テラーノベル
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昼食を終えたリリアンナはクラリーチェの指導のもと、帳簿の簡略な付け方や領収印の扱いなど、領地経営に関する日常業務の基礎知識を学んでいた。
淡く光の差し込む書斎の一隅。リリアンナはまっすぐ背筋を伸ばし、ペンを持つ指先を丁寧に動かしていた。
クラリーチェの穏やかな声が、静かな空間に心地よく響いている。
その後方、壁際の目立たぬ場所にはナディエルの姿があった。
リリアンナの集中を妨げぬよう静かに椅子に腰掛け、膝の上には刺繍枠が載せられている。布には、まだ縁取りだけの小さな林檎の図案が浮かんでいた。
それが何になるのかは本人にしか分からない。けれど、一針一針丁寧に動かされる手元は、まるで誰かの幸せをそっと祈っているようだった。
針の動きはあくまでゆるやかで、視線は折に触れてリリアンナの様子を伺っている。
リリアンナが額に手を当てればそっと水差しに手を伸ばして冷えた飲み物を用意し、ページをめくる音が止まれば気遣うようにリリアンナへ視線を送る。
まるで空気のようにそこに在りながら、リリアンナに寄り添う影のようだった。
静寂のなか、不意にコンコン……と扉が控えめに叩かれた。
クラリーチェが手を止め、軽く顎を引いてナディエルへ視線を送る。
ナディエルは静かに頷くと、音を立てぬよう静かに立ち上がって扉へと向かった。
少しだけ開けたドアの先には、執事のセドリックが控えていた。
「お勉強中、失礼いたします。クラリーチェ先生宛に、王都より緊急の書状が届きまして」
そう言って差し出された封筒には、銀の百合の花と逆向きの金の三日月を描いた、繊細な印章があしらわれていた。
荘厳ななかにもどこか静謐さを湛えたその紋章には、誰の目にも一目で〝ただごとではない〟と分かる緊迫感が漂っていた。
「失礼いたします」
ナディエルがそれを受け取り、そっとクラリーチェのもとへ差し出す。
「先生、王都からの急ぎの手紙だそうです」
クラリーチェはその封蝋をひと目見るなり、ほんの少し目を見開き、「……実家から……?」と小さくつぶやいた。
封蝋に刻まれていたのは、彼女の生家――リヴィアーニ家の家紋だった。
クラリーチェは一瞬、顔をこわばらせながらも、静かにそれを手に取る。けれど封を切り紙面に目を走らせた次の瞬間、彼女の表情は見る間に蒼白になった。
「……うそ。レオナルドが……?」
つぶやいたクラリーチェの、手紙を握る指先がわずかに震える。
リリアンナが心配そうにそんな自分の様子を見つめているのに気付いたクラリーチェは、ハッとしてすぐに微笑を作った。
「……申し訳ありません、リリアンナ様。――少し席をあけますね。すぐに戻りますので課題を続けていてください」
できるだけ平静を装った声でそう告げたクラリーチェは、紙面を丁寧に折りたたむと立ち上がった。
はやる気持ちを押さえつつ、裾を揺らしながら部屋を出ると、廊下にはセドリックが控えていた。
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