」の文字。
車のワイパーが必死に雨を弾いても、
視界は真っ白に霞んでいた。
神崎杏咲
小さくつぶやいても、
返ってくるのは雨音だけ。
峠の分かれ道で見た古びた標識――
“この先 中井里”
――あれが、最後に読めた文字だった。
しばらく進むと、舗装が途切れ、
泥道になった。
タイヤがぬかるみに沈み、車体が揺れる。
杏咲はため息をついて車を止めた。
外は土と湿気の匂い。
雨の匂いが鼻を刺す。
神崎杏咲
傘をさし、ライトを手に、
彼女は歩き出した。
ぬかるみに足を取られながらも、
微かな灯りが見えた気がした。
木々の隙間に、白い明かりがぼんやりと
浮かんでいる。
それは、古い家だった。
瓦は黒く濡れ、軒からは雫が糸のように
垂れている。
縁側には小さな灯がともり、
障子の向こうに人影があった。
杏咲はためらいながら声をかける。
神崎杏咲
少しの沈黙のあと、障子の奥から
声が返った。
中井泉里
柔らかな、しかしどこか
時間の止まったような声。
杏咲は胸を撫で下ろし、戸を開けた。
中にいたのは、一人の老女だった。
白銀の髪を後ろでまとめ、
黒い着物を纏っている。
その瞳は穏やかで、
けれど底が見えないほど静かだった。
神崎杏咲
杏咲が言うと、老女は微笑んだ。
中井泉里
老女――中井泉里(ナカイセンリ)は、
静かに湯を沸かし始めた。
畳の上の座卓には、湯呑が二つ。
一つは杏咲の前に、
もう一つは誰のものともわからない場所に
置かれている。
神崎杏咲
杏咲が尋ねると、泉里は小さく首を傾げ、
微笑んだ。
中井泉里
そのとき、外で雷が鳴った。
轟音とともに、家の奥から“何か”が
軋む音がした。
杏咲は思わず振り向く。
しかし泉里は、
まるで聞こえていないかのように、
茶を注いでいた。
雨は、さらに強くなっていた。
まるでこの夜を、
外に閉じ込めるかのように――。