その者を「蝶(ちょう)」に例える者は多かった。
羽をもがれ飛び立つ事が叶わずに、ただ空を見上げるだけの哀れな蝶。
しかしその姿は、その者が持つ千を越える人格の1つに過ぎない。
その者は立派な「捕食者」である。
その者の、真の姿を例えるなら____蜘蛛。
類い稀なる演技力とコミュニケーション能力で、どんな敵の懐にも侵入し
蜘蛛の糸で絡めるが如く、時間をかけて敵を籠絡(ろうらく)して いく。
内部からの暗殺を得意とする
その殺し屋の名前は
「スパイダー」。
また今日も、祖父が あの女の子を寝室に上げている。
あの女の子って言うのは、祖父が興してる事業に最近入った女の子。
家が貧しくて、あと祖父の経営能力を慕って、 まだ15歳なのに働きに出てるらしい。
__祖父は早くに妻を亡くして、寂しいのか何なのか、よく若い女の子を寝室に上げている。
大人達は、俺と兄達に、祖父の寝室に近づく事を固く禁じた。
__でも気になる。 祖父が連れて来るあの15歳の女の子は、とても綺麗な人だから。
15歳ってまだまだ遊び足りない年齢なのに、働きに出て、祖父に肩を抱かれながら寝室に消えるあの女の子は
常に伏し目がちで 常に何か悲しそうだった。
そんな姿に、俺は子供ながら見とれてしまった。
__だから時々、言い付けを破って寝室の前まで来る。
女の子と祖父のよく分からない声が漏れ聞こえて来て、怖くなってすぐ逃げ出すんだけど。
その日は違った。
聞き耳を立ててる俺の前で、いきなり寝室の襖が開いた。
怒られる、と身を固くし目を瞑ったが __鼻を刺す血の匂いがして、目を開けた。
あの女の子が立っていた。 紅音(あかね)と言う名前の通り、
身体の左半分を紅く染めて、俺を見下ろしていた。
その顔に、いつも滲んでいた憂いの色は無い。 ___捕食者の顔だった。
紅音
紅音
女の子は顔にまでこびりついた紅を拭う事なく、廊下を進み3階の窓から躊躇なく飛び降りた。
俺は失禁していた。
血にまみれた寝室ではなく、紅音がいた空間から、目が離せなかった。
10年後
紅音
樋李ヶ谷(ひりがや)五平(ごへい)を殺した
紅音
紅音
白夜
俺は繋いでいた手をほどいた。
指先にはまだ、紅音の手の感触と暖かさが残っている。 しかし雪のちらつくこの外気では、長くはもたないだろう。
____あれから10年が過ぎ、俺は15歳になっていた。
俺は健気な孝行娘___ではなく数多(あまた)の経歴と名前を持つ殺し屋、紅音の下に弟子として働いていた。
時刻は丑(うし)の刻。 月光と雪に支配された橋の真ん中で、紅音が突如立ち止まった。
紅音
お前は殺しのリストに入っていなかった。だから殺さなかった
紅音
紅音
白夜
指先の暖かさが消えた。
さぁ思い留まらぬうちに_____
白夜
紅音を力強く抱きしめた。
白夜
紅音
俺の腕の中で、紅音が微笑む気配。 俺の背中にも紅音の腕が回り
首筋に冷たい感触。
紅音
俺は抱きしめると同時に、 懐に忍ばせていた短刀を、紅音の項(うなじ)に当てがっていた。
白夜
白夜
白夜
白夜
紅音
首筋の冷たい感触。 きっと俺の項にも、紅音の一番の武器である苦無(くない)が当てがわれている。
紅音
白夜
俺も捕食者__
白夜
紅音
白夜
白夜
糸はあんたを がんじがらめにした筈だった
白夜
白夜
紅音
月光と雪が支配する世界に、
血飛沫が舞った。
「本当か父さん。あいつが、紅音を殺すって」
「今日決行すると報せが来た。この辺りの筈だが」
「まさか俺達が死体回収の役回りなんてな」
「そうそう。あいつ演技力だけが取り柄で殺しは からっきしだったのにな」
「よく父さんに怒鳴られてたよな」
「あいつたぶん紅音の事好きだったんだぜ。復讐なんてしたくないって いっつも泣いてたし」
「ふん、くだらん。五平の仇が討てぬなら価値は無い。___で、あいつは、あの小娘の死体はどこだ」
「本当に現場はここなんだよな?」
「間違いねぇよ。ほら、血」
男が指さした先には、雪の絨毯に飛び散る大量の血。
そして2人分の足跡。
足跡は橋の欄干部で途絶えていた。
「あいつは?小娘の死体は? 探すんだお前ら」
橋の下の河では、波紋が静かに広がっていた。