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丞太郎は激怒した。
必ず、わがまま放題の校長を叱りつけなければならぬと決意した。
丞太郎には教育がわからぬ。 丞太郎は、ただの中学2年生である。YouTubeを見て、ゲームで遊んでくらしてきた。
けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
土曜日早朝、丞太郎は家を出発し、お墓を越え村道6号線を越え、500メートルはなれたこの読谷(よみたん)村立古堅(ふるげん)中学校にやって来た。
丞太郎には父も、母も無い。 彼女も無い。 小6の内気な妹と二人暮しだ。
この妹は、同じ小学校の或る律気な小学生を、近々、誕生会のゲストとして家に迎える事になっていた。
誕生日も間近かなのである。
丞太郎は、それゆえ、妹のケーキやら誕生会の御馳走やらを準備するために、はるばる中学校にやって来たのだ。
まず、その品々の入手方法を家庭科室で調査して、それから中学校の廊下をぶらぶら歩いた。
丞太郎には竹馬の友があった。
海留(かいる)である。
今はこの中学校で、テニス部に所属している。 その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。 1日逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。
歩いているうちに丞太郎は、中学校の様子を怪しく思った。
ひっそりしている。
もう既に4時は過ぎて、校内の暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、電気を消したせいばかりでは無く、中学校全体が、やけに寂しい。
のんきな丞太郎も、だんだん不安になって来た。
階段で逢った後輩をつかまえて、何かあったのか、昨日、中学校に来たときは、下校時刻でも皆が歌をうたって、中学校は賑やかであった筈だが、と質問した。
後輩は、首を振って答えなかった。
しばらく歩いて事務員に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。 事務員は答えなかった。
丞太郎は両手で事務員のからだをゆすぶって質問を重ねた。
事務員は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
事務員
丞太郎
事務員
丞太郎
事務員
丞太郎
事務員
聞いて、丞太郎は激怒した。
丞太郎
丞太郎は、単純な男であった。
誕生会の道具を、背負ったままで、のそのそ校長室にはいって行った。
たちまち彼は、警備員に捕縛された。
調べられて、丞太郎の懐中からはスマホが出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。
丞太郎は、校長の前に引き出された。
校長
校長は静かに、けれども威厳を以もって問いつめた。
その校長の顔は蒼白そうはくで、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
丞太郎
と丞太郎は悪びれずに答えた。
校長
校長は、憫笑(びんしょう)した。
校長
丞太郎
と丞太郎は、いきり立って反駁(はんすう)した。
丞太郎
校長
校長は落着いて呟(つぶや)き、ほっと溜息ためいきをついた。
校長
丞太郎
こんどは丞太郎が嘲笑(ちょうしょう)した。
丞太郎
校長
校長は、さっと顔を挙げて報いた。
校長
丞太郎
と言いかけて、丞太郎は足もとに視線を落し瞬時ためらい、
丞太郎
校長
と校長は、しわがれた声で低く笑った。
校長
丞太郎
丞太郎は必死で言い張った。
丞太郎
それを聞いて校長は、残虐な気持で、そっとほくそえんだ。
生意気なことを言うわい。 どうせ帰って来ないにきまっている。 この嘘つきにだまされた振りして、放してやるのも面白い。 そうして身代りの男を、明日に退学にしてやるのも気味がいい。 人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を退学に処してやるのだ。 世の中の、正直者とかいうやつらにうんと見せつけてやりたいものさ。
校長
丞太郎
校長
丞太郎は口惜しく、じだんだ踏んだ。 ものも言いたくなくなった。
竹馬の友、海留は、18時、校長室に呼びだされた。 校長の面前で、よき友とよき友は、1日ぶりで相逢うた。
丞太郎は、友に一切の事情を語った。
海留は無言でうなずき、丞太郎をひしと抱きしめた。 友と友の間は、それでよかった。
海留は、縄打たれた。
丞太郎は、すぐに出発した。
初夏、満天の星である。
丞太郎はその夜、一休みもせず500メートルの路を急ぎに急いで、家へ到着したのは、19時、陽は既に沈んで、妹は寝る準備をはじめていた。
よろめいて歩いて来る兄の、疲労こんぱいの姿を見つけて驚いた。
そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。
丞太郎
丞太郎は無理に笑おうと努めた。
丞太郎
妹は頬をあからめた。
丞太郎
丞太郎は、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのは夜だった。
丞太郎は起きてすぐ、招待する友達の家を訪れた。 そうして、少し事情があるから、誕生会を今晩にしてくれ、と頼んだ。
妹の友達は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、シークワーサーの季節まで待ってくれ、と答えた。
丞太郎は、待つことは出来ぬ、どうか今晩にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。
妹の友達も頑強であった。 なかなか承諾してくれない。
10時まで議論をつづけて、やっと、どうにか友達をなだめ、すかして、説き伏せた。
誕生会は、夜中に行われた。
妹の、バースデーケーキを食べ終えたころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。
祝宴に列席していた友達たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺こらえ、陽気に歌をうたい、手を拍うった。
丞太郎も、満面に喜色(きしょく)を湛(たた)え、しばらくは、校長とのあの約束をさえ忘れていた。
誕生会は、真夜中過ぎていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。
丞太郎は、一生このままここにいたい、と思った。 この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。
ままならぬ事である。
丞太郎は、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。
あすの日没までには、まだ十分の時が在る。 ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。
その頃には、雨も小降りになっていよう。
少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。 丞太郎ほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。
今宵呆然、歓喜に酔っているらしい妹に近寄り、
丞太郎
丞太郎
丞太郎
妹は、夢見心地で首肯(うなず)いた。
丞太郎は、それから友達の肩をたたいて、
丞太郎
友達は揉(も)み手して、てれていた。
丞太郎は笑って友達たちにも会釈して、宴席から立ち去り、自分の部屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。
眼が覚めたのは翌る日の薄明(はくめい)の頃である。
丞太郎は跳ね起き、
南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う
初夏、満天の星である。
丞太郎はその夜、一休みもせず500メートルの路を急ぎに急いで、家へ到着したのは、19時、陽は既に沈んで、妹は寝る準備をはじめていた。
よろめいて歩いて来る兄の、疲労こんぱいの姿を見つけて驚いた。
そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。
丞太郎は無理に笑おうと努めた。
妹は頬をあからめた。
丞太郎は、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのは夜だった。
丞太郎は起きてすぐ、招待する友達の家を訪れた。 そうして、少し事情があるから、誕生会を今晩にしてくれ、と頼んだ。
妹の友達は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、シークワーサーの季節まで待ってくれ、と答えた。
丞太郎は、待つことは出来ぬ、どうか今晩にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。
妹の友達も頑強であった。 なかなか承諾してくれない。
10時まで議論をつづけて、やっと、どうにか友達をなだめ、すかして、説き伏せた。
誕生会は、夜中に行われた。
妹の、バースデーケーキを食べ終えたころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。
祝宴に列席していた友達たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺こらえ、陽気に歌をうたい、手を拍うった。
丞太郎も、満面に喜色(きしょく)を湛(たた)え、しばらくは、校長とのあの約束をさえ忘れていた。
誕生会は、真夜中過ぎていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。
丞太郎は、一生このままここにいたい、と思った。 この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。
ままならぬ事である。
丞太郎は、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。
あすの日没までには、まだ十分の時が在る。 ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。
その頃には、雨も小降りになっていよう。
少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。 丞太郎ほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。
今宵呆然、歓喜に酔っているらしい妹に近寄り、
妹は、夢見心地で首肯(うなず)いた。
丞太郎は、それから友達の肩をたたいて、
友達は揉(も)み手して、てれていた。
丞太郎は笑って友達たちにも会釈して、宴席から立ち去り、自分の部屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。
眼が覚めたのは翌る日の薄明(はくめい)の頃である。
丞太郎は跳ね起き、
南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う
きょうは是非とも、あの校長に、人の信実の存するところを見せてやろう。
そうして笑って校長室のテーブルに上ってやる。
丞太郎は、悠々と身仕度をはじめた。
初夏、満天の星である。
丞太郎はその夜、一休みもせず500メートルの路を急ぎに急いで、家へ到着したのは、19時、陽は既に沈んで、妹は寝る準備をはじめていた。
よろめいて歩いて来る兄の、疲労こんぱいの姿を見つけて驚いた。
そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。
丞太郎は無理に笑おうと努めた。
妹は頬をあからめた。
丞太郎は、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのは夜だった。
丞太郎は起きてすぐ、招待する友達の家を訪れた。 そうして、少し事情があるから、誕生会を今晩にしてくれ、と頼んだ。
妹の友達は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、シークワーサーの季節まで待ってくれ、と答えた。
丞太郎は、待つことは出来ぬ、どうか今晩にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。
妹の友達も頑強であった。 なかなか承諾してくれない。
10時まで議論をつづけて、やっと、どうにか友達をなだめ、すかして、説き伏せた。
誕生会は、夜中に行われた。
妹の、バースデーケーキを食べ終えたころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。
祝宴に列席していた友達たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺こらえ、陽気に歌をうたい、手を拍うった。
丞太郎も、満面に喜色(きしょく)を湛(たた)え、しばらくは、校長とのあの約束をさえ忘れていた。
誕生会は、真夜中過ぎていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。
丞太郎は、一生このままここにいたい、と思った。 この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。
ままならぬ事である。
丞太郎は、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。
あすの日没までには、まだ十分の時が在る。 ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。
その頃には、雨も小降りになっていよう。
少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。 丞太郎ほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。
今宵呆然、歓喜に酔っているらしい妹に近寄り、
妹は、夢見心地で首肯(うなず)いた。
丞太郎は、それから友達の肩をたたいて、
友達は揉(も)み手して、てれていた。
丞太郎は笑って友達たちにも会釈して、宴席から立ち去り、自分の部屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。
眼が覚めたのは翌る日の薄明(はくめい)の頃である。
丞太郎は跳ね起き、
南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う
雨も、いくぶん小降りになっている様子である。
身仕度は出来た。
さて、丞太郎は、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
私は、今宵、退学にされる。
退学にされる為に走るのだ。
身代りの友を救う為に走るのだ。
校長の奸佞邪智(かんねいじゃち)を打ち破る為に走るのだ。
走らなければならぬ。
そうして、私は退学にされる。
若い時から名誉を守れ。
さらば、ふるさと。
若い丞太郎は、つらかった。
幾度か、立ちどまりそうになった。
えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。
家を出て、墓を横切り、柵をくぐり抜け、郵便局の前に着いた頃には、雨も止(や)み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。
丞太郎は額の汗をこぶしで払い、
ここまで来れば大丈夫、もはや家への未練は無い。
妹たちは、きっと佳い親友になるだろう。
私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。
まっすぐに校長室に行き着けば、それでよいのだ。
そんなに急ぐ必要も無い。
ゆっくり歩こう
ここまで来れば大丈夫、もはや家への未練は無い
持ちまえの呑気(のんき)さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。
ぶらぶら歩いて10メートル行き15メートル行き、そろそろ全里程(ぜんりてい)の半ばに到達した頃、降って湧わいた災難、丞太郎の足は、はたと、とまった。
見よ、前方の道路を。
きのうの豪雨で信号は故障し、濁流滔々(だくりゅうとうとう)と車は連なり、猛勢一挙に横断歩道を占拠し、ビービーと響きをあげるクラクションが、木葉微塵(こっぱみじん)にイライラを喚(わめ)きちらしていた。
彼は茫然と、立ちすくんだ。
あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、信号は残らず故障して光らず、交通整備員の姿も見えない。
自動車の流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。
丞太郎は道路のそばにうずくまり、男泣きに泣きながらご先祖様に手を挙げて哀願した。
ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う車の流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、校長室に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために退学になるのです。
自動車の濁流は、丞太郎の叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。
車は車を呑み、捲(ま)き、クラクションで煽(あおり)立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。
今は丞太郎も覚悟した。
渡り切るより他に無い。
ああ、ご先祖様も照覧あれ! 渋滞の濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。
丞太郎は、ざんぶと車の流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う車を相手に、必死の闘争を開始した。
満身の力を腕にこめて、押し寄せスレスレを横切る流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅(ししふんじん)の人の子の姿には、御先祖様も哀れと思ったか、ついに憐愍(れんびん)を垂れてくれた。
押し流されつつも、見事、対岸の歩道の脇に、すべり込む事が出来たのである。
ありがたい。
丞太郎は馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。
一刻といえども、むだには出来ない。
陽は既に西に傾きかけている。
ぜいぜい荒い呼吸をしながら坂をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊のヤンキーが躍り出た。
ヤンキー
丞太郎
ヤンキー
丞太郎
ヤンキー
さては、校長の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。
ヤンキーたちは、ものも言わず一斉に角材を振り挙げた。
丞太郎はひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その角材を奪い取って、
丞太郎
と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って坂を下った。
一気に坂を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱(しゃくねつ)の太陽がまともに、かっと照って来て、丞太郎は幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。
立ち上る事が出来ぬのだ。
天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。
ああ、あ、車の濁流を泳ぎ切り、ヤンキーを三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来た丞太郎よ。
真の勇者、丞太郎よ。
今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。
愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて退学にされなければならぬ。
おまえは、稀代の不信の人間、まさしく校長の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫いもむしほどにも前進かなわぬ。
路傍のタイル床にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。
もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。
私は、これほど努力したのだ。
約束を破る心は、みじんも無かった。
ご先祖様も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。
動けなくなるまで走って来たのだ。
私は不信の徒では無い。
ああ、できる事なら私の胸を截(た)ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。
愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。
けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。
私は、よくよく不幸な男だ。
私は、きっと笑われる。
私の一家も笑われる。
私は友をあざむいた。
中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。
ああ、もう、どうでもいい。
これが、私の定った運命なのかも知れない。
海留(かいる)よ、ゆるしてくれ。
君は、いつでも私を信じた。
私も君を、欺かなかった。
私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。
いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。
いまだって、君は私を無心に待っているだろう。
ああ、待っているだろう。
ありがとう、海留。
よくも私を信じてくれた。
それを思えば、たまらない。
友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。
海留、私は走ったのだ。
君を欺くつもりは、みじんも無かった。
信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。
車の濁流を突破した。
ヤンキーの囲みからも、するりと抜けて一気に坂を駈け降りて来たのだ。
私だから、出来たのだよ。
ああ、この上、私に望み給うな。
放って置いてくれ。
どうでも、いいのだ。
私は負けたのだ。
だらしが無い。
笑ってくれ。
校長は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。
おくれたら、身代りを退学にして、私を助けてくれると約束した。
私は校長の卑劣を憎んだ。
けれども、今になってみると、私は校長の言うままになっている。
私は、おくれて行くだろう。
校長は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。
そうなったら、私は、退学するよりつらい。
私は、永遠に裏切者だ。
地上で最も、不名誉の人種だ。
海留よ、私も退学するぞ。
君と一緒に退学させてくれ。
君だけは私を信じてくれるにちがい無い。
いや、それも私の、ひとりよがりか?
ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。
家には私のベッドが在る。
猫も居る。
妹と友達は、まさか私を家から追い出すような事はしないだろう。
正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。
他人を退学にして自分が在校する。
それが人間世界の定法ではなかったか。
ああ、何もかも、ばかばかしい。
私は、醜い裏切り者だ。
どうとも、勝手にするがよい。
やんぬる哉な。
――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
ふと耳に、潺々(せんせん)、水の流れる音が聞えた。
そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。
すぐ足もとで、水が流れているらしい。
よろよろ起き上って、見ると、コンクリートの裂目から滾々と、非常用蛇口から水が湧き出ているのである。
その蛇口に吸い込まれるように丞太郎は身をかがめた。
蛇口に直接くらいついて、一くち飲んだ。
ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。
歩ける。
行こう。
肉体の疲労恢復(かいふく)と共に、わずかながら希望が生れた。
義務遂行の希望である。
わが身を殺して、名誉を守る希望である。
斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。
日没までには、まだ間がある。
私を、待っている人があるのだ。
少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。
私は、信じられている。
私の命なぞは、問題ではない。
死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。
私は、信頼に報いなければならぬ。
いまはただその一事だ。
走れ! 丞太郎。
私は信頼されている。
私は信頼されている。
先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。
悪い夢だ。
忘れてしまえ。
五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。
丞太郎、おまえの恥ではない。
やはり、おまえは真の勇者だ。
再び立って走れるようになったではないか。
ありがたい!
私は、正義の士として退学する事が出来るぞ。
ああ、陽が沈む。
ずんずん沈む。
待ってくれ、ご先祖様よ。
私は生れた時から正直な男であった。
正直な男のままにして退学させて下さい。
路行く人を押しのけ、跳はねとばし、丞太郎は黒い風のように走った。
校門前で部活の、その筋トレのまっただ中を駈け抜け、筋トレ中の野球部員たちを仰天させ、落ちてるボールを蹴けとばし、水たまりを飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。
一団のサッカー部員と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。
サッカー部員
ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。
その男を退学させてはならない。
急げ、丞太郎。
おくれてはならぬ。
愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。
風態なんかは、どうでもいい。
丞太郎は、いまは、ほとんど全裸体であった。
呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。
見える。
はるか向うに小さく、古堅(ふるげん)中学校の校門が見える。
校門は、夕陽を受けてきらきら光っている。
???
うめくような声が、風と共に聞えた。
丞太郎
丞太郎は走りながら尋ねた。
ヒロヤス
その若い帰宅部員も、丞太郎の後について走りながら叫んだ。
ヒロヤス
丞太郎
ヒロヤス
丞太郎
丞太郎は胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。
走るより他は無い。
ヒロヤス
丞太郎
ヒロヤス
言うにや及ぶ。
まだ陽は沈まぬ。
最後の死力を尽して、丞太郎は走った。
丞太郎の頭は、からっぽだ。
何一つ考えていない。
ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。
陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、丞太郎は疾風の如く校長室に突入した。
間に合った。
丞太郎
と大声で校長室の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉のどがつぶれて嗄しわがれた声が幽(かす)かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。
すでに退学処分の書類がテーブルの上にのせられ、校長が手にした印鑑は、徐々に下げられてゆく。
丞太郎はそれを目撃して最後の勇、先刻、車の濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、
丞太郎
と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに校長室にたどり着き、押されようとしている印鑑を持つ腕に、齧(かじ)りついた。
群衆は、どよめいた。
あっぱれ。
ゆるせ、と口々にわめいた。
海留の縄は、ほどかれたのである。
丞太郎
丞太郎は眼に涙を浮べて言った。
丞太郎
海留は、すべてを察した様子でうなずき、校長室一ぱいに鳴り響くほど音高く丞太郎の右頬を殴った。
殴ってから優しくほほえみ、
海留
丞太郎は腕にうなりをつけて海留の頬を殴った。
丞太郎
海留
二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
群衆の中からも、歔欷(きょき)の声が聞えた。暴君校長は、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
校長
どっと群衆の間に、歓声が起った。
万歳、校長万歳。
ひとりの少6女が、緋のマントを丞太郎に捧げた。
丞太郎は、まごついた。
佳き友は、気をきかせて教えてやった。
海留
勇者は、ひどく赤面した。
(古伝説と、ヨーコの詩から。)