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東夜は気が付けば、住宅地に居た。
とにかく駆けた。 景色は網膜の上を通り過ぎるだけで、意味をなさない。
人、自転車、車、壁、信号…… それらは脳内で記号化され、進行方向に立ち塞がる障害物でしかない。
東夜は本気でそう思った。
なぜ、俺は走っているんだ?
なぜ、俺は逃げているんだ?
逃げている?
………そうなのか
俺はいま 逃げているのか
東夜は日常から逃げ出したことを、初めて自覚した。
走っていると、前にジョギングをする中年の女性がいた。
女を追い越す時、東夜はその顔を見た。
その女もこちらを見てきた。 視線がぶつかるのを意識した。
しかし、東夜はすぐに視線を外した。
その目には何も、何者をも映していなかったからだ。
東夜は吐き気を覚える。
やはり、日常に本質なんてない
……
記号が多い
多すぎて処理が追いつかない
早く、早く逃げ出したい
東夜は気が付けば、電車に乗り込んでいた。
別段、目的地を定めているわけでもない。とりあえず乗ったのだ。
電車内は人で溢れかえり、空間という言葉はミクロサイズでしか通用しないものなのではないかと、半ば疑った。
実態を構成する「顔」という記号を見てみる。サラリーマンも、老人も、高校生も、ちゃらついた男も、全員が真顔だった。
それはそうなのだ。皆、目的地に向かうまでは特に面白い事だってない。 ましてや、電車内で何もないのに笑っている人間の方が恐ろしい。
東夜だって、満員電車なんて毎日乗って、同じように表情に色を灯さずに登校していた筈なのだ。
しかし今は、そのどれもが歪に見えてならない。
とてつもなく、恐ろしい事のように思えた。
東夜は異物を見る目で周りを見渡し、己の考えに耽った。
どいつもこいつも
本質がないじゃないか
無意味だ
こんなもの達に存在価値はない
でも、俺は違うはずだ
それまではそうだったとしても 少なくとも、今は違う
意味のある行動なんだ
絶対に
絶対に……
三井東夜
三井東夜
思わず声が出てしまった。
周りの記号は訝しみ、ミクロサイズの空間はマクロサイズに開かれた。
東夜自身も驚いたが、一瞬後には軽く謝罪をし、俯き加減に地面を見つめた。
記号達は様子を伺っているようだったが、やがて何か理由でもつけて合理化し、またミクロな集合へと戻った。
東夜は車内の床にへばり付いた、汚いコンクリートの欠片を見つめながら、少し笑った。
何だよ
出来るんなら
最初から空けておけよ
東夜は満足した。
……
なぜ人は 飛び立とうと考えたんだ
飛んでどうにかなるものなのか
分からないな
東夜は気が付けば、空港に居た。
もう既に、受付を済ませて航空券を取っていた。目的地など上の空で、目に入ったものを選んだ。 そのことに気付いて、手に持っていた航空券の文字を目で追っていくと、四国の某県に到着予定となっている。
別にどうでも良かったので、雑に航空券を仕舞ってしまった。
???
ため息。
東夜は隣の席の男を見た。
スーツにきっちりと身を固めて、手には何やら書類らしきものを持っている。 それを一生懸命に眺めている姿は、一目で度がつくほどの真面目だという印象を与える。
一見して歳は東夜よりも上であろうが、対して変わりそうにもなかった。 まだ、20代に違いない。
こいつは
記号じゃないのか?
東夜は、胡乱な眼で話しかけた。
三井東夜
???
三井東夜
???
三井東夜
???
三井東夜
???
三井東夜
唐突に話しかけた割には、特に驚いた様子もなく男は返答した。
東夜は男のリアクションに対してなんの評価も与えず、そのまま独り言を言うかのように語った。
三井東夜
???
???
三井東夜
三井東夜
三井東夜
???
三井東夜
そこで東夜はようやく、いまの状況に少しだけ違和感を持った。 だから、常識というツールを突然に使ってみた。
三井東夜
???
男は快活にそう言った。 今時、こんな人間は珍しいと思い、少しだけ興味が湧いてくる。
東夜は押されるように、 1人の思想家の奇妙な説を淡々と聞かせてみた。
「胡蝶の夢」 それは途方もない思索の一つだ。
ある時、荘子は夢を見た。
夢の中で荘子は蝶になり、舞っていた。 自由奔放に、ただそこに存在した。
しかし荘子が起きてみると、 そこには人の体をして毎日を生きている自分がいる。
それなら、先程の蝶としての自分は、ただの夢だったのかと理解した。
理解した……と、思っていた。 しかし考えてみるに、人間として存在している今こそが、本来蝶として生きている自分が見ている夢なのではないか。
いや、そんなはずはない。 やはり先程の蝶として舞っている自分は夢であり、今ここに存在しているのが真実。
いや待て、それは本当に………
これが、胡蝶の夢である。
思索というより、ただ答えがないものに問いかける自己問答。 真に、そこには何もない。
それを経て得る対価もないし、時間の無駄だと吐き捨てる境地にいるのなら、まだまだ浸りきっていない。
利益もないし損害もない。 思想の蓄えになるかと言われれば、胡蝶の夢を彷徨い続けても何もない。
辿り着く先は、アイデンティティの喪失である。
それを損害と考えるのは、個人の思い込みでしかないはずだ。
東夜は自身の意見も交えて説明した。
三井東夜
???
三井東夜
???
???
三井東夜
???
三井東夜
三井東夜
???
???
三井東夜
???
三井東夜
好奇の目で東夜はこの男を観察した。
???
三井東夜
???
三井東夜
???
はっきりとした声音であった。
少しだけ、萎縮する。
三井東夜
???
三井東夜
東夜は理由もわからぬままに、酷くその言葉の並びに狼狽した。
???
???
男は柔和に笑んだ。
それから右ポケットをゴソゴソとまさぐり、懐中時計を取り出した。
???
???
そこで男は思い出したように 名刺を取り出して、東夜の手に渡した。
???
三井東夜
しかし、今の東夜はそれどころではなかった。
受け入れる……寛容……自由……
俺は?
俺は 蝶なのか 人なのか
本質がどこにあったのか見失った
ダメだ
???
ダメだ
???
呼ばれてゐる
俺?
俺……
俺は
俺は
三井東夜
三井東夜
???
三井東夜
???
三井東夜
大声で喚いた。
目の前の男も、周りを行き交う客も不審な目で東夜を見た。
違う
歪なのはお前らだ
俺は記号なんかじゃない!!
本質は、俺にあるんだ!!
唐突に搭乗口まで駆けていった。 まだ離陸までの時間はあったが、どちらでもいいことだった。
男が後ろで何かを言っているが、東夜は無視して駆けた。
幾分と。
幾分と爽快な気分だった。
……
眠いな
気付けば、離陸していた。
窓外には呆れるほどの晴天。 しかし、少し前の激昂とは一転して、東夜の心境は穏やかだった。
空に浮かんでいる間、気が紛れた。
リラックスしている時、ふと手で握っているものにようやく気付いた。
力が込められていたためか、その紙はくしゃくしゃに折れていた。
……さっきの男の名刺か
折れた箇所を気休めに直して、そこに印字されていた文字を読み取った。
……知らない
興味もなくなった
もう、記号でしかないのだから
東夜はその名刺を 無造作にポケットにしまった。
名刺には、野嶋隆と記されていた。