テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「ああ。亡くなったよ。俺が高校に入る直前にな」
黒宮さんの言い振りから、なんとなくそんな気はしていた。その『恩人』のことを話す時、黒宮さんは必ず懐かしむかのような顔をしていたから。
しかし、そんなにも大切な自転車をどうして私なんかに?
「どうした? あまりにもボロいから、やっぱりいらないとでも考えが変わったか?」
「そ、そうじゃないです……」
駄目だ。頭の中が上手く整理できない。本当にどうして私なんだ? 黒宮さんと知り合ったのは昨日の今日だというのに。普通、そんな人間に大切な物を譲ろうとするだろうか?
再び沈黙が訪れた。それを作ったのは黒宮さんではない。私だ。
「なんだよ黙り込んで。お前らしくもねえ」
「そ、そりゃ黙っちゃいますって。よく分からなくなっちゃったんです。私のことも、黒宮さんのことも」
「俺のこと? お前のことは分からねえが、俺の方だったら答えられるぞ? 何でもいいから言ってみろ」
「はい……。素直に言ってしまうと、どうして黒宮さんは私なんかにそんな大切な自転車を譲ろうと思ったんですか?」
「だから、さっき言っただろ。お前が使ってくれるならその恩人も本望だと思ったんだよ。それ以上でも以下でもねえ」
「それです。それなんです。私が分からないのは。どうしてその恩人さんが、私が使ってくれるならと思うんですか? 黒宮さんは私のこと、ほとんど知らないじゃないですか? だから『私』という人間がどういう者なのか判断なんてできないはずです」
「いや、知ってるぜ。ひとつだけな」
「ひとつ、だけ……」
「ああ、ひとつだけだ。お前は嘘を付かない奴だってことをな」
その口調は、今まで聞いてきた黒宮さんの言葉の中でも一番温かく、柔らかで、そして深い優しさを含んでいた。
「それで十分じゃねえのか? 人間なんて誰しもが表と裏を使い分けるが、お前は違う。ひっくり返しても同じなんだよ。表も裏も」
「ひっくり返す?」
「そうだ。裏表がないんじゃない。裏も表もある。だけど、それが両方とも同じなんだよお前は。だから嘘はつかねえ。いや、嘘がつけねえんだ。違うか?」
そう問われた私だけど、言葉が出てこなかった。私にだって裏表はある、はずだ。だって、人間だから。嘘は……確かにつかないかもしれない。けど……。
「……また黙りかよ。分かった。この自転車はいらねえってことだな。別の奴にでも譲ってや――」
「いります!!」
あまりにも大きな声だったからだろうか。黒宮さんは目を丸くして私を見つめた。
「いります!! 乗ります!! だから、私に譲ってください!!」
私は私で驚いた。どうしてここまでの大声を出したりしたんだろうか。
「私にもきっと裏表はあります。もしかしたら嘘だってつくかもしれません。だけど、譲ってほしいんです。乗りたいんです。だって、黒宮さんが大切にしてきたものだから」
背を向けていた黒宮さんはコチラを振り返る。それから私の目の奥を、瞳の奥を見る。不思議な感覚だった。何もかも見透かされ、丸裸にされたような気持ちだった。
「――本当にいいのか?」
「はい。女に二言はありません」
あまり耳にしない言葉だが、実際にそういった言葉は存在する。女性の意志の固さや誠実さを表す意味で。私には不釣り合いな言葉かもしれない。だけど、黒宮さんは言ってくれた。『お前は嘘はつけねえんだ』と。それは、黒宮さんが私のことを信用してくれていると同義だ。
それに、この自転車は黒宮さんの恩人が彼に譲ったもの。贈ったもの。大切なもの。
それを今、私に譲ってくれようとしている。使ってほしいと言ってくれている。断る? そんな理由がどこにあるっていうのか。そんなことは絶対にできないし、したくはない。
黒宮さんが大切にしてきたものを、今度は私が大切にする。
それが私にできる、昨日助けてくれたせめてものの恩返しだ。
黒宮さんは私の目を見つめ続ける。私の心の中にある、秘められた気持ちを読み取るようにして。汲み取るようにして。
そして、彼はゆっくりと口を開いた。
「――ありがとうよ」
私の心の中にある全ての全てを持っていかれてしまった。
彼が。黒宮さんが、私に初めて贈ってくれた笑顔を見て。
その笑顔は少し不器用だったけど、でも、優しさに溢れ、穏やかで、だけどやっぱりどこか陰のある、とても不思議で、とても素敵な、そんな笑顔だった。
これからも、ずっと見ていきたいと思った。たくさん、たくさん見たいと思ってしまった。
黒宮さんの笑顔を。
「んじゃ、さっさと終わらせちまうか。おい、とりあえず乗れ。一応、サドルの位置は確認したが、乗らなきゃ分からねえ」
「え? は、はい!」
――それから、黒宮さんはサドルの位置を合わせ直してくれたり、再度、ブレーキを確認してくれたりした。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いても、私達はそのまま自転車の調整を続けた。
きっと、先生から怒られるであろうことは容易に想像がつく。
だけど、それでもいいと思えた。
大切な宝物を譲ってもらえるなら。
【続く】