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柴田さんの家は、アパートの一室だった。学校から歩いて10分。学校とアパートまでには、スーパーやショッピングモールが立ち並ぶ。いわゆる、好立地のアパートだ。
柴田さんは、手馴れた手つきで鍵を開けると、どうぞ、と扉を開けてくれた。
「お邪魔します」
家に入ると、少し甘ったるい匂いがした。何の匂いか分からずに、鼻をスンスンとさせていると、
「あ、……あんまり、匂い……嗅がないで」
と、扉を閉めた柴田さんに止められた。
家は1Kだった。どうやら一人暮らしらしく、キッチンには冷蔵庫、食器棚、炊飯器、電子レンジと、その他もろもろの調理器具が。居室には、ベッド、机と椅子、大量の本が入った棚、服などが入っているプラスチックケースなど。それぞれ綺麗に整頓されている。
「柴田さんは一人暮らし?」
中学生で一人暮らしは珍しいので、思わず尋ねる。柴田さんはちょっと困ったような顔をして
「……うん」
と小さな声で言った。
「で、……話しって、何、話せば、いいの?」
柴田さんが言うその言葉で、私は目的を思い出す。
そうだ、私は柴田さんと話しをしに来たんだった。
だが、どうしよう。話すネタがない。ただのクラスメイトなら、適当に話を合わせればやり過ごせるが、相手は柴田さんだ。柴田さんから話しかけてくることはないだろう。
そう考えていると、柴田さんは鞄と買い物袋を床に降ろし、キッチンに向かった。
「なにするの?」
私は分からずに言う。台所に行って何をするのか、本当に分からなかったのだ。これには、柴田さんが答えを教えてくれた。
「い、言ったでしょ……パンケーキ、つくるって……」
柴田さんはそれだけ言うと、壁にかかっていたエプロンを着て、パンケーキを作り始めた。
特にすることもないので、パンケーキを熱心につくる柴田さんを見ておく。
卵を割ってボウルに入れ、牛乳を注いで泡立て器でひたすら混ぜる。
色が均一になったら、パンケーキミックスと書かれた粉をガサッと入れ、軽く混ぜる。
フライパンを中火で熱し、ぬれぶきんの上に置く。
そして、高いところから混ぜたものをお玉で一気に落とす。
ぶつぶつが出始めたら、遠慮なくひっくり返す。
最後に、それを皿に重ね、キューブのバターを置いてメープルシロップをかけると完成。
「ど、……どうぞ」
椅子に座っていた私に、柴田さんがメイドのようにパンケーキを出す。それを見て、私は歓声をあげた。
「これ……すごい」
心の底からの褒め言葉だった。パンケーキの形が綺麗な円に揃えられていて、少しずつ溶けるバターと、キラキラと光を反射するメープルシロップは、さらにパンケーキを輝かせていた。
「い、いただきます」
恐る恐る、パンケーキにナイフとフォークを立てる。なんの抵抗もなく、スーッと切れて、一口大になった。メープルシロップの輝きと、ふわふわそうなパンケーキの断面にヨダレが垂れそうになる。
意を決して、パクッと口に入れた瞬間、あまりの美味しさに私は驚いた。ふわっとした生地、滑らかな舌触りのシロップ、ほんのりと感じるバターの風味。何となく、お日様の匂いがした。
私がなんとか褒め言葉を探し出そうと、口の中のパンケーキを最大限楽しみながら考えるが、言葉はひとつしか出てこなかった。
パンケーキを飲み込むと、柴田さんに向かって言った。
「とっても美味しいよ、ありがとう」
柴田さんはそれを聞いて、顔を真っ赤にして、俯いてしまった。それがなんだかおかしくて、思わず笑ってしまう。
柴田さんは少し顔を上げると、笑っている私を見て、少し微笑んだ。
その笑顔は、優しさと母親のような雰囲気のある、魅力的な笑顔だった。
***
谷崎はパンケーキを食べ終えると、僕が赤面して拒否反応を起こすまで、延々と感想を述べた。それは留まるところを知らなかったようで、僕がトイレに逃げ込むまでに、10分間も続いていた。
谷崎は最後に、こう言い残していった。
「テーブルに置いておくからね」
まだトイレに篭っていた僕に、じゃあね、と挨拶をすると玄関の扉が開く音と閉まる音がした。
「帰った?」
そろりとトイレのドアを開け、玄関を確認する。扉は閉まっていた。靴もないし、どうやら本当に帰ったらしい。
そういえば、テーブルに置いておいたものってなんだろうか。
僕はトイレから出て、テーブルの上にあるソレを見て少し驚いた。
ノートの切れ端に、丸っこい文字で電話番号が書かれていた。そして、「私の電話番号」と矢印で指してあった。
谷崎は、個人情報を晒すのに躊躇したりしないのだろうか。……とりあえず、登録だけでもしておこうか。
スマホに電話番号を打ち込み、谷崎と登録しようとしたその時だった。
いや、もしかしたら違う人の電話番号の可能性があるな。そんな考えが頭をよぎる。
ドッキリとかでよくあるやつだ。相手に、自分の友人などの電話番号を渡して、実際にかけてきた相手をビックリさせるというアレ。
……一応、電話をかけてみて、違う人かどうか確認しよう。うん、違う人だったら謝ろう。
そして、番号を打ち込み、電話をかけた。その直後だった。
ピンピロピンピンピロピン
部屋の中に耳慣れない音が鳴った。
***
や、やばい!
まさか、柴田さんが電話をかけてくるとは思っていなかった。急いで電話を切り、また縮こまる。だが、そんな私の抵抗も虚しく、
かけ布団がめくられた。
私はベッドに入り込んで、かけ布団の中で丸くなっていた。だが、柴田さんにめくられたので、もうベッドの上で丸まっているだけになってしまった。
柴田さんは、先程までの弱々しい感じが少し薄れて、ちょっと顔が険しくなっている。
ど、どうしよう。これ、怒られる?
私は怖くて目をつむったが、返ってきたのは、ため息と優しい言葉だった。
「そんなに、ここにいたいの?」
その言葉に、きゅっと閉じていたまぶたが開いた。同時に、
「……へ?」
と思わず気の抜けた声が出てしまう。
柴田さんはまだ少し険しい顔だが、また優しい声で聞いてきた。
「ここに、いたいのかって……聞いてるの」
何となく、柴田さんにお母さんの姿が重なった気がした。私がどちらを選ぼうと、必ず受けて入れてくれる、そんな優しさが柴田さんからも感じ取れたからかもしれない。
私は自分のその直感に従って、返事をした。
「うん、いたい」
柴田さんは、しばらく私の顔をじっと見つめるとぷいっと顔を背けて言った。
「じゃあ、いていいよ……いつでも」
柴田さんはそう言うと、洗い物をし始めた。
私はそんな柴田さんを見て、
「また来ます!」
と言って今度こそ柴田さんの家から出た。
最後に見えた、西日に当たりながら洗い物をする柴田さんは、とっても眩しそうで、顔が赤かった。
***
翌日。朝のホームルームが始まるギリギリに僕は教室に着く。
昨日は散々な目に遭った。今日は何も起こらずに帰られればいいんだけど。
だが、そんな僕の思いは儚く散る。
「おはよう」
と声をかけられた。顔を上げると、谷崎の姿がそこにはあった。そこで考える。
待て、昨日のことを言われたら、僕の学校生活が危ういのでは?だって、入学初日にクラスのアイドルを家にあげたんだ。男子からは、いや、クラス全員から嫉妬の目で見られるに違いない。
そう考えた僕は、谷崎におはよう、と返すと手招きした。案の定、谷崎は顔を近づけてくる。
「昨日、僕の……家にきた、こと。言っちゃ……だめ、だからね……」
僕が谷崎に耳打ちすると、谷崎はコクンと頷いて自分の席に戻っていった。
今の耳打ちで、クラス全員が席から立ち上がろうとしたが、ちょうど先生がやってきて、僕は一難を免れた。
だが1回だけな訳がなく、1限目の授業が終わると、トイレに逃げようとした僕の前に男子が立ち塞がる。後ろには女子が。
前門の男子後門の女子か。
僕はあからさまなため息をつくと、自分の席にとぼとぼと戻っていき、次の授業の準備を始めた。
さすがにそれを邪魔するのは悪いと思ったのか、男女は散り散りになった。
だが、2限目と3限目にもクラスメイトは1度集まる。さすがに、これには苛立ちがつのる。
一体どうすれば現状を打破できるだろう。
4限目の数学の時間、僕はノートの隅に落書きをしながら考える。目の前で教師が黒板に公式を書くのが見えたが、僕の視界はぼやけていって、そのまま意識はまどろんでいった。
***
誰かの声が聞こえる。なんだー?
起きろと言ってるのかー?
うるさい。まだ寝てたいんだよ。
僕の心の声は届かず、相手は声をかけるだけでなく、ほっぺを指で突いてきた。
うー……!やめろ!
「やめろ……」
夢の中と現実で、声が重なる。
眠気眼だが、やっと目が覚めた。上半身を起こし腕時計を見ると、もう昼休み。数学の授業から寝ていたらしい。ノートと教科書が、そのまま机に出されていた。
「……」
ふと、誰かの視線を感じて右を見る。
そこには谷崎が立っていた。だが、少し驚いた顔でこちらを見ている。
「どうか、した?」
谷崎は僕の顔をじっと見たまま固まっている。試しに椅子から立ち上がって、目の前で手を振ってみるが、谷崎は僕の顔があった場所をじっと見たままで、反応する様子はなく、心ここに在らず、という感じがした。
「大丈夫か……」
ペチペチと谷崎の頬を叩き続けると、ハッと声をあげて谷崎の魂が戻ってきた。
「あれなんだね……柴田さんは」
唐突に意味のわからないことを言い出す谷崎。
「寝顔可愛い系なんだね、柴田さんは」
唐突に意味のわからないことを言い出す谷崎!
「はっ!?……」
驚きすぎて思わず手足の力が抜け、自分の席に落ちるように座る。そんな僕を見て谷崎は、クスクスと笑うと去って行った。
「な、……なんだっ、たんだ?」
その後も勤勉なクラスメイトは、僕を休み時間の度に追いかけてきた。
谷崎は遠くでクスクスと笑っていた。