三井東夜
……自由と寛容の、何が大切だと言うのですか?

東夜は今日あったこの男に
己が人生の道標を定めてほしいという希望を持った。
店主
自由と寛容はセットみたいなもんだな。
二つで一つだ。そうだ。兄ちゃん、セットメニューとしてサンドウィッチでも食べるか?

三井東夜
は、はぁ。

店主
ほら、コーヒー無料にしたし、講義代としても注文しないか?

三井東夜
それじゃあ、頂きます。

店主
はい。ありがとさん。

そう思わずにはいられなかったが、言われてみれば何も食べておらず、もう昼下がりといった時間なので丁度よかったのかもしれない。
幕間だと割り切り、店主の手捌きを無感動に見つめていた。
バスケットに具沢山のサンドウィッチを3片入れ、どうぞと例の堂に入った所作でテーブルに置かれた。
三井東夜
……それで、自由と寛容はセットということでしたが。

店主
あ、その話だったね。そうそう。

店主
うん。自由無くして寛容は訪れないし、その逆も然りだ。

三井東夜
あまり分かりません。

店主
君の今の状況は、どうもあまりに自由なこの世界に、オリジナルの意味付けをして生きることに脆さや儚さを感じている。それとも、恐怖という感情かもしれない。

店主
そんな柔弱な意味は曖昧であるのに、何故周りは平気なのか?

店主
何故それで生きていられるのか?

店主
そういうことを言いたかったんじゃないのかなぁ、なんて思ったけど。

店主
……合ってるかい?

三井東夜
……えぇ、俺の抱いていた感情がそのまま言語化されているような気分です。

店主
ほう。それは俺がとてもナイスな男という証拠だねぇ。

三井東夜
……。

店主
そこ!そういうところ無視しないでお願いだからぁ!

三井東夜
……ふっ。

店主
……やーっと笑ったね、君。

店主
はっはっは。そうだ。もっと笑った方がいいんだよ。

店主
こんな単純な言葉じゃあ納得がいかないかもしれないが、人生をうまく生きるコツなんて、案外そんなものなのさ。

三井東夜
そういうもの、ですかね。

店主
あぁ、もちろんさ。

店主はコーヒーのせいなのか、元々なのかは判然としない薄黄色くなった歯を覗かせて笑ってみせてくれた。
東夜はますます、この店主によって展望が拓かれることを予感した。
店主はコーヒーを飲もうとしたが、どうやらもう飲み干してしまったようだ。
店主
君の悩みを素人分析したところで、では肝心の自由と寛容をもっと掘り下げて考えてみようか。

三井東夜
ええ、俺は…その言葉達にヒステリックな反応をしてしまいます。忌み言葉かのように扱ってしまうんです。

三井東夜
ずっと、ずっと今日の朝からそういう概念を壊したくて仕方がなかった。

店主
なるほどねぇ。

店主
やはり、まだ拒絶的な印象を受けてしまうのだろうな。でも、そんな怖い言葉じゃないから恐れないことだよ。

店主
今、君は世界というものは自由なんだと思っているよね?

三井東夜
はい。自由があまりに無限大で、それがとても恐ろしく感じるんです。

店主
うんうん。そうだよ。自由というものは際限がなくてどこまでも広がる。しかしね、人間はその概念に止め石を打てるじゃあないか。

三井東夜
つまり、どういうことですか。

店主
それが意味付けだよ。意味付けによって言葉や概念は定義できる。自分の解釈によるものだろうと、それでいいんだ。

店主
だって、自由に歯止めが効かなければ、パンの定義だって何でもよくなる。パンは物体といえるから、君の座ってる椅子はパンであるなんて馬鹿げてるだろう?
ほら、そのサンドウィッチと比べてご覧よ。

手を振って注意を促す店主に少したじろぎ、東夜は馬鹿馬鹿しいと思いながらバスケットに入ったサンドウィッチと、自身を支えている椅子を見比べた。
三井東夜
まあ、それはわかります。

店主
はっはっは。それはそうだろうね。分かりませんって言われたら、どうしようかと思ったよ。

はっはっはと笑い続けるこの男の前で、東夜は少しムッとした。
店主はそれを機敏に察知したのかすぐに真面目な表情に戻り、話を戻した。
店主
とにかく、自由は広大であるが人間の理性、意味付けをすることによって定義されて安定を図っているということだ。

三井東夜
えぇ。確かに。

店主
この自由という土台があるからこそ、あらゆる事物を世界の一部として受け入れる寛容さが働くんだよ。

店主
君は、はなから自由と寛容という概念は持ち前の寛容さで受け入れているはずなんだ。しかし、自由を制御する意味付けを疑ったことで、寛容な審査は厳格な価値判断へとチェンジした。

店主
するとどうだい。世界に価値なんてものは全くないし、混沌としていてどう見渡せばいいのかも判らなくなる。だから、自分以外は敵であると決めつけて、攻撃か回避という選択肢しかなくなるのだよ。

店主
これは、確かに恐ろしいことだね。

三井東夜
……そうか。俺はそんな状況に陥っていたのか。

三井東夜
じ、じゃあ俺は一体!!

店主
……待った。

三井東夜
え?

店主
ここまで打ち解けたんだ。お互いそろそろ名前を明かしてもいいだろう?

店主
俺は軽部 西夜(かるべ せいや)だ。見ての通りの売れない喫茶店を経営してる。これ以外にも、豆を買いたいって人のために卸問屋の真似事をしてる。

軽部西夜
西夜さんとでも呼んでくれ。

店主の名は軽部西夜。
奇しくも対極のような名である。
東夜はよく分からない妙な間で自己紹介の流れになったので、いまさらに怖ず怖ずと名前を名乗った。
軽部西夜
へぇ。東夜と西夜か。ここで会ったのも、必然だったのかもねぇ。

軽部西夜
よろしくね、東夜くん。

三井東夜
宜しくお願いします。軽部さん。

軽部西夜
西夜さんって呼んでくれよ。何だか、そっちの方が相棒感あってカッコいいだろう?

軽部西夜
東の東夜くんに、西の西夜様だよ。

朗らかな笑い声に呆れながら、東夜は残りのサンドウィッチを食べてしまい、コーヒーで流し込んだ。
緊張したかと思えば、すぐに弛緩する。この環境を作り出しているのも、この軽部西夜と名乗る男の策略なのかもしれなかった。
軽部西夜
……東夜くんは、これからどうすればいいのかという話だね。失くしてしまった世界を取り戻すためには、なんて洒落た言い方をしてもいいかもしれない。

三井東夜
一体、俺はどうすれば……?

軽部西夜
それはねぇ。とても簡単なことだよ。

三井東夜
簡単……?

軽部西夜
うん。簡単。

軽部西夜
答えはね、"考えないこと"だ。

この時、東夜は心の中の嫌悪感が沸々と煮えたぎるのを自覚した。
三井東夜
……い、いや。

三井東夜
そ、それは思考放棄だ!!

軽部西夜
思考放棄?

三井東夜
俺は確かに西夜さんのいう通り、この世界は自由であり、その自由が守られているからこそ寛容的に物事を受け入れられていたんだと思う。

三井東夜
しかし、そこで因果の因を構成する世界への意味付けを疑ってしまった。それは事実、自分でしか定義することのできない、実証も客観性も伴わない不安定で曖昧模糊な要素だからだ!!

三井東夜
考えないことが正解だと?
だったら、こんな長々と能弁を垂れる必要性なんかなかったじゃないですか!!

軽部西夜
その通りだよ。長々と語る必要性なんかないものなんだ。しかし、君を理解させるには様々な言葉を使うしかなかった。

軽部西夜
良いかい。"世界を複雑にしているのは君自身"だ。

軽部西夜
それが真理であり、本質だ。

三井東夜
な!!

軽部西夜
恐れるな!!

三井東夜
は、はぁ?

軽部西夜
東夜君はどうやら世界は完全な別次元にあるものだと認識している。それは、因果関係がどうのこうのと言葉を滑らせたことからも明らかだ。

軽部西夜
世界に対する意味を自身が決めているのならば、その意味に対して世界が結果を出しているのではなく、全ては自分だ。

軽部西夜
自分自身が世界を創っていて、今を生きているに過ぎない。

三井東夜
そ、そんなのは。

三井東夜
だったら、もう俺は生きられない!!

軽部西夜
生きられる!!

軽部西夜
今までずっと、そうやって生きてきたんだろう!!

軽部西夜
自由と寛容の理論を受け入れている限りは、「違います」なんて言わせない。自分が世界を創っているからこそ、自由は際限がないのだよ。自分が世界の中に取り込む事柄を選定しているからこそ、寛容は成立するのだよ。

軽部西夜
人間はそれでずっと生きるものだから、東夜くんのなかに、はなからその概念は備わっていると言っていたんだ。

軽部西夜
分かるかい。こんなことは考える必要性がないということに。自然本来のものなんだよ。考えることこそが歪で、世界を失わせしめる要因だ。

三井東夜
……なんて、ことだ。

俺は自分で世界を壊して
世界が無くなってしまったと大騒ぎしていたようなものだ
自分と世界は別々で
世界が勝手に壊れていっていると錯覚していたが
軽部西夜
もう、怖くないだろう?

軽部西夜
老子の「無為自然」。ありのままを受け入れるとは、一見すると無責任で軽い言葉として響くのかもね。

軽部西夜
でもね、自然に生きることの難しさと複雑さ、失われゆく世界をもう一度見つめ直すための言葉かもしれないよ。

三井東夜
道教……ですか。

軽部西夜
そうだね。まぁ、これを引用したのは偶々良い感じに説明できる言葉を思いついたからだよ。宗教的な意味合いはないと思っていてくれたまえ。

三井東夜
……。

軽部西夜
そうだ、君もこのままじゃどうすれば良いか分からないかもね。だって、上手く生きるためには生きることだなんて、説明にならないかもしれないから。

軽部西夜
ただ、複雑にしないことだよ。自分がつける意味や定義は悪いものだと疑ってばかりいないこと。もっと肩の力を抜いて、その都度感じることを楽しめば良いのさ。

軽部西夜
……そうすると、笑うことが人生を上手く生きるための方法だと、本気で思えるからね。

三井東夜
……。

真に正しいことなのか判断もつかないし、軽部西夜の詭弁にうまく載せられたのかもしれない。
そんなことを考えていたが、東夜は次第に無粋な考えを捨てることにした。
それはもう、この男の言葉に沿って生きることを意味していた。
三井東夜
西夜さん、有難うございます。

軽部西夜
いやいや、良いってことよ。

軽部西夜
……あ、でももっと褒めてくれても良いよ。出来れば、東夜くんの知人友人あらゆる人に軽部西夜さんという素晴らしい人格者がいて、その人は喫茶店をやってて、どこどこにあって〜なんてことを紹介してくれてもいいけどねぇ。

三井東夜
それじゃあ、もう行きます。

軽部西夜
また無視してるじゃん!!

三井東夜
ははは!

軽部西夜
……。

軽部西夜
はっはっは!!

東夜の心の枷はもうなくなっていた。
すっかり気分は晴れている。
何もかもが楽しみ…とまではいかなくとも、もう同じ悩みで苦しむことはないと信じている。
東夜は軽やかな足取りで、その扉の鈴をカラカラと鳴らして外に出た。
このミニチュアの田舎町が、とても大きくて広大な世界に映った。