テラーノベル
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強くさえあれば、自分を存分に発揮できる。 だから槙野は契約であっても結婚のことは隠すつもりはなかったし、美冬のことも大事にするつもりだ。たとえ美冬が自分に対して気持ちがなくても。
シャワーを浴びに行こうと思っていた槙野は、美冬がぎゅっと抱きついてくるので諦めた。
胸の中の美冬を抱き返す。
「全く……俺に我慢をさせるなんて、本当にお前くらいだぞ」
槙野はシャワーを諦めて胸の中の美冬を抱き直し、軽く目を閉じた。
悪い気分ではなかった。
嫌ではなかったと言っていたのだし、慣れてくればそのうちできるようになる。
仕事があれだけできる美冬なのだ、問題はないだろう、というのが槙野の判断だった。
* * *
「んー……」
美冬が目を開けると見覚えのない部屋だ。
いや、正確には見覚えはある。昨日の夜寝かされて、えっちなことをしそうになった槙野のベッドだ。
覚悟はしていたはずなのに、気持ちよすぎておかしくなるかと思った。
──ていうか、最初からあんなにおかしくなりそうになるものなの? すっごく、すっごくいやらしかったわ……。
それに槙野の槙野に触ってしまった。初めて触った男性に驚いてこんなの無理! と怖くなってしまったのだが、槙野は優しくしてくれた。
(本当に悪い人じゃないのよね)
けれど、事情があると槙野も言っていたのだ。
あの槙野が結婚しなくてはならないとは余程の事情なのだと思う。
それでも美冬には槙野を嫌いになることなんてできなかった。だって、ずっと抱きしめていてくれた。
その胸の中は安心するものでしかなかったのだから。
その時、ふわんと香ってきたのがコーヒーの香りだ。
美冬はベッドから降りてリビングダイニングに向かう。そっとドアを開けた。
パーカーにスウェットの槙野がキッチンで朝食を準備している。
「おはよ……」
「おう、おはよう。よく寝てたな」
「ごめんなさい、準備手伝わなくて」
「無理すんな。疲れてたんだろ。スクランブルエッグでもいいか?」
もちろんである。作ってもらって文句など言えるはずもない。
「手伝うよ」
「悪いな、じゃあパンを準備してもらっていいか?」
キッチンはかなり広くて、槙野と美冬が横に並んでも作業できるくらいの広さがある。
横に来た美冬に槙野はパン切りナイフとカッティングボードとバゲットを渡す。
受け取った美冬は大きさを槙野に聞きながら、パンをカットして、トースターに入れた。
その間にも槙野は慣れた様子でボールに玉子を割入れ鼻歌混じりにカシャカシャと菜箸で掻き回している。
「すごいわね。祐輔はお料理得意なの?」
「得意ではないな。普通のもんを普通に作れるだけ。だいたいパンを焼いたり、サラダを準備したりは料理できなくても簡単だろう」
「そっか、そうよね」
すでに盛り付けされている皿には厚切りのベーコンや、ソーセージも盛られている。
さすが肉食、と美冬は感心した。その時トースターからチン! と可愛らしい音がしたので、美冬は中からバゲットを取り出し皿に乗せる。
二人でテーブルセットして、ダイニングの椅子に座りいただきます、と手を合わせる。
「美冬、ミルクと砂糖は?」
「あ、欲しいかも」
「ん」
シュガーポットには紙で包まれている角砂糖が入っていて、ミルクも小さいピッチャーで出てきた。
そのセンスはああ、この人にはちゃんとお付き合いしていた彼女がいたんだろうなと思わせる。
それでも美冬は腹は立たなかった。
そうだろうなと納得するだけだ。
「美冬」
「んー?」
──やだ、ベーコンすごく美味しいし、スクランブルエッグとかふわとろなんだけど。
「美味しいもの食べてる時は本当に幸せそうだなお前は」
「え? だって幸せだもの」
「今日の予定。指輪買いに行って、うちの実家に帰りに寄ろう」
「じゃあ家に帰るわ」
「え?」
槙野は眉を顰める。
「だって、昨日のスーツのままだから着替えたいのよ」
「ああ……そうか。そうだな。車で送る」
「どうしたの?」
「いや、帰るって美冬が言うから」
「それは帰るけど。今日も帰るわよ」
「明日は日曜だろ」
「うん。でもデパートの催事があるの。別会場でのお得意様向けの催事だから少しだけ顔を出すつもり」
美冬はミルヴェイユの社長でもあるのだから。
「別会場? どこで」
「グランドパレスよ」
有名な一流ホテルである。
「そうか。忙しいんだな」
「それは祐輔もでしょ」
確かにそうだ。
お互いの忙しいことなど分かりきっていたことだし、だからこそ一緒になるのだとも言える。
「なあ、早く引っ越してこい」
「そうよね。祐輔の昨日の感じでは本当に忙しそうだし、私も時間があり余っているという訳じゃないから、ここに来ないと顔も見ないなんてことになりそうだものね」
槙野はゾッとした顔をした。
「本当に早く引越しの日取りを決めろ。俺がすぐにでも手配するから」
何を焦っているのだろうか。
「分かったわよ」
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