コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
グルッペンがオーナーとして営業しているジャズクラブ・trigger
大人の危うい魅力がリズムに乗せられ無意識に聞き入ってしまう空間は、誰にも壊せない夜の雰囲気があった。
「お待たせしました、レディ。」
ちゃんと働くのを忘れないでいながら女性のお客様にさながら英国紳士のような笑みを浮かべ、キッチンに戻るまで歩き方や姿勢、表情まで意識する。
綺麗なお姉様方の熱い視線を感じながら満足気に新しい料理を運ぼうとキッチンに入れば、蹲っているチーノが居た。
「え、お前何しとん?」
「兄さんチッス……ちょっとドジりまして、」
見ればチーノの周りには水が零れていて傍にはヤカンがある。状況から推測するに、珈琲を入れようとしたが沸騰したヤカンに焦って止めようとしたところ零してしまったのだろう。
チーノの手は少し赤くなっていて軽く火傷してるのが分かった。
「お前ちゃんと冷やしたんか?赤くなっとるやんけ。」
「ちょっとまだ痛いですかね。それで困ってたんですよ。」
蹲っていたチーノはヤカンを零した際に靴も片方脱げてしまったらしく、痛む手で履こうとしたのだが如何せん手が痛く上手く履けないでいたらしい。
とりあえずこのまま居ては邪魔になるだろうと傍を通ったショッピ君に零れた水とヤカンを片付けてくれるよう頼んで自分らはスタッフルームへ向かう。
自分から他のメンバーに言っておいてやるから少し休めばと言えば、チーノは少し間を置いてから口を開いた。
「大先生。大先生が靴を履かせてくださいよ。」
「はぁ??」
急に何を言い出すんだこの後輩は。野郎の靴を履かせるなんて反吐が出る。自分の優しさはセルフではないのだ。
全力で嫌だと顔に出せば、チーノは意図的に目を細め胡散臭くヘラりと笑っておちゃらけて見せた。
「減るもんやないしいーじゃないですか!それに俺が抜けたら先生の仕事が増えるだけっすよ?片方の靴を履かせてくれるだけで良いんです。」
「お前ほんまに……こういう時だけよく回る口やなぁ?」
「いやぁ、兄さんの指導の結果がこれですから!そんな褒めないでくださいよ!」
確かにチーノの言い分も一理あるし、ここでコイツを置いて行くのは先輩としてどうなのだろうかと無いはずの良心が訴えかけてきたので本当に仕方なく、不本意で靴を履かせる事になってしまった。
チーノに椅子に座ってもらい、脱げた左足に靴を履かせようとする。
「お前、裸足で履いてるから靴擦れしとるやん、ちゃんとしろや。」
「面倒臭いし誰が最初に気づくかなーって思ってそのままにしてました。」
「しょーもない遊びしてんな…」
チーノの左足は少し靴擦れしており、ジト目で見るが何処吹く風で聞く耳を持たない。
「はぁ〜〜〜〜〜。」
わざと大きくため息を吐いてから、まるでシンデレラに靴を履かせるようにして気遣いながら丁寧に靴を履かせる。
そして履かせた後にこれで良いだろと顔を上げれば、チーノは変に上機嫌でニコニコと笑みを浮かべていた。
「いやぁ、流石スター!優しいわぁ。」
「わぁったからはよ仕事に戻れ。俺かてまだ仕事残っとるんや。」
薄っぺらいお礼の言葉にしっしっと手を振ってすぐに仕事に戻る。チーノはスキップしだしそうな程に機嫌がよくその後いつもよりたくさん働いていた。
この人はどんな顔をするのだろうと、もしかしたら嫌がるのではと考えていた。
熱いヤカンを落とし手を少し火傷してしまった。その時に左の靴が脱げてしまって、痛む手で早く仕事に戻ろうと頑張ったがヒリヒリと痛む手ではそれが出来なかった。
早くヤカンも片付けなければいけないのにどうしようと思ってたところで、鬱先生が来てくれた。
最初は履かせてくれなんて言うつもりは無かった。だけど、もし言ったらこの人はどんな顔をするのだろうと思ってつい、いつものヘラりと笑う胡散臭い笑みを浮かべてしまった。
しゃーないなぁという顔で本当に履かせてくれる鬱先生に内心少し驚きながらこそばゆい気持ちになる。
靴擦れしたのを気遣ってまるでシンデレラにガラスの靴を履かせるように優しく履かせてくれる鬱先生。
彼はどっちなんだろうか。
彼は女性に履かせるとしたら、まるで英国紳士を演じ人を誑かす甘い毒の笑みをするだろう。自分はその顔を、泣かされた女性を何回も見た。
彼は男性に履かせるとしたら、これ以上ない程に顔を歪めて嫌そうにするだろう。なんなら唾を吐き捨てそうだ。
だから、自分はどっちなんだろうと思った。
何の感情も乗ってない真顔で王子様を見下ろす。下を向いていて表情は見えなかった。
「はい、これでえーやろ。」
どっちかだと思ってたのだ。
自分のあまり好きではない他所向きの甘い笑顔を向けられるか、他人に冷たくする零度の目を向けられるかのどちらかだと。
だけど、彼はどちらでも無かった。
「っ、」
深海のような瞳は優しく温かみを帯びていて、慈愛が見て取れた。しょーがないなぁ、と子供を相手にする母親のような顔。それで先輩面なんかして。
こちらが気を使わないように大袈裟に反応して、口を尖らせて嫌々やってる風を装って。それでも目つきに全てが現れているこの先輩。
「いやぁ、流石スター!優しいわぁ!」
彼がどちらでも無かったのに酷く安心と満足を得て、自分お得意の胡散臭い笑顔で感謝する。
そうすれば彼は肩を竦めてそそくさと仕事に戻ってしまった。
「なんやチーノ。えらいご機嫌やな。」
「お、ショッピ!んふ、ええもん見れたなぁって。」
「ええもん……兄さんが女性のお客様にビンタされたとかか?」
「それもおもろいけど、もっとええもん。」
「えぇ、焦らしてないで教えろや。」
きっと、彼のあの表情は自分たち後輩にしか向けられない表情。シャオロンさん達でさえ見れないあの表情は、自分とショッピしか知らないという優越感があった。
「大先生ぇ!また靴脱げてもうたぁ!」
「あぁ!?もうお前裸足で働け!!」
自分しか知らない王子様。