語り手
短刀を鞘へ収めて右脇へ引きつけておいて、それから全伽(ぜんが)を組んだ。
語り手
――趙州(じょうしゅう)曰く無と。
語り手
無とは何だ。
語り手
糞坊主めとはがみをした。
語り手
奥歯を強く咬み締めたので、鼻から熱い息が荒く出る。
語り手
こめかみが釣って痛い。
語り手
眼は普通の倍も大きく開けてやった。
語り手
懸物が見える。
語り手
行灯が見える。
語り手
畳が見える。
語り手
和尚の薬缶頭がありありと見える。
語り手
鰐口を開(あ)いて嘲笑った声まで聞える。
語り手
怪しからん坊主だ。
語り手
どうしてもあの薬缶を首にしなくてはならん。
語り手
悟ってやる。
語り手
無だ、無だと舌の根で念じた。
語り手
無だと云うのにやっぱり線香の香がした。
語り手
何だ線香のくせに。
語り手
自分はいきなり拳骨を固めて自分の頭をいやと云うほど擲(なぐ)った。
語り手
そうして奥歯をぎりぎりと噛んだ。
語り手
両腋(りょうわき)から汗が出る。
語り手
背中が棒のようになった。
語り手
膝の接目(つぎめ)が急に痛くなった。
語り手
膝が折れたってどうあるものかと思った。
語り手
けれども痛い。
語り手
苦しい。
語り手
無はなかなか出て来ない。
語り手
出て来ると思うとすぐ痛くなる。
語り手
腹が立つ。
語り手
無念になる。
語り手
非常に口惜しくなる。
語り手
涙がほろほろ出る。
語り手
ひと思いに身を巨巌(おおいわ)の上にぶつけて、
語り手
骨も肉もめちゃめちゃに砕いてしまいたくなる。
語り手
それでも我慢してじっと坐っていた。
語り手
堪えがたいほど切ないものを胸に盛(い)れて忍んでいた。
語り手
その切ないものが身体中の筋肉を下から持上げて、
語り手
毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと焦るけれども、
語り手
どこも一面に塞がって、まるで出口がないような残刻極まる状態であった。
語り手
そのうちに頭が変になった。
語り手
行灯も蕪村の画も、畳も、違棚も有って無いような、
語り手
無くって有るように見えた。
語り手
と云って無はちっとも現前しない。
語り手
ただ好加減に坐っていたようである。
語り手
ところへ忽然隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。
語り手
はっと思った。
語り手
右の手をすぐ短刀にかけた。
語り手
時計が二つ目をチーンと打った。
終り