あかり(you)
かえで
もしかして知り合い……かな?
あかり(you)
かえで
本当に思い出せないんだよね
かえでの口から放たれる言葉の1つ1つが、 鉛のように重くのしかかる
"思い出せない"って、一体どういうこと?
目の前にいるかえでは間違いなく私が 知っている彼そのもので、 頭や腕に包帯を巻かれていて痛々しい ところはあるけれど、 それでも変わらない…… ちゃんと私の婚約者だ
あかり(you)
かえで
分からない
何が起こっているのか理解できない
……いや、 正しくは理解したくないだけ なのかもしれない
バッグを持つ力さえ失って、 ゴトッと鈍い音を立てて転がった
理解していないはずなのに、 手の震えがおさまらない これはかえでの悪い冗談だって 言い聞かせているのに、 全然笑えない
あかり(you)
かえで
あかり(you)
かえで
ここ病院だけど実は今仕事をしていてね
これから電話も1本入れなくちゃならないんだ
あ、ほら、俺事故に遭って1週間ずっと意識なかったらしくて、
仕事が大量発生しちゃっていてね
……知ってるよ
大手総合商社の仕事に勤めていて、 今は大きなプロジェクトを 抱えているんでしょ?
かえでの同期であり友人でもある えいたさんも一緒に携わっていて、 大変だけど楽しいって言ってたじゃない
かえでのことなら大抵知ってるんだよ
だってあなたは……、 1週間前までのあなたは私に 何一つ隠し事をしなかったから
かえで
だけど今はまだ思い出せそうにないから
あかり(you)
かえで
本当に、ごめんね
いやだッ やめて、やめて
これ以上かえでの口から 何も聞きたくなくて、 震えが止まらない両手で耳を塞ごうとした
その時
ガシャンッと部屋中に響いた、 ガラスの割れる音
その音の方へ振り向くと、 病室の入口に立っていたのは かえでのお母さんだった
大きく目を見開いて、 手から滑り落ちたであろう床に散らばった花瓶には見向きもせず、 ただかえでの顔を怪訝そうに見つめていた
かえでの母
今、なんて言ったの?
かえで
俺拾うから、そこ動かないで
かえでの母
かえで
ベッドから降りてゆっくりと こちらへ歩いてくるかえでは、 私を横目に見ながらそう問う。
カチャッ、カチャッと1つずつ破片を拾っていく彼の背中を見て……悟った
かえでには私の記憶が……ない
その赤の他人を見る目と同じ かえでにとって今の私は、他人なんだ
かえでが横を通り過ぎたときに感じた、 私との身長差も、匂いも、髪型も、 何一つ変わってはいないのに だけどそこには温かさがなかった
かえでとの"別れの時"について 考えたことがある
とくに付き合い始めたばかりのあの頃は、 かえでと私が別れる原因はなんだろうと 夜な夜な考える日も多くあった
それはかえでには常に たくさんの選択があったから
彼が勤めている会社の名前だけで 数倍モテると聞いたことがあるし、 加えてあの容姿は世の中の女性の目を 引いてしまうようなつくりになっている
"私"と"私以外"という道があまりに多くて、 いつ訪れるか分からない別れを勝手に覚悟していた
そんな不安を消し去ってくれたのは、 かえでの私に対する一途な想いだった
どんな誘惑にも一切振り向かないで、 いつだって私を1番に優先して 考えてくれた、 彼の想いと行動が浮き出るすべての要素を取り除いてくれていた
かえで
愛してあげる"
付き合って1年目の記念日
ギュッと抱き締めながら言ってくれた あの言葉は……私の宝物
あかり(you)
だけどそれがなくなった今、 消え去ったはずの不安はここぞとばかりに襲ってくる
浮気や死別といったありふれた別れの原因を当てはめてみたことはあるけれど、 まさか記憶を失くして こんなことになるとは想像していなかった
かえで、私…… あなたと別れたくない
だってかえでのことをこんなにも 好きになってしまった
『私の記憶がないなら別れましょう』 だなんて潔く身を引くことが できないくらいに、 かえでのことを愛している
愛しているから、 突然他人になってしまった彼を見るのが 辛すぎた