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昼食の席。
温かなポタージュを口に運んでも、舌に広がるはずの味は感じられず、どこか遠くにある。
両親を亡くしてからずっと続いている感覚――。食事の喜びが、色を失った世界の中へ置き去りになってしまったかのようだった。
誰にも――ランディリックにでさえ、このことは告げていない。
それでも、スプーンを握る手を止めることはできない。今この席には、クラリーチェ先生が同席しているのだから。
「リリアンナ様、手首を少しだけ起こして。……ええ、そうです。器の底をさらうときは音を立てないように」
柔らかな口調でありながら、指摘は細やかで的確だった。
午前の講義を終えてもなお、彼女の授業は続いている。
「お背筋を……そう、美しく。食事はただの栄養補給ではありません。ご自身をどう見せるか、心をどう整えるか。そのすべてが作法に現れるのです」
諭す声は穏やかだが、瞳の奥は一切の妥協を許さない光を宿している。
リリアンナは作り笑いを浮かべ、言われた通りに背筋を正した。
(味なんて、もうずっと分からない。けれど……先生の前で不出来を見せるわけにはいかない)
そう自分に言い聞かせ、再びポタージュを口に運ぶ。
「よろしい。その笑顔は大切にしなさい」
クラリーチェは小さく頷いた。その声色には、叱責ではなく、どこか娘を見守る母のような温かさが滲んでいた。
リリアンナの胸の奥が一瞬だけズキンと痛む。
(もしお母様が生きていらしたら、こんな風に私を導いてくださったのかしら)
無言で水差しに手を伸ばしかけたリリアンナに、クラリーチェの静かな視線がふと重なった。
その眼差しに気づいた瞬間、リリアンナの手が思わず止まる。
クラリーチェがわずかに首を振ると、侍女が即座に水差しを取り、リリアンナのグラスへ澄んだ水を注いだ。
そのさりげない導きに、リリアンナは頬に熱を覚えながらも、俯きそうになってしまうのを懸命にこらえる。ここで下を向くのは令嬢としてそぐわない行為だ。
(頑張っているつもりなのに……どうして、うまくいかないんだろう)
ウールウォード家で下働きのようにこき使われていたころの癖がなかなか抜けない。
それが、たまらなく恥ずかしく感じられた。
今日は執務が忙しいのか、いつもなら極力一緒に食事をとってくれるランディリックが同席していない。そのことが、逆に有難いと思えたのは、こんな風に優秀な指導役を付けてもらってもなお、なかなか悪癖が抜けないことへの申し訳なさを覚えたからだ。
リリアンナは誰にも気付かれないよう、心の中で一人小さく吐息を落とす。
だが、このときリリアンナはまだ知らなかった。
ランディリックが今日この場に現れなかった本当の理由を。
白雪に閉ざされた町の片隅で、リリアンナの安らぎを揺るがす〝影〟が、静かに忍び寄っていた――。