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ジリリリリ…ジリリリリ…
目覚まし時計の音が部屋中に響き渡る。
カチ…
僕
僕
そうやって、 生きていることを嘆いて 僕の一日が始まる―――。
君と2人で屋上から身を投げ出した日、 確実に僕は一度死んだ。
心の臓が鳴り止む感覚を、 今でも鮮明に覚えている。
最後まで笑ってくれていた君の顔が、 脳裏に焼きついて離れない。
君の手を握る感触が薄れていく感覚も、 君の顔がぼやけていく様も、 全部本物だった。
それなのに、 僕は今こうして息をしている。
何事もなかったかのように、 朝を迎える。
どうしてこんなことに なってしまったんだろうか。
僕の心臓が鼓動を止めた後、 僕らはかけつけた救急車隊員によって すぐさま病院に運ばれた。
2人共に心肺停止の状態で、 一刻を争う状況だったらしい。
集中治療室に入るや否や、 電気ショックによる心配蘇生が 繰り返された。
とはいっても、 当然僕はそのことを全く覚えていない。
ここまでは、 全て僕を担当した医師が 教えてくれたものだ。
僕が再び目を開けたとき、 そこには真っ白な世界が広がっていた。
そうか。ここが天国なんだ。
僕は心の中で、そうやってひとり呟いた。
謎の声
聞き慣れない声が耳に鳴り響く。
謎の声
甲高く、耳に突き刺さるような声。 一体誰なんだ。
それから暫くして、 また違った聞いたことのない声が 聞こえてくる。
謎の声
次は野太くて腹に響くような声。 しかしどこか、 心が落ち着くような気がした。
ま…眩しい…
僕は咄嗟に目を細めた。
謎の声
野太い声の人が僕に語りかける。 次第に僕の目は光に慣れていった。
医師
野太い声の主は、 僕の手術を担当した医者だった。
そう。 僕が目を覚ました場所は、 病室のベッドの上だ。
そうか。 僕は3週間も眠り続けていたのか。
なにも、いいことなんてないですよ…
そう口に出そうとした瞬間、 声が思うように出ないことに 気づいて焦り出す。
声が出ない。 今まで当たり前だと 思っていたことがなくなることが、 こんなにも怖いだなんて 想像もしていなかった。
必死に口を動かすが、音にならない。 かすかに息が漏れるだけだった。
医師
躍起になっている僕を見て、 医師が声をかける。
コクコクッ…
首を激しく上下に動かす。 今できる精一杯の表現方法だ。
医師
医師
医師
そうだ。 あの日僕は屋上から身を投げた。 あれは紛れもなく現実だったようだ。
そのことを思い出した瞬間、 最後に聞いた救急車のサイレンの音が、 耳鳴りのように頭にこだまする。
うるさい。
そういえば、 君はあのあとどうなったんだろうか。
なにしろ僕は意識を取り戻すのに 3週間もかかってしまったんだ。
きっと君は 今頃普通の生活に戻っているんだろう。
僕と一緒に運ばれてきた女性は、 どうなったんですか?
必死に口を動かして伝えようとするが、 当然のことながら伝わらない。
こういったときのために 読唇術でも勉強しといてくれよと、 ひとり心の中で愚痴をこぼす。
だめか――――。
肩を落とした瞬間、 甲高い声をした女性が メモとペンを持ってきて、 医師にそっと手渡した。
きっと彼女は看護師なんだろう。
医師
医師が僕の目を見て問いかける。
すぐさま指の先へと軽く力を入れてみた。 まるで自分の身体ではないかのように、 ピクリとも動かない。
今度は力を振り絞って 全神経を指先へと集中させてみると、 かろうじて動かすことができた。
無意識に涙が溢れ落ちていることに、 僕にかけられたシーツを見て気がつく。
情けない。
医師
コクッ…
僕は医師の目を見て小さく頷いた。
医師
そういって、 医師は僕に紙とペンを差し出した。
君は無事なんだろうか。 今はどこにいるんだろうか。 僕とは違って話せる状態だといいな。
そんな淡い期待を込めて、 言うことの聞かない手でペンを走らせる。
聞きたいことにペンが追いつかない。 一文字を紙に記すのに とてつもなく時間を要する。
途方が暮れるようなこの瞬間も、 医師は静かに僕を見守ってくれていた。
やっとの思いで書き終えた紙を見返すと、自分でも何が書いてあるかわからないほどに震えていた。一か八か。医師に紙を手渡す。
その瞬間、 医師の表情が凍りついた―――。
どうしたんだろう。 やっぱりこんなにも汚い字だと 読めないんだろうか。
医師
医師が僕の瞳を見つめながら確認する。 どうにか理解してくれたようだ。
コクッコクッ…
再び僕は首を激しく上下に動かし、 意思表示をした。
その瞬間、 そっと医師が僕の瞳から目を逸らした。
医師
よかった。 やっぱり君もここへ来ていたんだね。
と安堵したことも束の間、 医師が言葉を続ける。
医師
医師
医師
医師の声は、震えていた。
この人は、相当心が綺麗なんだな。 見ず知らずの男女のために、 最大限のベストを尽くしてくれたことが、 声色と表情から伝わってきた。
いや。まてよ。 今僕はこうして目覚めているのだから、 僕が息を吹き返したことなんて、 そんなことはわかっている。
僕が知りたいのは、 君がどうなったかということだけなんだ。
医師
医師
医師
頭の整理が追いつかない。 突然頭が真っ白になる。
君はもうこの世にいない? もう二度と会うことができないのか―――?
いや。そんなはずはない。 少し前まで2人で話していたじゃないか。
最後に見た顔だって、 幸せそうに笑っていたじゃないか。
また、全てをリセットした状態で、 あの世で2人で一緒に暮らす。 そう決めてあの日僕らは身を投げたはずだ。
なのに僕だけが生き残ってしまっている。 そんなことはあってたまるもんか。
頭の中に変わらず響き渡る 救急車のサイレンの幻聴とも相まって、 僕の命を吹き返した医師に腹が立つ。
こんなことになってしまうなら、 手術なんてしてくれない方がよかった。 この手が何不自由なく動くもんなら、 ぶん殴ってやりたい気分だ。
医師
そうやって僕が考えている間にも、 医師はずっと僕に謝り続けていた。
よく見ると、 医師の拳は爪が食い込むくらいに 強く握り込まれ、小刻みに震えていた。 そっと視線を顔に移すと、 目には涙が溢れていた。
その光景を見た瞬間、 僕の心に芽生えていた怒りは 徐々におさまり、 やがて落ち着きを取り戻した。
この医師は、 僕ら2人ともに平等に 最大限の処置を施したはずだ。 たまたま僕だけが 息を吹き返してしまっただけじゃないか。
言葉が出ない、手さえ思うように 動かすことができない僕は、 ただ見上げることしかできなかった。
ここでは当然星なんか見えない。 僕は君と最後に見た あの星空を想い返しながら、 真っ白いコンクリートの天井に 重ね合わせた―――。
そこから1年間、 長く苦しいリハビリに 耐え続ける日々が始まった。
最初は思うように力が入らず ペンすらまともにもてなかった手も、 退院する頃には 箸を使って自分の力で ご飯を食べられるくらいには回復していた。
脚に至っては、 脛骨だけでなく大腿骨まで砕けていたため、激痛で最初は動かすことすら困難だった。 しかし今では、 腕もだいぶ回復したおかげで、 松葉杖を使って自分の意思で 動き回れるようになっている。
入院中の僕は、 どうしようもない感情に 日々精神を削られていた。
毎朝目を覚ます度に、自分だけが 生きながらえていることを後悔する。
毎日看護師がカウンセリングに 病室へやってきて、 リハビリを繰り返すだけの日々。
看護師だとか医師だとか、 毎日同じ人間としか顔を合わせない。
僕には家族なんていない。 幼い頃に両親は他界している。 親戚だって誰もいない。
たったひとりの家族だった 君を亡くしたことで、 僕の心は憔悴しきっていた。
車椅子で動き回れるようになってからは、 窓から飛び降りようとしたことだって 何度もあった。
病院にはとてつもない迷惑を かけているはずなのに、 誰も僕を叱ろうとしない。 優しい言葉をかけて、 僕のことを慰めようとする。
誰も何もわかっちゃいない。 そんなことをしたって、 僕の気持ちが晴れるはずもないのに。
なにはともあれ、 僕は1年間の長い病院生活を終え、 今では市の職員から紹介された 小さなアパートの一階で一人暮らしている。
何でも、隣の部屋に住んでいる 大家さんが元職員らしい。
今でも毎朝味噌汁を作って 持ってきてくれる優しいお婆さんだ。
塩分控えめでわかめしか 入っていない味噌汁。 貧乏臭いが、どこか温かく、 懐かしい匂いのする味噌汁。
僕の1日は、 毎朝大家さんと顔を合わせて 体調や精神に異常がないか質問されて、 昼に味噌汁を食べるだけで大半を終える。
僕の暮らす部屋は、 全くと言っていいほど家具もなく、 内見に訪れた空き部屋のように殺風景だ。
テレビなんていらない。 君が隣で一緒に見ていない テレビなんてつまらない。
スマホだって、 あの日君と身を投げる前に 解約してしまっている。
味噌汁を食べ終わった後は、 頭の中に微かに残っている 君との記憶を繋ぎ合わせて、 空を見ながら思い出に耽る。 これが僕の日課だ。
夜は、僕が一番苦手な時間だ。 夜の星が視界に入る度に、 飛び降りた日の記憶が 走馬灯のように頭の中を駆け巡り、 震えが止まらなくなる。
酷い時には、暴れ出したり、 発狂したり、激しい目眩によって 気を失うことだってある。
その度に大家さんが 様子を伺いに来てくれるのだが、 酷い症状のときには 何度か殺しかけたことさえあった。
まさか自分が こんな病気になってしまうとは、 生涯で一度たりとも思っていなかった。
でも、この病気になって 分かったことだってある。
精神病の辛さ。怖さ。苦しさ。
君は今までこんなに苦しい世界で 生き抜いてきてたんだね―――。