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走れ丞太郎

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走れ丞太郎

1 - 走れ丞太郎

♥

33

2022年07月20日

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丞太郎は激怒した。

必ず、わがまま放題の校長を叱りつけなければならぬと決意した。

丞太郎には教育がわからぬ。 丞太郎は、ただの中学2年生である。YouTubeを見て、ゲームで遊んでくらしてきた。

けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。

土曜日早朝、丞太郎は家を出発し、お墓を越え村道6号線を越え、500メートルはなれたこの読谷(よみたん)村立古堅(ふるげん)中学校にやって来た。

丞太郎には父も、母も無い。 彼女も無い。 小6の内気な妹と二人暮しだ。

この妹は、同じ小学校の或る律気な小学生を、近々、誕生会のゲストとして家に迎える事になっていた。

誕生日も間近かなのである。

丞太郎は、それゆえ、妹のケーキやら誕生会の御馳走やらを準備するために、はるばる中学校にやって来たのだ。

まず、その品々の入手方法を家庭科室で調査して、それから中学校の廊下をぶらぶら歩いた。

丞太郎には竹馬の友があった。

海留(かいる)である。

今はこの中学校で、テニス部に所属している。 その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。 1日逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。

歩いているうちに丞太郎は、中学校の様子を怪しく思った。

ひっそりしている。

もう既に4時は過ぎて、校内の暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、電気を消したせいばかりでは無く、中学校全体が、やけに寂しい。

のんきな丞太郎も、だんだん不安になって来た。

階段で逢った後輩をつかまえて、何かあったのか、昨日、中学校に来たときは、下校時刻でも皆が歌をうたって、中学校は賑やかであった筈だが、と質問した。

後輩は、首を振って答えなかった。

しばらく歩いて事務員に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。 事務員は答えなかった。

丞太郎は両手で事務員のからだをゆすぶって質問を重ねた。

事務員は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。

事務員

校長は、先生や生徒をやめさせます

丞太郎

なぜやめさせるのだ

事務員

校長を内心バカにしている、というのですが、誰もそんな、考えを持っては居りませぬ

丞太郎

たくさんの人をやめさせたのか

事務員

はい、はじめは教頭さまを。それから、保健の先生を。それから、生徒会長さまを。それから、野球部のキャプテンさまを。それから、新入生代表さまを。それから、産休明けの先生様を

丞太郎

おどろいた。校長は乱心か

事務員

いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、先生方の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、SNSアカウントを知らせるよう命じて居ります。御命令を拒めば問答無用で、やめさせます。きょうは、6人やめさせられました

聞いて、丞太郎は激怒した。

丞太郎

あきれた校長だ。生かして置けぬ

丞太郎は、単純な男であった。

誕生会の道具を、背負ったままで、のそのそ校長室にはいって行った。

たちまち彼は、警備員に捕縛された。

調べられて、丞太郎の懐中からはスマホが出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。

丞太郎は、校長の前に引き出された。

校長

このスマホで何をするつもりであったか。言え!

校長は静かに、けれども威厳を以もって問いつめた。

その校長の顔は蒼白そうはくで、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。

丞太郎

中学校を暴君の手から救うのだ

と丞太郎は悪びれずに答えた。

校長

おまえがか?

校長は、憫笑(びんしょう)した。

校長

仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。

丞太郎

言うな!

と丞太郎は、いきり立って反駁(はんすう)した。

丞太郎

人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。校長は、先生、生徒の忠誠をさえ疑って居られる

校長

疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾(しよく)のかたまりさ。信じては、ならぬ

校長は落着いて呟(つぶや)き、ほっと溜息ためいきをついた。

校長

わしだって、平和を望んでいるのだが

丞太郎

なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か

こんどは丞太郎が嘲笑(ちょうしょう)した。

丞太郎

罪の無い生徒をやめさせて、何が平和だ

校長

だまれ、下賤(げせん)の者

校長は、さっと顔を挙げて報いた。

校長

口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿(はらわた)の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、はりつけになってから、泣いてわびたって聞かぬぞ

丞太郎

ああ、校長はりこうだ。うぬぼれているがよい。私は、ちゃんと退学覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――

と言いかけて、丞太郎は足もとに視線を落し瞬時ためらい、

丞太郎

ただ、私に情をかけたいつもりなら、退学までに1日の日限(にちげん)を与えて下さい。たった一人の妹の、誕生会をやりたいのです。明日までに、私は家で誕生会を開催させ、必ず、ここへ帰って来ます

校長

ばかな

と校長は、しわがれた声で低く笑った。

校長

とんでもないうそを言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか

丞太郎

そうです。帰って来るのです

丞太郎は必死で言い張った。

丞太郎

私は約束を守ります。私を、1日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、テニス部に海留(かいる)という男子生徒がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、明日の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を退学にして下さい。たのむ、そうして下さい

それを聞いて校長は、残虐な気持で、そっとほくそえんだ。

生意気なことを言うわい。 どうせ帰って来ないにきまっている。 この嘘つきにだまされた振りして、放してやるのも面白い。 そうして身代りの男を、明日に退学にしてやるのも気味がいい。 人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を退学に処してやるのだ。 世の中の、正直者とかいうやつらにうんと見せつけてやりたいものさ。

校長

願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。明日には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっとやめさせるぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの態度は、永遠にゆるしてやろうぞ

丞太郎

なに、何をおっしゃる

校長

はは。学歴が大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ

丞太郎は口惜しく、じだんだ踏んだ。 ものも言いたくなくなった。

竹馬の友、海留は、18時、校長室に呼びだされた。 校長の面前で、よき友とよき友は、1日ぶりで相逢うた。

丞太郎は、友に一切の事情を語った。

海留は無言でうなずき、丞太郎をひしと抱きしめた。 友と友の間は、それでよかった。

海留は、縄打たれた。

丞太郎は、すぐに出発した。

初夏、満天の星である。

丞太郎はその夜、一休みもせず500メートルの路を急ぎに急いで、家へ到着したのは、19時、陽は既に沈んで、妹は寝る準備をはじめていた。

よろめいて歩いて来る兄の、疲労こんぱいの姿を見つけて驚いた。

そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。

丞太郎

なんでも無い

丞太郎は無理に笑おうと努めた。

丞太郎

学校に用事を残して来た。またすぐ学校に行かなければならぬ。今晩、おまえの誕生会を行う。早いほうがよかろう

妹は頬をあからめた。

丞太郎

うれしいか。綺麗(きれい)な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、招待する友達に知らせて来い。誕生会は、今晩だと

丞太郎は、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。

眼が覚めたのは夜だった。

丞太郎は起きてすぐ、招待する友達の家を訪れた。 そうして、少し事情があるから、誕生会を今晩にしてくれ、と頼んだ。

妹の友達は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、シークワーサーの季節まで待ってくれ、と答えた。

丞太郎は、待つことは出来ぬ、どうか今晩にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。

妹の友達も頑強であった。 なかなか承諾してくれない。

10時まで議論をつづけて、やっと、どうにか友達をなだめ、すかして、説き伏せた。

誕生会は、夜中に行われた。

妹の、バースデーケーキを食べ終えたころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。

祝宴に列席していた友達たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺こらえ、陽気に歌をうたい、手を拍うった。

丞太郎も、満面に喜色(きしょく)を湛(たた)え、しばらくは、校長とのあの約束をさえ忘れていた。

誕生会は、真夜中過ぎていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。

丞太郎は、一生このままここにいたい、と思った。 この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。

 ままならぬ事である。

丞太郎は、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。

あすの日没までには、まだ十分の時が在る。 ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。

その頃には、雨も小降りになっていよう。

少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。 丞太郎ほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。

今宵呆然、歓喜に酔っているらしい妹に近寄り、

丞太郎

おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに中学校に出かける。大切な用事があるのだ

丞太郎

私がいなくても、もうおまえには優しい友達があるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。友達との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ

丞太郎

おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ

妹は、夢見心地で首肯(うなず)いた。

丞太郎は、それから友達の肩をたたいて、

丞太郎

仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、妹とゲームだけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、丞太郎の妹分になったことを誇ってくれ

友達は揉(も)み手して、てれていた。

丞太郎は笑って友達たちにも会釈して、宴席から立ち去り、自分の部屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。

眼が覚めたのは翌る日の薄明(はくめい)の頃である。

丞太郎は跳ね起き、

南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う

初夏、満天の星である。

丞太郎はその夜、一休みもせず500メートルの路を急ぎに急いで、家へ到着したのは、19時、陽は既に沈んで、妹は寝る準備をはじめていた。

よろめいて歩いて来る兄の、疲労こんぱいの姿を見つけて驚いた。

そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。

丞太郎は無理に笑おうと努めた。

妹は頬をあからめた。

丞太郎は、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。

眼が覚めたのは夜だった。

丞太郎は起きてすぐ、招待する友達の家を訪れた。 そうして、少し事情があるから、誕生会を今晩にしてくれ、と頼んだ。

妹の友達は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、シークワーサーの季節まで待ってくれ、と答えた。

丞太郎は、待つことは出来ぬ、どうか今晩にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。

妹の友達も頑強であった。 なかなか承諾してくれない。

10時まで議論をつづけて、やっと、どうにか友達をなだめ、すかして、説き伏せた。

誕生会は、夜中に行われた。

妹の、バースデーケーキを食べ終えたころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。

祝宴に列席していた友達たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺こらえ、陽気に歌をうたい、手を拍うった。

丞太郎も、満面に喜色(きしょく)を湛(たた)え、しばらくは、校長とのあの約束をさえ忘れていた。

誕生会は、真夜中過ぎていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。

丞太郎は、一生このままここにいたい、と思った。 この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。

 ままならぬ事である。

丞太郎は、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。

あすの日没までには、まだ十分の時が在る。 ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。

その頃には、雨も小降りになっていよう。

少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。 丞太郎ほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。

今宵呆然、歓喜に酔っているらしい妹に近寄り、

妹は、夢見心地で首肯(うなず)いた。

丞太郎は、それから友達の肩をたたいて、

友達は揉(も)み手して、てれていた。

丞太郎は笑って友達たちにも会釈して、宴席から立ち去り、自分の部屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。

眼が覚めたのは翌る日の薄明(はくめい)の頃である。

丞太郎は跳ね起き、

南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う

きょうは是非とも、あの校長に、人の信実の存するところを見せてやろう。

そうして笑って校長室のテーブルに上ってやる。

丞太郎は、悠々と身仕度をはじめた。

初夏、満天の星である。

丞太郎はその夜、一休みもせず500メートルの路を急ぎに急いで、家へ到着したのは、19時、陽は既に沈んで、妹は寝る準備をはじめていた。

よろめいて歩いて来る兄の、疲労こんぱいの姿を見つけて驚いた。

そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。

丞太郎は無理に笑おうと努めた。

妹は頬をあからめた。

丞太郎は、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。

眼が覚めたのは夜だった。

丞太郎は起きてすぐ、招待する友達の家を訪れた。 そうして、少し事情があるから、誕生会を今晩にしてくれ、と頼んだ。

妹の友達は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、シークワーサーの季節まで待ってくれ、と答えた。

丞太郎は、待つことは出来ぬ、どうか今晩にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。

妹の友達も頑強であった。 なかなか承諾してくれない。

10時まで議論をつづけて、やっと、どうにか友達をなだめ、すかして、説き伏せた。

誕生会は、夜中に行われた。

妹の、バースデーケーキを食べ終えたころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。

祝宴に列席していた友達たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺こらえ、陽気に歌をうたい、手を拍うった。

丞太郎も、満面に喜色(きしょく)を湛(たた)え、しばらくは、校長とのあの約束をさえ忘れていた。

誕生会は、真夜中過ぎていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。

丞太郎は、一生このままここにいたい、と思った。 この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。

 ままならぬ事である。

丞太郎は、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。

あすの日没までには、まだ十分の時が在る。 ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。

その頃には、雨も小降りになっていよう。

少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。 丞太郎ほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。

今宵呆然、歓喜に酔っているらしい妹に近寄り、

妹は、夢見心地で首肯(うなず)いた。

丞太郎は、それから友達の肩をたたいて、

友達は揉(も)み手して、てれていた。

丞太郎は笑って友達たちにも会釈して、宴席から立ち去り、自分の部屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。

眼が覚めたのは翌る日の薄明(はくめい)の頃である。

丞太郎は跳ね起き、

南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う

雨も、いくぶん小降りになっている様子である。

身仕度は出来た。

さて、丞太郎は、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。

私は、今宵、退学にされる。

退学にされる為に走るのだ。

身代りの友を救う為に走るのだ。

校長の奸佞邪智(かんねいじゃち)を打ち破る為に走るのだ。

走らなければならぬ。

そうして、私は退学にされる。

若い時から名誉を守れ。

さらば、ふるさと。

若い丞太郎は、つらかった。

幾度か、立ちどまりそうになった。

えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。

家を出て、墓を横切り、柵をくぐり抜け、郵便局の前に着いた頃には、雨も止(や)み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。

丞太郎は額の汗をこぶしで払い、

ここまで来れば大丈夫、もはや家への未練は無い。

妹たちは、きっと佳い親友になるだろう。

私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。

まっすぐに校長室に行き着けば、それでよいのだ。

そんなに急ぐ必要も無い。

ゆっくり歩こう

ここまで来れば大丈夫、もはや家への未練は無い

持ちまえの呑気(のんき)さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。

ぶらぶら歩いて10メートル行き15メートル行き、そろそろ全里程(ぜんりてい)の半ばに到達した頃、降って湧わいた災難、丞太郎の足は、はたと、とまった。

見よ、前方の道路を。

きのうの豪雨で信号は故障し、濁流滔々(だくりゅうとうとう)と車は連なり、猛勢一挙に横断歩道を占拠し、ビービーと響きをあげるクラクションが、木葉微塵(こっぱみじん)にイライラを喚(わめ)きちらしていた。

彼は茫然と、立ちすくんだ。

あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、信号は残らず故障して光らず、交通整備員の姿も見えない。

自動車の流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。

丞太郎は道路のそばにうずくまり、男泣きに泣きながらご先祖様に手を挙げて哀願した。

ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う車の流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、校長室に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために退学になるのです。

自動車の濁流は、丞太郎の叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。

車は車を呑み、捲(ま)き、クラクションで煽(あおり)立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。

今は丞太郎も覚悟した。

渡り切るより他に無い。

ああ、ご先祖様も照覧あれ! 渋滞の濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。

丞太郎は、ざんぶと車の流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う車を相手に、必死の闘争を開始した。

満身の力を腕にこめて、押し寄せスレスレを横切る流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅(ししふんじん)の人の子の姿には、御先祖様も哀れと思ったか、ついに憐愍(れんびん)を垂れてくれた。

押し流されつつも、見事、対岸の歩道の脇に、すべり込む事が出来たのである。

ありがたい。

丞太郎は馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。

一刻といえども、むだには出来ない。

陽は既に西に傾きかけている。

ぜいぜい荒い呼吸をしながら坂をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊のヤンキーが躍り出た。

ヤンキー

待て

丞太郎

何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに校長室へ行かなければならぬ。放せ。

ヤンキー

どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け

丞太郎

私には学生証の他には何も無い。その、たった一つの地位も、これから校長にくれてやるのだ。

ヤンキー

その、学生証が欲しいのだ

さては、校長の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。

ヤンキーたちは、ものも言わず一斉に角材を振り挙げた。

丞太郎はひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その角材を奪い取って、

丞太郎

気の毒だが正義のためだ!

と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って坂を下った。

一気に坂を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱(しゃくねつ)の太陽がまともに、かっと照って来て、丞太郎は幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。

立ち上る事が出来ぬのだ。

天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。

ああ、あ、車の濁流を泳ぎ切り、ヤンキーを三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来た丞太郎よ。

真の勇者、丞太郎よ。

今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。

愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて退学にされなければならぬ。

おまえは、稀代の不信の人間、まさしく校長の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫いもむしほどにも前進かなわぬ。

路傍のタイル床にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。

もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。

私は、これほど努力したのだ。

約束を破る心は、みじんも無かった。

ご先祖様も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。

動けなくなるまで走って来たのだ。

私は不信の徒では無い。

ああ、できる事なら私の胸を截(た)ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。

愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。

けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。

私は、よくよく不幸な男だ。

私は、きっと笑われる。

私の一家も笑われる。

私は友をあざむいた。

中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。

ああ、もう、どうでもいい。

これが、私の定った運命なのかも知れない。

海留(かいる)よ、ゆるしてくれ。

君は、いつでも私を信じた。

私も君を、欺かなかった。

私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。

いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。

いまだって、君は私を無心に待っているだろう。

ああ、待っているだろう。

ありがとう、海留。

よくも私を信じてくれた。

それを思えば、たまらない。

友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。

海留、私は走ったのだ。

君を欺くつもりは、みじんも無かった。

信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。

車の濁流を突破した。

ヤンキーの囲みからも、するりと抜けて一気に坂を駈け降りて来たのだ。

私だから、出来たのだよ。

ああ、この上、私に望み給うな。

放って置いてくれ。

どうでも、いいのだ。

私は負けたのだ。

だらしが無い。

笑ってくれ。

校長は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。

おくれたら、身代りを退学にして、私を助けてくれると約束した。

私は校長の卑劣を憎んだ。

けれども、今になってみると、私は校長の言うままになっている。

私は、おくれて行くだろう。

校長は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。

そうなったら、私は、退学するよりつらい。

私は、永遠に裏切者だ。

地上で最も、不名誉の人種だ。

海留よ、私も退学するぞ。

君と一緒に退学させてくれ。

君だけは私を信じてくれるにちがい無い。

いや、それも私の、ひとりよがりか? 

ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。

家には私のベッドが在る。

猫も居る。

妹と友達は、まさか私を家から追い出すような事はしないだろう。

正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。

他人を退学にして自分が在校する。

それが人間世界の定法ではなかったか。

ああ、何もかも、ばかばかしい。

私は、醜い裏切り者だ。

どうとも、勝手にするがよい。

やんぬる哉な。

――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。

ふと耳に、潺々(せんせん)、水の流れる音が聞えた。

そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。

すぐ足もとで、水が流れているらしい。

よろよろ起き上って、見ると、コンクリートの裂目から滾々と、非常用蛇口から水が湧き出ているのである。

その蛇口に吸い込まれるように丞太郎は身をかがめた。

蛇口に直接くらいついて、一くち飲んだ。

ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。

歩ける。

行こう。

肉体の疲労恢復(かいふく)と共に、わずかながら希望が生れた。

義務遂行の希望である。

わが身を殺して、名誉を守る希望である。

斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。

日没までには、まだ間がある。

私を、待っている人があるのだ。

少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。

私は、信じられている。

私の命なぞは、問題ではない。

死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。

私は、信頼に報いなければならぬ。

いまはただその一事だ。

走れ! 丞太郎。

私は信頼されている。

私は信頼されている。

先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。

悪い夢だ。

忘れてしまえ。

五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。

丞太郎、おまえの恥ではない。

やはり、おまえは真の勇者だ。

再び立って走れるようになったではないか。

ありがたい!

私は、正義の士として退学する事が出来るぞ。

ああ、陽が沈む。

ずんずん沈む。

待ってくれ、ご先祖様よ。

私は生れた時から正直な男であった。

正直な男のままにして退学させて下さい。

路行く人を押しのけ、跳はねとばし、丞太郎は黒い風のように走った。

校門前で部活の、その筋トレのまっただ中を駈け抜け、筋トレ中の野球部員たちを仰天させ、落ちてるボールを蹴けとばし、水たまりを飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。

一団のサッカー部員と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。

サッカー部員

いまごろは、あの男も、退学処分にハンコ押されてるよ

ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。

その男を退学させてはならない。

急げ、丞太郎。

おくれてはならぬ。

愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。

風態なんかは、どうでもいい。

丞太郎は、いまは、ほとんど全裸体であった。

呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。

見える。

はるか向うに小さく、古堅(ふるげん)中学校の校門が見える。

校門は、夕陽を受けてきらきら光っている。

???

ああ、丞太郎様。

うめくような声が、風と共に聞えた。

丞太郎

誰だ

丞太郎は走りながら尋ねた。

ヒロヤス

ヒロヤスでございます。貴方のお友達海留(かいる)様の同級生でございます

その若い帰宅部員も、丞太郎の後について走りながら叫んだ。

ヒロヤス

もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方かたをお助けになることは出来ません

丞太郎

いや、まだ陽は沈まぬ

ヒロヤス

ちょうど今、あの方が退学になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!

丞太郎

いや、まだ陽は沈まぬ

丞太郎は胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。

走るより他は無い。

ヒロヤス

やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分の学生証が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。校長室に引き出されても、平気でいました。校長が、さんざんあの方をからかっても、丞太郎は来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。

丞太郎

それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の学生証も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! ヒロヤス。

ヒロヤス

ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい

言うにや及ぶ。

まだ陽は沈まぬ。

最後の死力を尽して、丞太郎は走った。

丞太郎の頭は、からっぽだ。

何一つ考えていない。

ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。

陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、丞太郎は疾風の如く校長室に突入した。

間に合った。

丞太郎

待て。その人を退学にしてはならぬ。丞太郎が帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た

と大声で校長室の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉のどがつぶれて嗄しわがれた声が幽(かす)かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。

すでに退学処分の書類がテーブルの上にのせられ、校長が手にした印鑑は、徐々に下げられてゆく。

丞太郎はそれを目撃して最後の勇、先刻、車の濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、

丞太郎

私だ、校長! 退学にされるのは、私だ。丞太郎だ。彼を人質にした私は、ここにいる!

と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに校長室にたどり着き、押されようとしている印鑑を持つ腕に、齧(かじ)りついた。

群衆は、どよめいた。

あっぱれ。

ゆるせ、と口々にわめいた。

海留の縄は、ほどかれたのである。

丞太郎

海留

丞太郎は眼に涙を浮べて言った。

丞太郎

私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若(も)し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。

海留は、すべてを察した様子でうなずき、校長室一ぱいに鳴り響くほど音高く丞太郎の右頬を殴った。

殴ってから優しくほほえみ、

海留

丞太郎、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私は待っている間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。

丞太郎は腕にうなりをつけて海留の頬を殴った。

丞太郎

ありがとう、友よ

海留

ありがとう、友よ

二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。

群衆の中からも、歔欷(きょき)の声が聞えた。暴君校長は、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。

校長

おまえらの望みは叶かなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。

どっと群衆の間に、歓声が起った。

万歳、校長万歳。

ひとりの少6女が、緋のマントを丞太郎に捧げた。

丞太郎は、まごついた。

佳き友は、気をきかせて教えてやった。

海留

丞太郎、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、丞太郎の裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ

勇者は、ひどく赤面した。

(古伝説と、ヨーコの詩から。)

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