湊 は言葉を失った。
「・・・なつ、き」
陰鬱としたリビングの中で立ち竦む菜月からは生気が感じられず、頬は痩せこけ、手足は棒きれのように細かった。周囲をぐるりと見回してみたが、そこには幸せな新婚生活は微塵も感じられなかった。あちらこちらにシミが付いたカーテン、薄汚れたカーペット。壁やフローリングには不自然な凹凸が出来ていた。
「・・・湊」
湊 は、震える脚を踏み出し、ゆっくりと菜月を抱きしめた。元来、菜月は華奢だったが、今はその四肢はゴツゴツと骨張っていた。
「湊」
ぶらりと垂れ下がっていた菜月の腕が、湊の広い背中に回された。それは小刻みに震え、湊 のスーツの襟を濡らし、やがて嗚咽へと変わった。
「菜月、これはなんなの?」
「賢治さんが」
「賢治さんが、どうしたの?」
湊 はその手首に醜いあざを見つけた。それは既にどす黒く周囲は黄色く変色していたが、明らかに外部から圧を掛けられた痕だった。
「菜月、ちょっと見せて」
湊 が菜月の7部袖を捲り上げようとすると、菜月はその手を振り払った。
「見ないでっ!」
「どうして」
「こんな」
「こんな?」
菜月の目には涙が浮かび、止めどなく頬を伝った。
「こんな、こんなみっともないもの、見せたくない!」
「菜月」
「湊 には、見せたくないの!」
すると玄関先で革靴の音がした。
「では、私に見せて下さい」
そこには、黒縁眼鏡を掛けた竹村誠一が手を伸ばしていた。菜月は一瞬、誰か分からず後ずさったが「あぁ!」と思い出し肩の力を抜いた。
「ええと、湊 のお友達の」
「はい、竹村です」
「県警の方、ですね」
「はい」
湊 は、菜月の引越しの手伝いを竹村誠一に依頼した。
「竹村、手伝って欲しい事があるんだ」
「嫌だよ。たまの休みくらい寝ていたいんだ」
「姉が困っているんだ」
「菜月さんが!どうしてそれを早く言わないんだ!」
携帯電話の向こう側で、竹村誠一が飛び起きた姿が目に見えるようで 湊 は失笑した。やはり竹村誠一は菜月の事を気に掛けているようだ。
「あ、あの」
その竹村誠一が厳つい面持ちで 菜月 を凝視していた。それは警察官の顔をしていた。
「その打撲痕は、ご主人から受けたものですか?」
「あ、あの」
「ドメスティックバイオレンスは立派な犯罪です。傷害罪にあたります」
「そうなんですか」
「はい、お恥ずかしいかもしれませんが、打撲痕の画像を撮影しておく事をお勧めします」
「撮影、ですか」
湊 も同じ意見だと頷いた。
「最近、暴力を受けた事はありますか?」
菜月は言い淀んだ。
「あるんですね?いつですか?」
「その・・・」
「菜月、いつ?いつ、賢治さんから暴力を受けたの?」
「今日、今日の朝」
「どこ!」
菜月は背中を指差した。
「せ、背中を」
「背中を叩かれたの?」
「足で、蹴られ・・・・た」
「蹴られた!?」
竹村誠一は大きく溜め息を吐いた。
「綾野、荷物をまとめたら俺が運んでおく」
「どうしたんだ」
「おまえは菜月さんを病院に連れて行って、他にも打撲痕がないか調べて貰え」
「ああ」
「診断書を貰って来るんだ、忘れるなよ」
「分かった、ありがとう」
3人は菜月の身の回りの物をまとめると、竹村誠一の車に詰め込んだ。それは保険証書や年金手帳、衣類、靴、貴金属など、段ボール5箱分になった。菜月は1年の短い結婚生活に見切りを付け、マンションを後にする。
「菜月、本当に後悔はない?」
「ない、もうここには帰らない」
「分かった」
「あ、忘れてた」
菜月は金庫から冊子を取り出した。
「あぁ、それ」
「そう、マンションの権利書」
グラン御影503号室の権利所有者は綾野菜月だった。今、綾野賢治は砂の楼閣に住んでいるようなものだ。そう考えた菜月は、愚かな夫を心の中で嘲笑った。そして、運転席でハンドルを握る 湊 を窺い見た。
(私には 湊 がいる。 湊 が賢治さんに罰を与えてくれる!)
ウィンカーが左で点滅し、BMWは整形外科病院の駐車場でブレーキを踏んだ。
「さぁ、着いたよ」
「あ、うん」
「僕は待合所にいるから、ちゃんと診断書を書いて貰ってね」
「分かった」
「忘れちゃ駄目だよ」
「うん」
悲しげな微笑みを浮かべて助手席を降りる菜月を目で追った 湊 の胸中は痛み、そして、菜月に危害を加えた賢治に対し激しい怒りを感じた。
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